立身流と無住心剣

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和3年(2021年)7月20日 掲載(禁転載)

第一、はじめに

立身流傳書「立身流三四五曲尺合之巻」(たつみりゅう さんしご かねあいのまき。立身流曲尺之巻ともいう。)については、拙稿「立身流傳書と允許」「立身流古文書に於る不合理的表現の合理性」「立身流傳書・古文書等の東北弁表記~「手舞足蹈處皆一物」等に関連して~」等で触れました。
立身流誠心之巻(たつみりゅうせいしんのまき)についても拙稿「立身流傳書と允許」で触れました。
以下ではそれらでの記載に加え、立身流と無住心剣(むじゅうしんけん)の関係を探ったうえ、日本武術武道理論の深化や広がりの様子、ひいては江戸時代の日本での学術進化発展の様子の一端をみてみます。武術武道を心法と技法から理解しようとするならば、その心法の場面です。

第二、立身流秘傳之書と立身流曲尺之巻および立身流誠心之巻

1、立身流には、第17代宗家逸見忠蔵偏の「立身流秘傳之書」があります。
その中には、次に記す2編の長文の写本が、次の順序で綴じこまれています。

①「貞享三丙寅夏六月三日 針谷夕雲無住心剣傳法嫡子 小出切一雲誌焉」(じょうきょうさん ひのえとら なつ ろくがつみっか はりがやせきうん むじゅうしんけん でんぽう ちゃくし おでぎりいちうん しるす)と最後尾に記されているもの。
内容は「天眞獨露(てんしんどくろ)」の表題で知られている、文章と11種の図(一種の図が数回示されたり、文中に示されたりする)ですが、立身流に伝わる写本には表題がありません。
貞享3年は西暦1686年です。

②「無住心剣元祖針谷夕雲傳法嫡子 小出切一雲誌焉」と最後尾に記されているもの。
内容は「夕雲流剣術書」の表題で知られている文章ですが、立身流に伝わる写本には表題がありません。

2、立身流曲尺之巻
(1)現代に伝わる立身流曲尺之巻にはその記載内容に4つの形態があります。

ⓐ、「夫曲尺之三四五者天地人也…」(それ かねの さんしごは てんちじんなり。…)から始まり、「…三川四つ五川丹叶婦 曲尺奈連盤 時耳乃曽満者 まからし登知れ」(…みつよついつつにかなう かねなれば ときにのぞまば まがらじとしれ)
の道歌で終わるもの。
立身流曲尺之巻は立身流第11代宗家逸見柳芳が加えた巻と伝えられていますが、この部分は、その柳芳筆の曲尺之巻の本体部分と理解できます。

ⓑ、上記ⓐの本体部分の前に、「立身流利談有三四五曲尺命…」(たつみりゅうりだんに さんしごのかねとなずくるものあり。…)から始まり「…顕當流秘術之奇珍而已」(…とうりゅうひじゅつの きちんを あらわすのみ。)
までの文章が加えられているもの。
この部分は巻を加えた経緯を説明したもので柳芳自身の言でしょう。前出拙稿「立身流傳書・古文書等の東北弁表記~「手舞足蹈處皆一物」等に関連して~」の第二、三の記述を参照してください。

Ⓒ、上記ⓑに加え、ⓐの次行に「右」と記され、その後に第一、1に前記した①の中から八番目の種の図および次の文が抜粋されて付加されているもの。
「八方詰之圖 以吾流論之則圖中一圓相無意無心無固無我明歴々変動無常轉化自在而獨全之象天理之本然也…」(はっぽうづめのず わがりゅうをもって これをろんずれば すなわち ずちゅうの いちえんそう むい むしん むこ むが めいれきれき へんどうつねなく てんかじざいにして ひとりまったきのかたち てんりのほんねんなり。…)
から始まり
「…謂之中和於中得之難矣」(…これを ちゅうかという。ちゅうにおいて これをうることかたし。)
に終わる部分。
「八方詰之圖」が八番目の種の図で、宗家論考におさめた父・高の「すべて圓相のもとに~立身流傳書より」に掲載される図とほぼ同じです。

ⓓ、上記Ⓒから上記ⓑの部分が削除されているもの。

(2)私の授かった曲尺之巻はⒸの形態によるものです。

3、立身流誠心之巻
前記した第一、1の①の中から次の二か所の文、および一番目の種の図すなわち中が白(黒でない)の円形図が抜粋されて記されています。
一カ所は「凡諸人氣有四種之分……陽而輕矣其象圓也清中清學而習則成聖之氣也」(およそ しょにんのき よんしゅのわかちあり。……ようにしてかるし。そのかたちえんなり。せいちゅうのせい まなびてならわば すなわち ひじりとなるのきなり。)の部分
「陽而輕矣」の前に、一番目の種の図が描かれています。

二カ所目は「已學而移習而熟則如此……若有少間断則禀受一点之濁兆干清中必矣」(すでにまなびてうつり ならいてじゅくすれば すなわちかくのごとし。……もしすこしくかんだんあれば すなわち ひんじゅいってんのだく せいちゅうにもとめるのきざし ひっせんや。)の部分
立身流誠心之巻は、立身流秘伝之書に綴じこまれて立身流に伝わっている小出切一雲の研究書(伝書)の中の①から、一番目の種の図及びこの図に関する記述等の二か所を抜き書きして立身流の一巻とした形です。

第三、立身流曲尺之巻と立身流誠心之巻を含め、私に伝わる立身流正伝書15巻をこのような形式に完成したのは、幕末の第17代宗家逸見忠蔵です。

1、立身流曲尺之巻について
(1)逸見忠蔵より前の代に発行されたものにⒸⓓの形のものはありません。
 例えば、立身流第12代宗家逸見宗八が立身流第13代宗家半澤喜兵衛に授けた安永三甲午(1774年)十二月吉日付「立身流三四五之傳」はⓑの形式です。
(2)他方、逸見忠蔵以降の伝書は、ⓑ、Ⓒ、ⓓの各形式のものが混在します。
 忠蔵が©の部分を加えた上、被授与者ごとに記載形式を変えた故と考えられます。

2、立身流誠心之巻について
この巻に忠蔵より前の代に発行されたものはありません。
立身流誠心之巻は立身流正伝書15巻の中でも、最後に、幕末、第17代宗家逸見忠蔵によって加えられた巻です。

第四、立身流曲尺之巻を著して立身流正傳書に加え、更に参考として小出切一雲の書写をその旨を明示したうえ立身流の併伝文書としたのは第11代宗家逸見柳芳です。

1、まず、立身流曲尺之巻の原作者が立身流第11代宗家逸見柳芳であることを示す事項です。
(1)立身流曲尺之巻が著された経緯はⓑに述べた通りです。
(2)立身流利談之巻とともに立身流曲尺之巻が柳芳により加えられた、という伝承が立身流にあります。
(3)前記安永3甲午十二月吉日付の立身流三四五傳の伝系の記載が、流祖神の妻山大明神の次に逸見柳芳となっており、次に逸見宗八、そして半澤喜兵衛殿とされています。この記載形式は、柳芳が追加した伝書であることを示していると考えられます。

(4)立身流曲尺之巻の記載内容やその種類、及びそれらの変遷状況は既に述べた通りです。

2、次に、小出切一雲の二つの書を、その旨を明示したうえ立身流伝書と併伝する扱いとしたのも柳芳です。
大正元年十一月吉辰付け立身流第18代宗家半澤成恒から立身流第19代宗家加藤久に授与された立身流誠心之巻の伝系の記載では、妻山大明神の次に流祖立身三京、その次に逸見柳芳と記載され、その間の伝系は省略され、その後の伝系は漏れなくなく記されています。
この記載形式は、前述した安永3甲午十二月吉日付の立身流三四五傳同様、誠心之巻との関係でも柳芳が(これを加えたというような)重要な立場にあることを示しています。誠心之巻の内容は前記①と②の文章と図の中から①の二か所(図を別に数えると三カ所)を抜粋して合わせたものです。要は「小出切一雲誌焉」とされる文や図で、これが柳芳の時代から立身流内に伝わっていたことを示すものと解することができます。誠心之巻の作成者自体は逸見忠蔵ですが、忠蔵は伝系の記載をこのようにすることによって柳芳と無住心剣傳法との関係を示したものと考えます。

第五、逸見柳芳の事績の一端

1、伝承では、柳芳は立身流第7代宗家大石千助とならんで立身流理論を深めたとされています。
柳芳は、夕雲の考察認識と一雲の表現に立身流の思想思考と同一の方向性を見出し、同感共鳴し、魅力を感じたのでしょう。立身流理論の参考として①②を立身流内に併伝しました。

2、柳芳の写本の仕方は徹底しています。
①の写本の中の九番目の種の図では、二枚重ねの図の中央が糸で固定され、回転する細工がほどこされています。円形の下図の上に乗せられた、正方形の薄い木片図が回転するわけです。この木片は黒く塗られており、そこに四方向への線がより黒い細線で示され、かつ、赤で細かい字や円形が描かれています。正方形の一辺は24ミリメートルです。下図の円形は二重に描かれ、一つの円の直径は89ミリメートル、その外の円の直径は113ミリメートルです。そして、それぞれの箇所に語句が放射状に記入されています。
このように、図を利用しての説明に加え、正方形の木片図が回転する細工と薄木片の厚さにより、更に理解がプラスされるよう、機動的立体的な仕掛けが施されています。
そこに仕掛けられた各図への記入内容を併せみると、円形というよりも、立体的な球体の感覚概念を基に事理を理解しようとしていると思われます。

第六、逸見忠蔵の事績の一端

忠蔵は、幕末、武術とくに居合の名手として名を馳せました。
その忠蔵が、柳芳以来立身流内に伝わった無住心剣傳法の理論の中で、曲尺之巻の理論から敷衍しうる表現部分を、曲尺之巻に組み込みました。
更に、曲尺之巻の記述とは直接関係はしないが、従前の立身流理論の延長上にある他の部分を立身流誠心之巻としました。
特に立身流理論に一致し、忠蔵が感覚的にも同感しうる表現部分と図を抜き出したのでしょう。
②からの引用はありません。忠蔵の思考・価値判断がそこにもあります。
しかも①と②は、立身流への組み込みがされた後も、その原文全体が夕雲一雲の名と共に立身流秘傳之書の中に綴じこまれて相伝されました。

第七、研究 交流 学術発展

江戸時代は閉鎖社会ではありませんでした。活発な交流がおこなわれ、特にその道の最先端を行く少数の専門家間においては濃密でした。
本稿は、大きく言えば、江戸時代の日本の学術の進歩する様、学術発展の姿を垣間見るものです。現今のことばでいえば、イノヴェイションが図られた一例と言えるかもしれません。
その成果を、前記した父・高の論考「すべて圓相のもとに~立身流傳書より」で参照できます。

以上

2021年 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部