立身流第21代宗家 加藤 高
初出昭和53年(1978年)8月1日発行
1978 月刊剣道日本 8月号
令和3年(2021年)2月27日掲載/令和3年(2021年)3月3日改訂(禁転載)
立身流の極意とする技について、つぎのような道歌があります。
三つの太刀 清く清きぞ此の勝身 斬ると思ふな打つと思はじ(註1)
三つの太刀とは「三光の勝」(註2)つまり月の太刀、日の太刀、星の太刀(註3)のことで、この三光の太刀こそ、技のうえでは極意中の極意とされるものですが、じつは、それは入門と同時に傳授される「向(むこう)」「圓(まるい)」の秘太刀を、執心こめて抜き続けるうちに、いつしか到達する心技一体の姿です。
「向」「圓」をここまで抜き続けると、いっさいの無駄な所作や虚飾は消えうせ、どこにも付け入る隙がなくなるというものです。
さらに、究極としては、身体を動かすことそれ自体も無駄となり、動かすのではなく、ただ無心にはたらく(註4)という境地を求めていくことになります。
立身流の極意をあらわす言葉として「満月の位」(註5)がありますが、満月は圓相の表現です。圓は太極(註6)に発して、天・地・人の曲尺合(かねあい)(註7)をもってはたらき(術)、互いに徳(註8)をそなえて(心)、ふたたび太極に納まり、尽きることなく循環するのです。
この満月の位に立って敵に向かえば、なに一つ迷いを生じることもなく、敵に対して、ただ無心にはたらく(術)ばかりで、動も静も互いに循環して途切れることを知らないというのです。
図(註9)中の我は一つであり、圓相をなしています。無意、無心、無固、無我(以上、註10)その心境は鏡のようであり、変働無常、転化自在、ただ、天理にしたがってはたらくばかりです。
八方の敵は、おのれの象(かたち)に偏し、方相をなして暗く、計りごとをもって円相を破ろうとねらい、勇を励まし、ますます堅強濁重の気をみなぎらせています。間をはかり、機をみては斬りつけるのですが、囲中の我をどうしても破ることができないでいる図です。
道歌でも、つぎのように謳っています。
三つ四つ五つに叶ふ曲尺なれば 時にのぞまば曲がらじと知れ(註11)
天地人の曲尺合に熟達すれば、いつ、いかなる場にのぞんでも、おくれをとることはない、ということです。
立身流では「心の曲尺、太刀の曲尺、身の曲尺」(註12)といって、心技体の三者が、相互のバランスを保ちながら、あるいは大きく、あるいは小さく、さまざまな圓を構成して芸術の極致をつくりあげています。
角のあるものや直線的な運動は衝突して壊れますが、圓運動は衝突せず、壊れることもなく、相手も傷つけません。
現代剣道では、かなり高段者のなかにも、直線的な運動をされているかたを多く見受けます。これは、一つの勝れた技だけを頼りにやれる競技本位の風潮が、剣本来の姿を変えてきているのではないかと考えます。今一度原点に立ち戻り剣道のなんたるかをつかんでほしいと思います。
出典等
(註1)立身流極意之巻
(註2)立身流極意之巻
(註3)立身流極意之巻
(註4)立身流變働之巻
(註5)「満月之事」立身流極意之巻
(註6)立身流眼光利之巻
(註7)立身流三四五曲尺合之巻
(註8)立身流俰極意之巻
(註9)「八方詰之圖」立身流三四五曲尺合之巻
(註10)立身流三四五曲尺合之巻
(註11)立身流三四五曲尺合之巻
(註12)「身の曲尺と心の曲尺と太刀の曲尺 ただ直にせよ 三つの曲尺合」立身流立合目録之巻
(ルビ及び出典等の註は立身流第22代宗家 加藤紘による)