立身流の歴史

歴代宗家肖像 (江戸後期-明治-大正-昭和-平成(現在))

第18代 半澤成恒 (天保6年-大正4年)第19代 加藤久 (明治17年-昭和23年)第20代 加藤貞雄 (明治43年-昭和59年)第21代 加藤高 (大正2年-平成16年) [提供 剣道日本]第22代 加藤紘(現宗家)  [提供 剣道日本]次期宗家 加藤敦 [提供 金子奈美氏]
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宗家挨拶

立身流は1500年代の初めに興りました。伊予出身の武将立身三京が流祖神妻山大明神に参籠し、向(むこう)、圓(まるい)を始めとする技法と心法に開眼したと伝えられています。立身三京とは、稲葉一鐵の別名である、ともいわれます。刀術を表とし、俰(やわら)や各種武器、物見、首見参、着具次第、弓、馬の心得に至るまで、巾広い総合武道です。
そして、死を考察し、翻って生を模索し、ひいては社会や人間関係のあるべき姿迄求道されています。その研究の成果は15巻の正伝書や多数の古文書に著されると共に、実践として受け継がれてきました。
500年、直系でも21代に及ぶ伝系及び流門の人々の、心血を注いだ研究の成果が、今に伝わる立身流です。剣道、柔道、杖道等の現代武道とも相通じます。このような一つの世界、宇宙とも言うべき体系を、心技共に極めるのは不可能とも言えます。しかし、我々一門は少しでも累代先師の心境に近づくべく努力を続けています。
多数の人に我々の同志となって頂ければ幸いです。


立身流第22代宗家 加藤 紘

千葉県無形文化財保持者
日本古武道協会常任理事
弁護士(加藤法律事務所
)


立身流系譜 (歴代宗家)

流祖   流祖神 妻山大明神 (つまやまだいみょうじん)
立身三京 (たつみ さんきょう)

応仁の乱(1467年)の後、世は戦国時代に入った。伊予国(現在の愛媛県)出身の武将立身三京は。永正年間(1504年から1520年)戦場、真剣試合において一度も不覚をとらなかった。後、妻山大明神(美濃国とする伝書がある)に参籠して悟りを開き、必勝の原理を会得して立身流を創始した。
立身三京は美濃国(現在の岐阜県)と縁が深く、伊予出身 である戦国武将稲葉一鐵の別名であるとの説がある。諱を則正と記す古伝書がある。

第2代
立身石見守 (たつみ いわみのかみ)

立身三京の子。平岡石見守頼勝の別名との説がある。諱を正家と記す古伝書がある。

第3代
立身数馬佐 (たつみ かずまのすけ)

立身石見守の子。平岡石見守頼資(幼名数馬)の別名との説がある。

第4代
三上半之丞 (みかみ はんのじょう)
諱を好成と記す古伝書がある。
第5代
松井琴古 (まつい ことふる)
諱を常好と記す古伝書がある。
第6代
桑島太左衛門 (くわじま たざえもん)
「桑島将監」と記す古伝書がある。
 >立身新流に分岐
第7代
大石千助 (おおいし せんすけ)
貞節。寛文12年(1672年)3月17日付で允許した伝書が数巻現存する。
 >立身当流に分岐
第8代
山口七郎左衛門 (やまぐち しちろうざえもん)
堀田正俊が上野国(現在の群馬県)安中城主であった頃、城下の町道場に於いて立身流を指南していた。七郎左衛門は浪人であったらしく、堀田家との関わりは公的記録に残っていない。

堀田家は、寛永19年(1642年)正盛が佐倉11万石に転封されて初めて佐倉との関係が生じた(前佐倉堀田家)。寛文7年(1667年)正俊が安中城主となり、古河、福島を経て(正仲の代)、元禄13年(1700年)に正虎が山形に転封された。正直、正春を経て、延享3年(1746年)正亮が佐倉城主となり(後佐倉堀田家)、以降明治に至っている。山形には飛領があり、陣屋が存在し柔術所や刀衛所も設置されていた。
第9代
竹河九兵衛 (たけかわ きゅうべえ)
この九兵衛の弟子の中に、羽州山形に出生し、正徳4年(1714年)死亡した者の記録がある。第10代宗家の事跡を併せみると、九兵衛は、先代から始まった堀田家との関わりを保ち、山形に転封された堀田正虎と行動を共にしたと考えられる。諱を正恒と記す古伝書がある。
第10代
糟谷団九郎 (かすや だんくろう)
堀田家の記録(保受録)によると、団九郎は、正徳4年(1714年)に出羽山形藩主堀田正虎によって召し抱えられた。享保5年(1720年)2月には、捕手指南に励んだ為、加増された。同年4月には「抜刀捕手」の稽古を行った。その結果、立身流は藩の武芸として採用され、風呂殿を改造した稽古場が与えられた。ところが団九郎は、堀田正亮の代に御役儀に不埒のかどがあるとして、藩を追放された。その後、彼の子孫は明治時代まで佐倉に在住していた。旧姓佐倉中学校で第21代宗家加藤高の友人だった糟谷宰である。
第11代
逸見柳芳 (へんみ りゅうほう)
流儀研究を深め、解釈を加え、教育体系としての整備を施して後々に影響を与えたと伝えられる。
第12代
逸見宗八 (へんみ そうはち)
柳月と号す。宗八満信。寛延2年(1749年)に藩主堀田正亮に召し抱えられた。その後、柔術師範として加増されている。宗八満信には、嫡子が無かったので、安永2年(1773年)8月16日に佐倉藩士村松代十の三男代十郎を養子に迎え翌年12月9日病死した。
第13代
半澤喜兵衛 (はんざわ きへい)
宝暦21年(1762年)12月6日斧松を喜兵衛と改名した。逸見宗八満信の死により、その養子新九郎の免許皆伝迄の間、門弟の取扱と流儀の執行を藩より申し渡され、立身流第13代宗家となった。享和2年(1802年)10月11日には祖父名権右衛門を襲名した。文化2年(1805年)に新九郎が世を去ると、再び宗家(第15代)となり流儀をつたえた。文化8年(1811年)に他界した。
第14代
逸見新九郎 (へんみ しんくろう)
安永4年(1775年)2月、逸見代十郎は亡き父宗八満信の後を継ぎ、満直と改名した。しかし家業については免許皆伝迄の問、半澤喜兵衛が門弟の取扱と流儀の執行をするように藩から申し渡された。寛政元年(1789年)正月29日、満直は免許となったが未だ流儀の皆済がない為、流儀皆済迄は引続き半澤喜兵衛が後見した。寛政4年(1792年)5月19日、亡父名宗八を襲名し、11月立身流皆伝を半澤喜兵衛より許され、立身流14代宗家となった。同9年(1797年)5月8日新九郎と改名し、文化2年(1805年)7月23日に病死した。
第15代
半澤権右衛門 (はんざわ ごんえもん)
前述の通り、第13代宗家半澤喜兵衛と同一人物である。
第16代
逸見宗八 (へんみ そうはち)
新九郎の嫡男の辰之助は、文化2年(1805年)8月15日、亡父の後を継ぎ、満明と改名した。その2年後には半澤権右衛門(半澤喜兵衛と同一人物)から16代宗家を襲名し、隠居した後、天保9年(1838年)5月20日、病死した。
第17代
逸見忠蔵 (へんみ ちゅうぞう)
文政12年(1829年)6月22日、父宗八満明の病気隠居により、父の後を継いだ。しかし、流儀については未だ免許皆伝になっていなかった為、根本官七が門弟を指南し免許の伝授も行うことになった。その後、忠蔵は父宗八満明から免許皆伝を受け、第17代宗家となった。宗家となった後も、武術師範精励により藩主堀田正睦から紋付麻上下、野羽織の拝受や十人衆頭としておこなった武術家統率、成徳書院での各種役職の歴任等により、立身流の名を広めていつたことは、流派伝承の上でも大きな功績と言える。明治14年(1881年)までは、活躍していた記録がある。
第18代
半澤成恒 (はんざわ なりつね)
天保6年(1835年)4月1日生まれ。幼名駒太郎。半澤権右衛門の実弟の孫にあたり半澤家を継いた。幼少より立身流修行に励み、逸見忠蔵より嘉永5年(1852年)2月21日に立合(剣術)目録を、同6年(1853年)4月18日に居合目録を、安政3年(1856年)3月に刀術相伝免許を受けている。修行を重ね、18代宗家となる一方で、藩士として、嘉永6年(1853年)異国船渡来に備え出役し、安政2年(1855年)には大筒方を勤めた。成徳書院の演武場では、十人衆、吟味役見習、刀術世話役等を歴任した。
万延元年(1860年)8月29日、成恒は刀術修行の為、出府を仰せつけられ、桃井春蔵門下に入り、数年後塾頭となり、文久3年(1863年)5月帰藩した。幕末京都出兵の際、薩摩藩兵に対して、立身流をもって戦った体験談が詳しく伝えられている。
廃藩後、後輩の逸見宗助、兼松直廉、村井光智等が続々と、警視庁へ奉職し、剣術師範等になったのに対し、成恒は、当時衰微一途を辿りつつあった藩剣術を憂い、生活の困窮にも関わらず、立身流立成舎(立精舎)を創立し、立身流の普及、発展に努めた。
しかし成恒は、「立身流以外は剣に非ず」と豪語して憚ららなかった為、人々に「時代の移り代わりを知らない奇人」と言われた。又、その稽古は猛烈を極め、為に門人達は次々と離れていった。維新後、佐倉藩山形領から帰った門弟の演武する形が崩れていた為に激怒し、これを矯正する稽古の厳しさは、人々を震えあがらせた。大正4年(1915年)3月9日、81才で没した。
第19代

加藤久 (かとう ひさし)
明治17年(1884年)1月1日生まれ。忍耐に忍耐を重ねて修行し、半澤成恒から免許皆伝を授けられ、宗家を譲られた久は、今日、佐倉市の 弥富の地で、「弥富聖人」と呼ばれている。これは、久が武術以外に人格的 にも優れていたことを示すものであり、顕彰の碑文には数々の逸話が 刻まれている。

・高野佐三郎、中山博道について学び、明治神宮大会等に出場する。持田盛二は師であり親友であった。
・大日本武徳会から剣道、居合術両道の教士の称号を授与された。
・部隊将校団、憲兵隊、警察、武徳会、古武道振興会の師範として、斯道の振興に力を尽くす。その佐倉連隊将校団は師団競技会に3年連続 優勝を飾った。
・昭和15年(1940年)、ヒットラーユーゲント来日に際して、政府の要請により 立身流居合及び試し斬りを行い、称賛された。
・関東大震災の時、佐倉で虐殺されそうになった朝鮮人6名をただ一人で庇護し、内務大臣に表彰を受けた。

久は高野佐三郎の門下生となったのは師である半澤成恒の紹介によるもので、 このとき成恒は、「お前に教えることはもう何もなくなった。高野は将来立派に 大成する男だから、高野の下で修行してこい。」と言って紹介状を 書き与えたという。
久は高野佐三郎から一刀流の伝書を授けられている。しかし、半澤成恒の 最晩年迄、久は中気を病む師から道場の床板に布団を敷きつめて俰(やわら)の稽古をうけていた。
立身流伝承者として、柔軟な考えの持ち主であったので、従来の体で覚え込む 修行法のみを改め、技を分解し、立身流の極意を分かり易く門人達に伝えた。
余興を求められ、腕組した両手を堅く練らせて抜刀し、 これは居合ではなく曲芸です と恥じた話、呪文を唱えたら泥棒が引き返して来た話、等々枚挙に暇がない。 久は、数抜き(立身流独特の稽古法)を3万本通している。その試し斬りも有名で あり、様々に言い伝えられ、又著作に示されている。次にその一文をあげる。

「据物切りでも有名な、中山博道先生は、軽妙な居合の姿勢で軽く切るが、その手は鮮やかである。加藤久といふ斯道の大家の切り方を見たが、忍び寄る様な姿勢で、気合で切る。力は形の上には微塵も見えない。こうした据物切りになると、もはやそれは精神鍛練の域であり片現である。」 (文芸春秋 昭和14年5月号 成瀬關次)

昭和23年(1948年)1月21日死去。

第20代

加藤貞雄 (かとう さだお)
明治43年(1910年)5月2日 加藤久の長男として出生。父久につき、幼少より剣道、立身流を学ぶ。剣道は持田盛二の指導も受けた。久を補佐し、立身流や武術関係の資料収集にも功績があった。全剣連剣道教士・居合道教士となる。当代宗家と比較した個性として 「貞雄は軽い刀を重くつかい、高は重い刀を軽くつかう」と評 された。日本古武道振興会の当初からの会員として活躍した。流門の逸材が相次いで戦死した第二次世界大戦後は、弟高と共に立身流の隆盛に尽力した。千葉県指定無形文化財保持者。昭和59年(1984年)12月3日死去。

第21代
加藤高 (かとう たかし)

大正2年(1913年)7月25日 加藤久の次男として出生。父久につき、幼少より剣道、立身流を学ぶ。佐倉中学校、国士館専門学校国漢併修剣道科を経、以降も高野佐三郎、中山博道、持田盛二、斉村五郎その他多くの 剣士に指導を受けた。昭和12年(1937年)5月大日本武徳会より剣道五段、直ちに剣道錬士(同年までは剣道の段位は五段までで、その上に錬士、教士、範士が置かれていた)、居合術錬士を授与された。居合では最年少錬士であった。全剣連居合道範士。剣道教士、日本古武道振興会会長、日本古武道協会常任理事、千葉県剣道連盟参与 ・千葉県指定無形文化財保持者であった。平成16年3月27日死去。

第22代(現宗家)

加藤紘 (かとう ひろし)
昭和19年(1944年)6月20日 加藤高の長男として出生。幼少より父高、伯父貞雄、流門の皆伝師範長野弘、同大木邦明等につき剣道、立身流を学ぶ。 昭和56年(1981年)12月立身流免許皆伝を高より允許される。千葉県指定無形文化財保持者。平成22年(2010年)11月に文部科学大臣より地域文化功労者として表彰を受ける。
日本古武道協会常任理事、元日本古武道振興会常任理事。弁護士。