立身流第22代宗家 加藤 紘
令和6年(2024年)5月10日/令和6年7月21日改訂
(1)今年から流通する新5000円札の肖像は津田梅子です。
その父、津田仙(以下、仙という)が立身流の達人だった、と巷間伝えられています。
「津田仙評伝――もう一つの近代化をめざした人」(著者 高橋宗司 2008年3月1日発行 発行所 株式会社草風館)記載の「津田仙略年譜」(以下、年譜という)によると、梅子は元治1年(1864年)、仙が27才のとき、その次女として生まれています。
仙は、天保8年(1837年)7月6日に佐倉城内天神曲輪(てんじんぐるわ、現在の佐倉中学校グラウンド付近)で生まれました(「佐倉市郷土の先覚者 津田 仙」3頁、佐倉市教育委員会編 平成6年3月31日佐倉市教育委員会発行)。
(2)佐倉藩士の系図や経歴を記した「保受録」には、仙が一時養子に行っていた櫻井五郎兵衛家のところに
「実小島善右衛門三男
千 弥」
と記され、仙の項目がたてられています。
津田仙の実父は藩士の小島善右衛門で仙はその三男、幼名は千弥でした。
(3)「保受録」の同じ項目には
「嘉永…六年…十月二日逸見忠蔵より流儀立合目録受」
と記されています。
仙は16才の1853年10月2日に、立身流第17代宗家逸見忠蔵から立身流立合目録を允許されました。
(4)同じ「保受録」の項目に
「安政二年卯二月廿九日 逸見忠蔵より流儀刀術立合目録受」
とも記されています。
約1年半後の1855年、17才の仙が立身流刀術立合目録を允許されたとの記載です。
(5)「保受録」の記載では、仙は立身流立合目録を2回允許されたことになりますが、2回目の「刀術立合目録」は立身流居合目録の誤記と思われます。
15巻ある立身流傳書で、最初に受領する巻である序之巻と2巻目の立合目録之巻は、遅くも幕末の時点で合巻となっていました(拙稿「立身流傳書と允許」拙著「立身流之形第二巻」(以下、第二巻という)記載129頁参照)。以前は別巻であったと思われ、現に序之巻だけで一巻の古巻物もあるのですが、立身流序之巻は他の巻に比し本文が短文で、時代を重ねるにしたがって伝系の表示部分が本文より長大となってしまい、最初に修める実技の巻である立合目録との合巻としてバランスがとられたと考えられます。
立身流での修行は、桁打、旋打、廻打から始まる刀術の基礎の修得から始まりますが(拙稿「立身流について」第二巻87頁、拙稿「立身流に於る桁打、旋打、廻打」第二巻108頁以下参照)、これらは剣術すなわち立合目録での内容に含まれます。
すなわち、1853年、仙が最初に允許された傳書は、立身流序之巻と立身流立合目録之巻の合巻だったはずです。
立身流の刀術関係で次に允許されるのは立身流居合目録です(前掲拙稿「立身流傳書と允許」第二巻190頁、拙稿「日本伝統武道の流名・呼称・用字~立身流を例として」拙著「立身流之形第一巻改訂版」156頁以下各参照)。
したがって、1855年の允許は、次の巻である立身流居合目録之巻だったはずです。
(6)年譜によると、仙は11才の嘉永元年(1848年)から武術を修め、剣は立身流、槍は誠心流、水術は向井流、馬術は八条流でした。
仙は修行に入ってから5~7年で刀術関係の各目録を允許されているわけです。
現在の立身流では、5段取得後、さらに修行を重ねた者から目録受領者が選ばれます。ですから目録は6段相当ということになります。
そして5段取得までには最短でも12年要しますから、目録受領は入門後早くても15年位はかかることになります。
(7)昔日の修行の密度は現在とはかけ離れて濃いものでした。
幕末の佐倉藩に一術免許之制(前記拙稿「立身流傳書と允許」第二巻132頁)などがあったとしても、また若年であることを加味しても、達人であったかどうかはともかくとして、仙が相当の技量に達していたことは間違いないと思われます。
以上
(本稿の史資料蒐集に外山信司氏のご協力を得ました。ありがとうございました)
追 補
1 明治41年(1908年)5月5日発行の「農業雑誌」1020号208頁(発行所 學農社)に次の記載があります。筆者名の表記はありません。
「先生・・・十二歳の時より専ら心を武藝に用ひ、槍術・馬術・游泳術・劍術等武士の修むべき所一として修めざるなく、就中(とりわけ)劍術は最も得意にして立身流の達人逸見(へんみ)忠蔵氏を師とせられ、十五歳以後は毎朝未明辨當(べんとう)を提(ひっさ)げて家を出で各道場を歴訪して技(うで)を磨き・・・」「・・・先生の少年時代は多く武術の鍛錬に費やされしが・・・」
また、同209頁には仙の口授の筆記として「予は・・・小少にして武術を専らにしたるが・・・」との記載があります。
なお、年齢につき、年譜では「(数え12歳)武術を修める」となっています。
2 明治41年(1908年)5月20日発行の「農事雑報」第10年第121号41頁に「一記者」の筆者名で次の記載があります。
「・・・十二歳よりは藩の指南役逸見忠蔵氏に師事して、立身流の劍法を學びしが、傍(かたわ)ら誠心流の槍術、向井流の游泳、心條流の馬術をも修練せるに何(いづ)れも出藍(しゅつらん)の譽(ほまれ)を得、・・・毎朝未明に辨當を提(さ)げて家を出で、各道場廻りを成したり・・・」
3 佐倉藩に「心條流の馬術」というものはなく、大坪琉と八条流でした(「佐倉市史巻二」969頁以下 昭和48年3月25日佐倉市発行)。
年譜では「八条流」と記されています。
以上
(本追補の資料収集には流門の本橋浩介氏の協力を得ました。)