立身流について

立身流第22代宗家 加藤紘
千葉県芸術文化団体協議会会報
平成17年9月1日 初出

立身流は永正年間(16世紀初頭)伊予(愛媛県)の人、立身三京に興り、千葉県佐倉堀田藩の藩士教育の重要部分を担ってきた総合武術である。刀術(居合と剣術)が表芸である。千葉県無形文化財に指定されている。分流が中津藩、忍藩、出羽松山藩等に幕末まで続いていた。

現代に伝わる古武道は、戦国時代の戦闘の体系化から始まるものが多い。戦闘は、準備段階での物見(測量、和算)、作戦(兵学)から始まる。馬に乗り、弓、鎗(やり)、長刀(なぎなた、→現代なぎなたへ)、刀術(居合→現代居合へ、剣術→現代剣道へ)、短刀、四寸鉄刀(しゅりけん)等、すべての得物を使いこなさなければならない。得物を失えば、落ちている棒(約6尺)、半棒(はんぼう、約4尺)を拾って闘い、それも失えば素手の俰(やわら、→現代柔道へ)で闘う。立身流には、そのすべてが包含されている。

実技の習得は、主に形(かた)の錬磨によりなされる。形は、動作の決め事で、闘いの経過を技毎に類型化したものである。師が撃ちかかり、門人がこれを対処する形式をとる場合が多い。一般的に、流儀の違いは形の違いに基づく面が大きい。

闘いでは、あらゆる事態に対応し、敵のどのような動きも制しなければならない。その種々雑多な動きから、すべての動きの素となる基本の動きが抽出され、純化される。これが形である。形は単純の中に千変万化を含んでいる。簡素の中に絢爛を包含している。そして、その洗練された動きが様式美を生み出す。

しかし、その美は、技だけでは全うできない。技を修得しても、いざという時にすくんでしまって動けないのでは意味をなさない。  そこで心法の裏付けが必要となる。技法と心法は表裏一体である。立身流俰極意之巻には「心目躰用一致」とある。心法での窮極の精神状態を立身流では「空(くう)」という。

  • 人も空 打たるる我も空なれば 打つ手も空よ 打つ太刀(たち)も空 [立身流理談之巻]

立身流では、驚(キョウ=おどろく)、懼(ク=おそれる)、疑(ギ=うたがう)、惑(ワク=まどう)、緩(カン=ゆるむ)、怒(ヌ=いかる)、焦(ショウ=あせる)を七戒という。これらの生じることなく、しかも満たされた精神状態が空である。立身流極意之巻には「満月之事」とある。

敵を含む環境が、満たされている我に合一化、一体化し、自然化する。そして、我は敵の心を知り、敵に近くなる。敵は我の心を知らず、我より遠い。我は敵を引き廻すことが可能となる。

形には教育課程としての意義もある。芸の習得には時間と数をかけねばならない。できれば心身の柔かい子どもの頃から正しい基本を身につけさせたい。立身流には、一つの形に序(じょ)、破(は)、急(きゅう)の三種がある。序は修行の為の形、破は実戦の形、急は崩しの形、といえる。

序の形に入る前に基本稽古がある。刀術でいうと、桁打(けたうち)、旋打(まわしうち)、廻打(まわりうち)である。入門後三年間はこれら種々の基本稽古だけをするのが常法であった。姿勢、手之内、足蹈(あしぶみ)、発声法などなど、礎となる技を身につける為である。

また、現代合気道に似た形試合、現代剣道の稽古や試合に似た乱打(みだれうち)、現代柔道の乱取に似た乱合(みだれあい)等がある。

【参考】

1. 歌集「黒檜」所収 北原白秋(昭和13年9月15日)

立身流居合   

  • 真竹(またけ)を立身(たちみ)の居合抜く手見せずすぱりずんとぞ切りはなちける
  • 見たりけり斎庭(ゆには)に立つる青竹の試し切りこそうべなーと太刀

 

2. 心得「外(そと)」 (居合目録之巻、立合目録之巻、立身流刀術極意集)

  • (例) 立合目録之巻─門戸出入之事、気遣成所出入仕様之事、気遣成者行違時心得之事、主人召仕極時心得之事、主人エ急成時御刀上様之事 など全25カ条
  • 居合目録之巻─気遣成座敷居様立様之事、殿中提刀 など全13 カ条

(転載不可)

2013年 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部