明治時代の伝承と警視庁流

明治政府となってから武術は断絶の危機にあったが、撃剣興行や西南の役での抜刀隊の活躍等により従来の撃剣が見直され、明治14年(1881年)には多数の名剣士が警視庁に採用された。その警視庁で当時師範を勤めたのが、梶川義正、上田馬之助そして立身流剣士 逸見宗助であった。この逸見宗助の活躍がきっかけとなり、警視庁で活躍する立身流剣士がでてきた。
【関連】
・宗家論考>立身流門を主とした佐倉藩士と警視庁

・宗家論考>立身流からみた警視(庁)流の各種形及び体系

逸見宗助 (へんみ そうすけ)
逸見忠蔵の嫡男として、天保14年(1843年)出生。18才にして立身流の目録を受け、万延2年(1861年)正月18日に、まず千葉栄次郎の下で稽古に入った(坂本龍馬と接触があり「龍馬の剣は、大きく、のびのびした、立派な稽古であった。」と語っていた。)後、鏡新明智流桃井春蔵門下となり、竹刀剣術を学んだ。立身流の修行でその土台が出来ていたためか、1年足らずで桃井道場の塾頭となった。
その後、帰藩し明治12年(1879年)頃警視庁(当時は警視局)に入り同20年には外勤部警部となったが、実際は、本部で武術指導者を教授する撃剣専務教師が本職であった。
又、宗助は上田馬之助や高山峰太郎等と数々の名勝負を繰り広げ、当代随一の剣道家であると称賛された。「大日本剣道史」には以下の様に記されている。

逸見宗助肖像 [立身流所蔵]

逸見宗助肖像 [立身流所蔵]

「(前略) 日本でも一、二番で三番とは下らぬ名人になった。山岡鉄舟日く、剣客は沢山あるが、逸見だけは、真の剣を遣ふと評したといふ。稽古振りの立派な事無類で逸見の歿後其類を見ないといふ。」

宗助は汗かきで、稽古の際も大きく「フー」と、深呼吸をよくしていたと言う。水術は向井流であった。没は明治28年(1895年)末頃と思われる。千住町源長寺に葬られた。

兼松直廉 (かねまつ なおかど)
明治21年(1888年)6月の「警視庁撃剣世話係たりし者及びその階級」の中の二級(最上級)の部に、吾妻橋署 真貝忠篤、守衛係 得能関四郎、八名川署 三橋鑑一郎、富岡署 下江秀太郎等と並んで、小川町署 兼松直廉の名を見ることができる。明治22年(1889年)7月20日、逸見宗助等と共に出場した撃剣大会に於いて警視庁勢で唯一人引き分けに持ち込んだと言う記録が残っている。

村井光智 (むらい みつとも)
「日本武術名家傳」によると嘉永2年(1849年)7月佐倉藩士村井孫太夫の二男として生まれた光智は、12才の時から逸見忠蔵の門下に入り、剣術を学んだ。18才で立合目録、19才で居合目録を受けた。20才の時藩から剣術修行の命を受け、諸国を回り数々の剣士と試合をした。明治16年警視庁に招かれ剣術教師となり明治31年(1898年)まで勤めた。明治17年(1874年)に向ケ岡弥生舎に於ける撃剣大会に出場し、長岡の神道無念流坂部小郎と対戦したが敗れたと言う記録が残っている。明治31年(1898年)には大日本武徳会に入会し、その後は毎年本部大会に列席し諸国の剣客と試合をした。明治32年(1899年)には総裁小松宮殿下より武術精錬の状を受けている。

「大日本剣道史」では、逸見宗助、兼松直廉、村井光智は共に、流派は立身流となっており、彼らの警視庁での活躍によって立身流の名は全国に知れわたった。又、警視庁では、剣術、居合、柔術の形を制定した際、立身流の形を取り入れている。明治18年の武道大会を契機に、指導上の統一を期する為、梶川義正、上田馬之助、逸見宗助、得能関四郎、真貝忠篤の5人が協議して16の流派から選んだものを統合して、警視庁流木太刀の形をつくった。それによると、剣術の形10本の内4本目に立身流の「巻落」が、居合の形5本の内5本目に「四方」が採用されている。又、現在は消滅してしまったが、警視庁流柔術の形全16本の3本目に「柄搦」(つかがらみ)が採用された。

立身流の形 第一巻より抜粋、改訂