日本伝統武道に於る真の技~立身流直之巻より

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和4年(2022年)9月4日掲載(禁転載)

第一、はじめに

 立身流修行上、5巻目の傳書として授与される立身流直之巻は、立身流の「各目録の記載内容や口傳(くでん)などを総括」したもの(拙稿「立身流傳書と允許」以下拙稿傳書という・拙著立身流之形第二巻(以下、形二という)128頁)とされます。
 しかし、3巻の目録に記される形名を含め、形の名称は一切、直之巻には出てきません。目録3巻の段階は形とその変化の習得が主眼です。形の名称も記載されないで各目録の内容の総括、とはどういうことなのか。
 また、立身流正傳書15巻のうち直之巻に続く計10巻中には、傳技(拙稿「立身流に於る形・向・圓・傳技・一心圓光剣・目録「外」(いわゆる「とのもの」)の意味」(以下、拙稿形という)・形二112頁)と向圓以外の形の名称は記されません。そこにはどのような意味があるのか。
以下では、立身流直之巻をとりあげて、日本伝統武道での技の意味と形との関係、心法と技法、そして傳書との関係を探ってみます。

第二、立身流直之巻の記載

一、巻名は立身流直之巻(たつみりゅうちょくのまき)です。
(1) 直とは、まっすぐなこと、まがらないこと、まげないことです。
 武術の技法心法では、まっすぐでないことを嫌い、まげることを嫌い、まげないようにすることが求められます。これが武術の美しさにも通じていきます(中山博道先生につき、拙稿「立身流に於る「…圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理…」(立身流變働之巻)」(以下、拙稿圓という)参照・形二92頁)。
 ところが、まげない、ずれないようにするのは非常にむつかしい真の技というべきものです。生半可な修行で身につくものではありません。直之巻は、その技を身につけるため更に分析を加え検討したものです。

(2) 「直」の語について、直之巻以外の立身流傳書等に示される記述から幾つか挙げてみます。
技法に関して
「目付三段九ヶノ内身体ヲ打ツ所ハ只一カ所二止ㇽ 此ノ打ヲ打損セヌ様二相討二可打(あいうちにうつべし)(これ)直ノ打也」
          (立身流秘傳之書、拙稿圓参照・形二96頁)
心法に関して(拙稿「立身流に於る「心の術」」参照・形二97頁)
「心をば直なる物と心得て しめゆるめなば曲るとぞしれ」
                   (立身流居合目録之巻)
「心をば曲れるものと心得て 常の常にも正直(せいちょく)にせよ」
                   (立身流居合目録之巻)

二、立身流直之巻の本文
(1) 全体を直にする要素として更に分析されて得られた真の技から、例として11ヶ条の項目をとりあげ、各条毎に態様を三段に分けて説明しています。
 直之巻の歴史や、十一カ条三十三段之分から成り立っていること、及びその第八条「手内」については、拙稿圓(形二・91頁以下)に説明しました。

(2) 全条は次のとおりです。
 第一条  目付 
 第二条  身掛
 第三条  柄鞘手付
 第四条  抜掛
 第五条  抜放
 第六条  腰出
 第七条  足出
 第八条  手内
 第九条  二之太刀
 第十条  肱
 第十一条 心持

(3) 三十三段については省略しましたが、例えば第一条 目付には「上 中 下」(立身流秘傳之書には「北斗之見込」とあります)、第二条 身掛には「縣 常 刎」、第八条 手内には「堅 諸 緩」(立身流秘傳之書には「卵合セノ場」とあります。拙稿圓・形二91頁、96頁、拙稿「立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)・形二121頁等参照)となっています。

三、立身流直之巻の歌二首
一首目 
本能身盤 行久毛留るも 飛ハ猶 心耳満可世 叶ふ身登知れ 
(もとのみは ゆくもとまるも ひくはなお こころにまかせ かなうみとしれ)
 拙稿圓・形二95頁、91頁に記した歌です。

二首目  
残さし登 弟子耳は いひ天 可久寿万し 心能いとは な二と はらさん
(のこさじと でしには いいて かくすまじ こころのいとは なにと はらさん) 
 共に、拙稿「立身流に於る、師、弟子、行儀、と、剣道の「一本」」・形二88頁に記した歌です。

第三、直之巻が「各目録を総括」する、とは

一、言い換えれば、各種形の総括ということです。ということは武術の技法の総括ということです。
 その総括の仕方は、各種形に共通した要素、形や形の体系を通じて修得すべき要素、すなわち真の技の項目を例示(11ヶ条)してそれぞれの内容(33段)を示す方法でなされています。
 具体的な形そのものから離れて、質的な分析と統合を図り、各種形に共通する、真の技(業)の理合を探っているわけです。
 極端にいうと、形という方便の修行により取得すべき本当の技です。
 その意味で、立身流直之巻は武術の技法についての一応の総まとめであるといえます。
 逆にいうと、11ヶ条33段などの記載内容を念頭におかない形稽古は、意味のない、無駄な、あるいは有害な稽古になってしまうということになります。刀術だろうが、俰(やわら)だろうが、鎗術だろうが、その他の武技だろうが、同じです。
 そして、立身流直之巻の記載内容を念頭においた稽古をつけるのが師匠の役目の一つです。
 勿論、直之巻以降も形による錬磨が続けられます。武技の種類も、形の数も増えてゆき、しかも全体が上達していきます。そして最後には又、向圓に収斂(しゅうれん)します(一心圓光剣については拙稿形・形二112頁参照)。

二、立身流直之巻では刀術を念頭においたまとめがされています。
 他の武技にはこれらが応用されます。
 また、武技に入る前の段階、例えば礼法に関する記述などはありません。
 したがって、姿勢(竪Ⅰ横一)や歩き方(足蹈)等について直接の記載はありません。
 しかし、例えば、「身掛」(拙稿「立身流居合に於る鞘引と鞘(の)戻(し)~立身流歴代宗家の演武写真を参考にして~」・形二113頁)は姿勢や間合を前提とし、「足出」は足蹈を前提とするものです。

第四、ここで、直之巻を含む立身流上傳4巻の体系的位置を探ってみます

 上傳には他に、立身流變働之巻、立身流理談之巻、立身流別傳之巻があります(拙稿傳書)。技法と心法の結節がこの四巻で図られています。
 特に理談之巻は、立身流ひいては日本伝統武道の秘術、すなわち技法とこれから本格的修行に入る心法につき36首の道歌によって全体的に評論しています。    
 直之巻の理解を助けて更に深めもので、直之巻と特に関係深い巻だといえます。他の2巻については後にふれます。

第五、技法・心法と立身流正傳書15巻の関係

一、武術修行内容の主眼が修行者の上達に伴い変遷し、その変遷に伴って傳書が与えられます。
 形を通してであることは変わらないのですが、身の動き(技法)から心の動き(心法)に修行の主眼が移ります。

二、序之巻に続く目録3巻での修行
 前述のとおり、技法中心です。
 前記直之巻一首目の歌に少しでも近づこうと努力します。
 しかし、この段階でも、傳書等で心法についての記述が折に触れなされ、心技一体を修行者になんとか理解させようとしています。前記一首目の歌も「心にまかせ」となっています。

三、上傳4巻は前述のとおり技法と心法の結節を図っています。
(1) 前記直之巻二首目の歌に注目してください。
 何でも隠さずに全て教えるけれど、心法については自分自身で自得するしかないのですよ、本来教えようがないものなのですよ、と言っています。
 
(2) 立身流變働之巻(拙稿圓・形二91頁)は技法と心法が結節する一点を圓を例として説明し、「以未抜之前為要者乎」(いまだ ぬかざるのまえをもって ようとなすものか)とします。
 立身流理談之巻には
古い口能 盤奈禮きワこ楚 たいし奈連 抜す尓き連よ 抜て切るまし
(こいぐちの はなれぎわこそ だいじなれ ぬかずにきれよ ぬいてきるまじ)
とあります。

 變働之巻や理談之巻を与えられる者はこのような思索をするに熟し、感覚的体験的に理解できる能力がある、とみなされるのですから、技法から心法への主眼点の移行は必然というものです。

(3) 立身流變働之巻と立身流別傳之巻(拙稿傳書・形二130頁)は相まって技法の応用や広がりと深化を方向します。

四、奥傳3巻
 この3巻は、心法について教え説明し、これをなんとか伝授させようとするものではありますが、修行者にとっては自得の手助けにしかなりようがないものです。
 技法とともに、いよいよ本格的に心法の修行に入ります。
「武道全般の心法を述べ、さらに更にその礎である、人間、生死、世界、宇宙を考察する。」(拙稿傳書・形二130頁)ものです。

五、他の傳書については拙稿傳書を参照してください。

第六、向、圓への収斂と現実への対応

「日々夜々に向圓を抜くならば 心のままに太刀や振られん」
                   (立身流理談之巻)

一、心のままに太刀を振る技、武術の真の技は主に形修行の中で身につけていきます。
 正確に形を行い、数を重ねれば必ず身についていく、身につけるのに最適な動き、身につかざるを得ない動き、これが形です。その究極の形が立身流でいえば向圓です。向圓は秘剣です(拙稿形・形二110頁以下に詳述)。

二、拙稿形で説明しましたが、向と圓の動きは、一面では対極にあります。
 例えば向請の間合は最も近く、圓抜の間合は最も遠い。向と圓を身につければ、その時使用する刀の長さでの間合の全てを身につけざるを得ません。また、向は真下から抜きつけ、圓は真上から抜きつけます。向圓を併せて秘剣であるゆえんです。

三、現実への対応のためには、組居合や乱打、乱合に至る稽古をすることにもなります(拙稿「立身流について」・形二・87頁参照)

第七、立身流直之巻の展開

一、以上、武術の真の技は形の錬磨によって得られていくものではありますが、形の手順や所作の奥に潜んでいるものです。
 真の技をもとめずに、あれこれ手順や所作を工夫するだけの研究は有害無益です(拙稿形・形二112頁参照)
 「相手がこう来たら、こう防ぐ、ああすれば、こう行くなどと考えては、相手の刀に心を止めているからそういう気持が起きるのであって、いつも相手の後ばかり追って、最後には相手にやられてしまうのである。」(論考「古武道に学ぶ心身の自由(一)以下、論考自由という・拙著「立身流之形第一巻改定版」(以下、形一という)170頁)
 いわんや、形と無関係な思いつきでの手順や所作は、古武術古武道修行と無関係です(立身流入堂訓第9条・形二巻頭参照)。
 異なる流派の場合は異なる形を錬磨することになりますが、形の見かけ上の手順所作が異なっていても、日本武術武道として求める真の技は同一のはずです。

二、立身流直之巻 第七条 手内を例にとってみます。
 その内容については前記しました。
 拙稿圓・形二96頁から立身流秘傳之書の一部を抜粋します。
 「…是レ手之内ノ陰陽也。…陰中陽、陽中陰也。諸流共二同ジク之ヲ秘ス。卵合セノ場也。…」
 すなわち、手内については、諸流みな秘密にして隠している、というのです。
 ということは、形の異なる諸流派にも「てのうち」の概念があった、ということです。

三、形の相違と真の技、心法
(1) 上述した真の技や心法は、形の異なる他流派間に於ても、異なるべきものではありません。
 大正4年1月吉晨付で立身流第19代宗家加藤久が一刀流兵法14代高野佐三郎豊正先生から授けられた(形一6頁参照)「一刀流兵法十二箇条目録」の一条目は「二之目付之事」、六条目は「目付之事」です。立身流直之巻の第一条は「目付」です。
 よく言われる、流派が異なっても行きつくところは同じ、とはこのような意味です。
 論考自由(形一169頁以下)を参照して下さい。
(2) ですから、高い程度に達した人ならば、他流派の先達に師事することも可能となります。加藤久は前記高野佐三郎先生に師事し(論考「以先戒為宝」・形二147頁)、中山博道先生に随身しました。
 「わけ登る麓(ふもと)の道は多けれど 同じ高嶺(たかね)の月をこそ見れ」
        (論考「居合術の目的と其の修行」形二148頁)

四、したがって
(1) 他流を観取る稽古も可能ですし重要です。拙稿「立身流に於る「観取稽古」」(形二100頁)を参照してください。

(2) また、他流や種目が異なっても、その人の質や稽古量の程度はわかるものです。
 形が違うのだから、流派が異なるのだからわからない、と思っている人がいます。そのようなことはありません。
留意すべきです。
 「こなれた身」「手之内」に関しては拙稿圓・形二91頁以下を参照してください。刀術そして武術は微妙精密であることについては拙稿「立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)」・形二120頁を参照してください。

五、「形は人によって良くなる。良い形も人によって悪くなる。要は人だ。流儀の良し悪しも人によってきまってくる。」という、父・髙の言葉(拙稿圓・形二92頁)が響きます。

以上