立身流門を主とした佐倉藩士と警視庁

立身流第22代宗家 加藤紘
佐倉市文化祭剣道大会講話録
平成25年11月3日
於 佐倉市立体育館
[平成25年11月22日掲載/平成26年3月4日改訂(禁転載)]

1.
幕末の佐倉藩領は現在の千葉県佐倉市の他、八街市、酒々井町、富里市、成田市、香取市、印西市、八千代市、四街道市、そして千葉市で江戸湾に通じ、更に山形その他に飛地領がありました。この広大な地域を背景に武道関係でも多くの人材が輩出し、明治期に活躍しました。

2.
佐倉藩で公式に教えられていた剣術流儀は、立身流、今川流、無滞体心(無停滞心、むていたいしん)流(実質は柳生新陰流)、浅山一傳流、中和(ちゅうか)流、の佐倉五流と言われた5つの流派です。立身流以外の4流派は、残念ながらすべて絶えてしまっています。

3.
立身流第19代宗家 加藤久の手による記録によりますと、立身流第17代宗家(藩の役職名としては「刀術師範」。以下同じ)逸見忠蔵源信嚴の主な弟子として次の名が記されています。

半澤成恒(立身流第18代宗家)、逸見宗助(忠蔵の長男)、小川茂(忠蔵の二男)、兼松直廉、村井光智、逸見濃夫(忠蔵の三男、号は無学)、下村国治(忠蔵の四男)、山崎小太郎、細川儀などです。他に、逸見宗助の子として、逸見三郎(中野町住)、逸見四郎(京都市住)の名が見られます。

4.
又、同じく加藤久の記録によりますと、佐倉十人士(正確には「十人衆」)として次の名が記されています。

半澤成恒、逸見宗助、兼松直廉、山崎小太郎、細川儀(以上、立身流)、勝間田彌太郎(今川流宗家)、夏見又之進(無滞体心流宗家 夏見(千吉)巌の係累)、浅井剛勇(画家 浅井忠の叔父)、浅羽成徳(共に、浅山一傳流。宗家は石川左内)、岡隣次郎(流名不明)の10人です。

「十人衆」とは安政2年5月佐倉藩に設置された要人警護の役職です。

5.
明治に入り、警視庁は日本の武道の中枢でした。その警視庁では、逸見宗助等の審査で最高位を2級とする剣術の等級をつけました。加藤久の記録では、2級から7級まであり、さらに2級は上下、3級から7級までは上中下に分けられたとされています。
木下壽徳の名著「剣法至極詳伝」によると、「6級5級4級には各上中下あり3級2級に至りては上下なし」とされています。

いずれにしても1級は空位です。逸見宗助自身には級位がありません。

6.
「剣法至極詳伝」記載の等級姓名表(明治21年頃のものと思われます)によりますと、佐倉藩外の人としては、2級に得能関四郎、坂部大作、真貝忠篤、下江秀太郎、三橋鑑一郎など、3級に千葉之胤、柴田衛守、富山圓など、4級に川崎善三郎、門奈正、内藤高治などがいます。

4級には、新撰組隊士、撃剣師範として名をはせ、戊辰戦争に参加し、明治になって警視庁に入り、明治10年の西南の役で警視庁抜刀隊員として奮戦した、齋藤一の別名の藤田五郎の名がみえます。

7.
佐倉藩から警視庁に入った人たちの級位は、有名な逸見宗助(明治21年当時44才前後。以下同じ)は別格の級外、2級にこれも有名な兼松直廉(50歳前後)や夏見又之進(40歳前後)、3級に村井光智(38歳前後)や勝間田彌太郎(49歳前後)、4級に町田光儀や武藤廸夫、上妻隆行(この3名は立身流)などです。

武藤廸夫は立身流俰の達人であり、逸見宗助と共に警視流柔術の制定に参画しています。なお、級位は不明ですが逸見濃夫も警視庁に入っています。4級に記載されている岡隣太郎は、前記 岡隣次郎の兄かあるいは同一人物かもしれません。
同じく4級に記載されている浅井四郎は、前記 浅井剛勇と関係があるかもしれません。

8.
明治21年当時、警視庁の武道は日本を代表するものでした。このように、佐倉出身武道家は、剣道をはじめとする現代武道の源となったのです。皆さんはその後輩です。この伝統の下、本日は立派な剣道、立派な試合を期待いたします。

(本稿の調査には、佐倉市文化課 宍戸信氏及び佐倉市総務課 市史編纂担当 土佐博文氏のご協力を得ました。有難うございました。)


【参考文献】

  • 「拳法図解 完」 久富鐵太郎著 明治21年1月
  • 「早縄活法拳法教範図解 全」 井口松之助著 明治31年
  • 「剣法至極詳伝 全」 木下壽徳著 大正2年
  • 「警視庁武道九十年史」 警視庁警務部教養課 昭和40年
  • 「立身流之形 第一巻」 加藤高 加藤紘 共著 平成9年
  • 「剣道の歴史」 財団法人日本剣道連盟 2003年
2013年 | カテゴリー : 宗家講話 | 投稿者 : 立身流総本部