津田梅子の父・津田仙と立身流

立身流免之巻を允許された者の資格と義務

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和5年(2023年)8月6日
立身流第97回特別講習会資料
佐倉市民体育館
[令和5年(2023年)8月26日掲載(禁転載)]

第一 師範

 立身流免之巻を許された者、すなわち立身流免之巻受領者は師範として遇される。
 その現在数は9名(4名の皆済者を含む)である。
 免之巻は立身流の正傳書全15巻中の13巻目に位置し、目録4巻・上傳4巻・奥傳(おうでん)4巻の次の段階である。いわゆる免許巻である。
 早くても約15年の修行を重ねた後、初めて目録の最初の巻が与えられるのだから、師範は勿論流内の重鎮である。立身流目録が現代武道の6段に相当するならば、立身流免之巻は9段に相当することになる。
 皆済までには更に2巻が控えていること等について拙稿「立身流傳書と允許」(拙著「立身流之形 第二巻」128頁以下)に記した。

第二 立身流免之巻の記載

 立身流免之巻の記載から抜粋する。

「・・・不残相傳畢縀趣他郡立師以教之亦何有恥之乎教去々々・・・」
「・・・のこらず あいつたえ おわんぬ。たとい たぐんにおもむき しにたち もってこれをおしうるも また なんぞ これをはじることあらんか。おしえつかわせ おしえつかわせ。・・・

第三 師範の資格と義務

 上記立身流免之巻の原文どおりだが、以下に解説する。

(1)師範に許された資格の内容
 師、すなわち師匠として教える資格を与えられる。
 すべて教えた。だから、例え宗家の眼の届かない地に赴き師匠として立身流を教えてもよい。それを恥ずかしがり遠慮することはない。」と鼓舞している。
 人に教えることができるということは、自分に教えることもできるということでもある。
 独り立ちし、自分で自分をも教え導く力が備わったということである。
 師については前掲拙稿、および拙稿「立身流に於る、師、弟子、行儀と剣道の「一本」」(拙著「立身流之形 第二巻」88頁以下)を参照されたい。

(2)師範の義務
 そればかりでなく、「教去々々」すなわち「教えなさい教えなさい」とされ、教えるのは免之巻受領者の義務である。
 いわゆる弘流(ぐりゅう)の責務であり、立身流を護(まも)り拡げる義務である。
 
(3)立身流免之巻の記述は次のように続き、道歌5首が示される。
「猶於此術之心持有秘事綴腰折以記之・・・」
「なお このじゅつのこころもちにおいて ひじあり。ようせつをつづり もってこれをしるす。・・・」

(4)そして、一心圓光剣を授けられる。

(5)しかし、俰極意巻と極意之巻の2巻が待っていて、他に教えるばかりでなく自らの研鑽努力が更に求められている。

(参考)
 立身流入堂訓(拙著「立身流之形 第二巻」巻頭参照)

第8条
「一 心ノ感応ト働キニツキ執心工夫シテ自探発明シ前人未踏ノ境地ニ達センコトヲ心ガヶヨ」

第10条
「一 宗家ノ許可ヲ得ズシテ立身流傳書ヲ伝授シ慢心シテ妄リニ立身流類似ノ名称ヲ付シ分派行動ヲ執るコトハ許サズ」

以上

日本伝統武道に於る真の技~立身流直之巻より

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和4年(2022年)9月4日掲載(禁転載)

第一、はじめに

 立身流修行上、5巻目の傳書として授与される立身流直之巻は、立身流の「各目録の記載内容や口傳(くでん)などを総括」したもの(拙稿「立身流傳書と允許」以下拙稿傳書という・拙著立身流之形第二巻(以下、形二という)128頁)とされます。
 しかし、3巻の目録に記される形名を含め、形の名称は一切、直之巻には出てきません。目録3巻の段階は形とその変化の習得が主眼です。形の名称も記載されないで各目録の内容の総括、とはどういうことなのか。
 また、立身流正傳書15巻のうち直之巻に続く計10巻中には、傳技(拙稿「立身流に於る形・向・圓・傳技・一心圓光剣・目録「外」(いわゆる「とのもの」)の意味」(以下、拙稿形という)・形二112頁)と向圓以外の形の名称は記されません。そこにはどのような意味があるのか。
以下では、立身流直之巻をとりあげて、日本伝統武道での技の意味と形との関係、心法と技法、そして傳書との関係を探ってみます。

第二、立身流直之巻の記載

一、巻名は立身流直之巻(たつみりゅうちょくのまき)です。
(1) 直とは、まっすぐなこと、まがらないこと、まげないことです。
 武術の技法心法では、まっすぐでないことを嫌い、まげることを嫌い、まげないようにすることが求められます。これが武術の美しさにも通じていきます(中山博道先生につき、拙稿「立身流に於る「…圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理…」(立身流變働之巻)」(以下、拙稿圓という)参照・形二92頁)。
 ところが、まげない、ずれないようにするのは非常にむつかしい真の技というべきものです。生半可な修行で身につくものではありません。直之巻は、その技を身につけるため更に分析を加え検討したものです。

(2) 「直」の語について、直之巻以外の立身流傳書等に示される記述から幾つか挙げてみます。
技法に関して
「目付三段九ヶノ内身体ヲ打ツ所ハ只一カ所二止ㇽ 此ノ打ヲ打損セヌ様二相討二可打(あいうちにうつべし)(これ)直ノ打也」
          (立身流秘傳之書、拙稿圓参照・形二96頁)
心法に関して(拙稿「立身流に於る「心の術」」参照・形二97頁)
「心をば直なる物と心得て しめゆるめなば曲るとぞしれ」
                   (立身流居合目録之巻)
「心をば曲れるものと心得て 常の常にも正直(せいちょく)にせよ」
                   (立身流居合目録之巻)

二、立身流直之巻の本文
(1) 全体を直にする要素として更に分析されて得られた真の技から、例として11ヶ条の項目をとりあげ、各条毎に態様を三段に分けて説明しています。
 直之巻の歴史や、十一カ条三十三段之分から成り立っていること、及びその第八条「手内」については、拙稿圓(形二・91頁以下)に説明しました。

(2) 全条は次のとおりです。
 第一条  目付 
 第二条  身掛
 第三条  柄鞘手付
 第四条  抜掛
 第五条  抜放
 第六条  腰出
 第七条  足出
 第八条  手内
 第九条  二之太刀
 第十条  肱
 第十一条 心持

(3) 三十三段については省略しましたが、例えば第一条 目付には「上 中 下」(立身流秘傳之書には「北斗之見込」とあります)、第二条 身掛には「縣 常 刎」、第八条 手内には「堅 諸 緩」(立身流秘傳之書には「卵合セノ場」とあります。拙稿圓・形二91頁、96頁、拙稿「立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)・形二121頁等参照)となっています。

三、立身流直之巻の歌二首
一首目 
本能身盤 行久毛留るも 飛ハ猶 心耳満可世 叶ふ身登知れ 
(もとのみは ゆくもとまるも ひくはなお こころにまかせ かなうみとしれ)
 拙稿圓・形二95頁、91頁に記した歌です。

二首目  
残さし登 弟子耳は いひ天 可久寿万し 心能いとは な二と はらさん
(のこさじと でしには いいて かくすまじ こころのいとは なにと はらさん) 
 共に、拙稿「立身流に於る、師、弟子、行儀、と、剣道の「一本」」・形二88頁に記した歌です。

第三、直之巻が「各目録を総括」する、とは

一、言い換えれば、各種形の総括ということです。ということは武術の技法の総括ということです。
 その総括の仕方は、各種形に共通した要素、形や形の体系を通じて修得すべき要素、すなわち真の技の項目を例示(11ヶ条)してそれぞれの内容(33段)を示す方法でなされています。
 具体的な形そのものから離れて、質的な分析と統合を図り、各種形に共通する、真の技(業)の理合を探っているわけです。
 極端にいうと、形という方便の修行により取得すべき本当の技です。
 その意味で、立身流直之巻は武術の技法についての一応の総まとめであるといえます。
 逆にいうと、11ヶ条33段などの記載内容を念頭におかない形稽古は、意味のない、無駄な、あるいは有害な稽古になってしまうということになります。刀術だろうが、俰(やわら)だろうが、鎗術だろうが、その他の武技だろうが、同じです。
 そして、立身流直之巻の記載内容を念頭においた稽古をつけるのが師匠の役目の一つです。
 勿論、直之巻以降も形による錬磨が続けられます。武技の種類も、形の数も増えてゆき、しかも全体が上達していきます。そして最後には又、向圓に収斂(しゅうれん)します(一心圓光剣については拙稿形・形二112頁参照)。

二、立身流直之巻では刀術を念頭においたまとめがされています。
 他の武技にはこれらが応用されます。
 また、武技に入る前の段階、例えば礼法に関する記述などはありません。
 したがって、姿勢(竪Ⅰ横一)や歩き方(足蹈)等について直接の記載はありません。
 しかし、例えば、「身掛」(拙稿「立身流居合に於る鞘引と鞘(の)戻(し)~立身流歴代宗家の演武写真を参考にして~」・形二113頁)は姿勢や間合を前提とし、「足出」は足蹈を前提とするものです。

第四、ここで、直之巻を含む立身流上傳4巻の体系的位置を探ってみます

 上傳には他に、立身流變働之巻、立身流理談之巻、立身流別傳之巻があります(拙稿傳書)。技法と心法の結節がこの四巻で図られています。
 特に理談之巻は、立身流ひいては日本伝統武道の秘術、すなわち技法とこれから本格的修行に入る心法につき36首の道歌によって全体的に評論しています。    
 直之巻の理解を助けて更に深めたもので、直之巻と特に関係深い巻だといえます。他の2巻については後にふれます。

第五、技法・心法と立身流正傳書15巻の関係

一、武術修行内容の主眼が修行者の上達に伴い変遷し、その変遷に伴って傳書が与えられます。
 形を通してであることは変わらないのですが、身の動き(技法)から心の動き(心法)に修行の主眼が移ります。

二、序之巻に続く目録3巻での修行
 前述のとおり、技法中心です。
 前記直之巻一首目の歌に少しでも近づこうと努力します。
 しかし、この段階でも、傳書等で心法についての記述が折に触れなされ、心技一体を修行者になんとか理解させようとしています。前記一首目の歌も「心にまかせ」となっています。

三、上傳4巻は前述のとおり技法と心法の結節を図っています。
(1) 前記直之巻二首目の歌に注目してください。
 何でも隠さずに全て教えるけれど、心法については自分自身で自得するしかないのですよ、本来教えようがないものなのですよ、と言っています。
 
(2) 立身流變働之巻(拙稿圓・形二91頁)は技法と心法が結節する一点を圓を例として説明し、「以未抜之前為要者乎」(いまだ ぬかざるのまえをもって ようとなすものか)とします。
 立身流理談之巻には
古い口能 盤奈禮きワこ楚 たいし奈連 抜す尓き連よ 抜て切るまし
(こいぐちの はなれぎわこそ だいじなれ ぬかずにきれよ ぬいてきるまじ)
とあります。

 變働之巻や理談之巻を与えられる者はこのような思索をするに熟し、感覚的体験的に理解できる能力がある、とみなされるのですから、技法から心法への主眼点の移行は必然というものです。

(3) 立身流變働之巻と立身流別傳之巻(拙稿傳書・形二130頁)は相まって技法の応用や広がりと深化を方向します。

四、奥傳3巻
 この3巻は、心法について教え説明し、これをなんとか伝授させようとするものではありますが、修行者にとっては自得の手助けにしかなりようがないものです。
 技法とともに、いよいよ本格的に心法の修行に入ります。
「武道全般の心法を述べ、さらに更にその礎である、人間、生死、世界、宇宙を考察する。」(拙稿傳書・形二130頁)ものです。

五、他の傳書については拙稿傳書を参照してください。

第六、向、圓への収斂と現実への対応

「日々夜々に向圓を抜くならば 心のままに太刀や振られん」
                   (立身流理談之巻)

一、心のままに太刀を振る技、武術の真の技は主に形修行の中で身につけていきます。
 正確に形を行い、数を重ねれば必ず身についていく、身につけるのに最適な動き、身につかざるを得ない動き、これが形です。その究極の形が立身流でいえば向圓です。向圓は秘剣です(拙稿形・形二110頁以下に詳述)。

二、拙稿形で説明しましたが、向と圓の動きは、一面では対極にあります。
 例えば向請の間合は最も近く、圓抜の間合は最も遠い。向と圓を身につければ、その時使用する刀の長さでの間合の全てを身につけざるを得ません。また、向は真下から抜きつけ、圓は真上から抜きつけます。向圓を併せて秘剣であるゆえんです。

三、現実への対応のためには、組居合や乱打、乱合に至る稽古をすることにもなります(拙稿「立身流について」・形二・87頁参照)

第七、立身流直之巻の展開

一、以上、武術の真の技は形の錬磨によって得られていくものではありますが、形の手順や所作の奥に潜んでいるものです。
 真の技をもとめずに、あれこれ手順や所作を工夫するだけの研究は有害無益です(拙稿形・形二112頁参照)
 「相手がこう来たら、こう防ぐ、ああすれば、こう行くなどと考えては、相手の刀に心を止めているからそういう気持が起きるのであって、いつも相手の後ばかり追って、最後には相手にやられてしまうのである。」(論考「古武道に学ぶ心身の自由(一)以下、論考自由という・拙著「立身流之形第一巻改定版」(以下、形一という)170頁)
 いわんや、形と無関係な思いつきでの手順や所作は、古武術古武道修行と無関係です(立身流入堂訓第9条・形二巻頭参照)。
 異なる流派の場合は異なる形を錬磨することになりますが、形の見かけ上の手順所作が異なっていても、日本武術武道として求める真の技は同一のはずです。

二、立身流直之巻 第七条 手内を例にとってみます。
 その内容については前記しました。
 拙稿圓・形二96頁から立身流秘傳之書の一部を抜粋します。
 「…是レ手之内ノ陰陽也。…陰中陽、陽中陰也。諸流共二同ジク之ヲ秘ス。卵合セノ場也。…」
 すなわち、手内については、諸流みな秘密にして隠している、というのです。
 ということは、形の異なる諸流派にも「てのうち」の概念があった、ということです。

三、形の相違と真の技、心法
(1) 上述した真の技や心法は、形の異なる他流派間に於ても、異なるべきものではありません。
 大正4年1月吉晨付で立身流第19代宗家加藤久が一刀流兵法14代高野佐三郎豊正先生から授けられた(形一6頁参照)「一刀流兵法十二箇条目録」の一条目は「二之目付之事」、六条目は「目付之事」です。立身流直之巻の第一条は「目付」です。
 よく言われる、流派が異なっても行きつくところは同じ、とはこのような意味です。
 論考自由(形一169頁以下)を参照して下さい。
(2) ですから、高い程度に達した人ならば、他流派の先達に師事することも可能となります。加藤久は前記高野佐三郎先生に師事し(論考「以先戒為宝」・形二147頁)、中山博道先生に随身しました。
 「わけ登る麓(ふもと)の道は多けれど 同じ高嶺(たかね)の月をこそ見れ」
        (論考「居合術の目的と其の修行」形二148頁)

四、したがって
(1) 他流を観取る稽古も可能ですし重要です。拙稿「立身流に於る「観取稽古」」(形二100頁)を参照してください。

(2) また、他流や種目が異なっても、その人の質や稽古量の程度はわかるものです。
 形が違うのだから、流派が異なるのだからわからない、と思っている人がいます。そのようなことはありません。
留意すべきです。
 「こなれた身」「手之内」に関しては拙稿圓・形二91頁以下を参照してください。刀術そして武術は微妙精密であることについては拙稿「立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)」・形二120頁を参照してください。

五、「形は人によって良くなる。良い形も人によって悪くなる。要は人だ。流儀の良し悪しも人によってきまってくる。」という、父・髙の言葉(拙稿圓・形二92頁)が響きます。

以上

明治期の立身新流と立身当流~福澤諭吉の述懐との関連で~

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和4年(2022年)6月6日 掲載/7月4日 改訂(禁転載)

1、福澤先生が立身新流を晩年まで嗜(たしな)んでいたことは、拙稿「福澤先生と立身新流居合」(拙著「立身流之形 第二巻」144頁以下、平成30年1月31日発行・以下、形二という)に記しました。
 先生は明治23年7月8日付(先生満56歳)の書簡で「…又少年の時中村庄兵衛先生に學び得たる居合を以て運動致し、近来は少々上達の様に覺え候得共、何分にも立身新流の先生無之して惡しき處を直して貰う方便を得ず残念に存候。是れは運動の事なれども…」(福澤諭吉全集第18巻401頁 昭和37年5月10日発行 著作権者慶應義塾)と述懐されています。
 中津藩内で立身新流は普通に「新流」と呼称されていました。

2、私の手元に以前、市川生央氏から頂いた明治40年6月の「武徳誌 第2巻6号」(写し)があります。

(1)その78頁に、(大日本武徳会)「…大分支部總會…は五月十八 十九の兩日…擧行せり…」、その79頁に「…演武…は第二日劍術…」とあり、そこには

 立身新流居合 _/¯ 佐野恕平
 立身當流居合 ¯\_ 恩田友十郎

との記載および

 東軍一刀流
     長刀入身  佐野恕平

との記載があります。

この記載から、立身新流の佐野恕平と立身當流の恩田友十郎が一緒に居合を演武し、佐野恕平は東軍一刀流の演武も行ったことがわかります。

(2)「恩田友十郎」の名は「物語 中津藩の歴史 下巻」(原田種純著 昭和54年12月5日発行)の「幕末中津藩士人名録」中285頁に「高百六十石」として記されています。
 恩田姓は中津藩内に数家あり、その一は立身當流の家で(拙著「立身流之形第一巻改定版」12頁「立身流伝系図Ⅱ」参照 令和4年(2022年)1月31日発行・以下、形一という)、「中津藩史」(著者兼発行者 黒屋直房 昭和15年11月11日発行)569頁には「立身流抜合師範ノ系」とされています(「當流ト改ム」の系列として。他に「新流ト改ム」の系列がある)。
「恩田友十郎」はその係累の人でしょう。
「佐野恕平」は、同書568頁の「東軍流長刀師範ノ系」の最後尾に「佐野恕平種則」と記載されている人物でしょう。

(3)この武徳誌の記載から次の事柄がわかります。

 ①立身新流居合と立身当流居合には、共同して演武できるほどの同質性と交流があった。
 ②この二流は福澤先生没(明治34年)後も大日本武徳会で演武されていて、演武者は旧藩時代の師範家の武術家本人とも思われる専門家である。

3、拙稿「立身流門を主とした佐倉藩士と警視庁」(形二・132頁)で、明治期の警視庁で活躍した立身流門の人々について記しました。
 福澤先生の居住された東京に立身流の、そして故郷の大分には立身新流、立身当流の先生方がおられたわけです。
 福澤先生にそれを知るきっかけがあったならば、と残念でなりません。

4、「惡しき處を直して貰う」とすればどのような「處を直して貰」いたいのか、先生の期待はどの辺にあったのかを検討してみます。

(1)まず、先生の居合をうかがい知るよすがとなる記述をみてみます。

①「かねて少し居合の心得もあるから、どうしてくれようか、これはひとつ下からはねてやりましょうという考えで、…此方(こっち)も抜いて先を取らねばならん、…」」(「福翁自伝」226頁 2009年4月1日発行 著者福沢諭吉 校注解説富田正文 発行者慶應義塾 以下自伝という)。

②「…四尺ばかりもある重い刀を取て庭に下りて、兼て少し覚え居る居合の術で二三本抜て見せて…」(自伝229頁)

③「次の運動は即ち居合である。これは先生がまだ中津にいた少年のとき、士族として何か武藝を學ばねばひとでないやうで風が惡いといふので、中村庄兵衛といふ居合の師匠に就て稽古されたものである。」(石河幹明「福澤諭吉傳」第四巻252頁 岩波書店1932年7月15日第1刷発行 2001年1月15日第7刷発行・以下、傳という) 

④「…居合と米搗(こめつき)と雙方の兼行は過激…」「「無論力を要する米搗の方である」といひたるに、…居合の方が米搗よりは餘程骨が折れるものだ。…」(傳257頁)

⑤「先生の居合は少年のとき師匠に就て稽古せられたのみで、その後はたゞ運動のために獨りで試みられたのみ…」「先生は食後には必ず居合抜をなさるので、…長い刀の柄に箸をお立てになって、其箸の下に落ちない中に、その長い刀の鞘を拂ってこれを二つにお斬りになったり、又は其刀を抜く餘地のない窮屈な處でお抜きになったり…」「父菊五郎も…先生に居合の呼吸を伺った…」、(米搗)「これも呼吸があるもので、お前たちのはたゞ力でやらうと思ふからいけないのだ。」(傳257, 258頁)

⑥「…運動に居合を好み時々米搗きまでせらるゝので筋骨逞しく…」(傳540頁)

⑦「居合には六つの型があるそうで、先生は一と通り此六法を繰返してから休まれることにしてゐましたが、見てゐると、寒中單衣一枚にも拘らず、五六十本切付ける中に額から汗が流れて来るほどでした。先生の話に「…私の居合も稍や極度に近いものと見える…」といはれました(伊東茂右衛門談)」(傳811頁)

⑧「少し前屈みながら、肩幅の広い福澤が、…跣足(はだし)で(草履ばきであったか?)立ち、かけ声とともに刀を抜き、踏み込み踏み込み、刀を振り回し、また鞘におさめる。同じことを幾たびもくり返す。…福澤は千本抜き、千二百本抜きの記録を手記している。…千二百本抜きの時間は…。また、居合の間に当然一定の場所を往き来する。「足をはこばすことも五千二百間、凡二里半ばかりなり」と福澤は或る手紙の中に書いている。それが明治二十七年、福澤の数え年六十一のときのことである。」(山﨑元「慶應義塾のスポーツ医学――社会を先導する役割――」中に引用の小泉信三の文・「三田評論」第1150号63頁乃至64頁 平成23年11月1日慶應義塾発行11月号・以下、評論という)

(2)これらの記述をみると、先生は、少年の頃、立身新流居合を少し師につき稽古したものですが、ずいぶん好きで運動として日常居合を一人続けました(前掲拙稿・形二・144頁以下参照)。数抜を続け、時には曲芸のようなことをして人を喜ばせました。居合は力を要して骨がおれるもので、米搗と同じく力だけでなく呼吸が必要との御認識のようです。先生は実戦にもある程度の自信があり、自分でも極度に近いと感ずる程の域に達していました。満60歳になっても数抜千本を通し続けました。

(3)先生の記述から、先生の居合がどのようなものであったのかを探るヒントとなる諸点をあげてみます。

1)先生の数抜や居合の居組、居合刀などについては拙稿「福澤先生と立身新流居合」(形二・144頁以下)で触れました。
また、そこに書いた通りとすると、先生は居組も抜かれ、その居組は序であって初心者向けの居合の形だった可能性が強いと思われます。

2)四尺ばかりもある重い刀(前記②)、運動(前記③⑤)
 現存する先生愛用の居合刀の長さ重さ(形二・145頁)は、先生の体格からすれば立身流としては普通ですが、一般に使用されるものと比べれば長く重いものです。
 ちなみに、現在私と息子の次期宗家・敦がそれぞれ使用する居合刀二振(銘・伯耆国住義輝、國澤兼俊)の長さ重さは、拙稿「立身流に於る「…圓抜者則自之手之本柔二他之打處強之理…」(立身流變働之巻) 形二・94頁に記したとおりです。しかし、2人とも十代の頃の居合刀(銘・濃州住藤井兼音)は、刃渡り2尺3寸7分(約72.1センチ)、鞘を払っての重さ1,057グラムです。先生の愛刀より2.2センチ短く、約105グラム軽いことになります。
 本来、技が身につくまでの間、初心者が重く長い刀を使用することは避けねばなりません(形二・94頁)
 重い刀をその域に達してない人が振り回し続けるのは、単なる運動としてならば話は別ですが、武道武術の技の体得の面では不器用さが増すばかりです。
 数抜に関しては後にふれます。
 頭書の文でも「居合を以て運動」とあり、先生の居合は、武術武道の稽古修行というよりも運動目的でした。

3)其箸の下に落ちない中に、その長い刀の鞘を拂ってこれを二つにお斬りになったり、(前記⑤)
 この話は、形一・6頁の「余興を求められ、腕組した両手を堅く縛らせて抜刀し、これは居合ではなく曲芸ですと恥じた」加藤久の逸話と相通じます。
 このようないわゆる余興や物を対象とする技術は、対人関係である武道としての居合とは直接の関係はありません。そのことのみの練習でも、手慣れれば武道家でなくともできるようになるでしょう。
 船越義珍先生の「空手道一路」(昭和31年10月1日発行)から引用します。

 「なる程、空手をやる人が、普通の人には簡単に割れないような厚い板を、十何枚も割ったり、瓦を何枚も重ねて割ったりする。が、この程度のことなら練習次第で誰にもできるのである。」(21頁)
 「空手は立派な武道なのだから、板を割ったり、瓦を砕いたり、肉を千切ったり、肋骨を砕いたり、そんな枝葉末節のことを自慢する人があったら、それは本当の空手を知らない人だと思って間違いない。」(22頁)

 上記文章は「「板割り」「瓦割り」というようなことはあくまでも「試し」であって空手の本領ではないし、ましてや秘術などでもない。むしろ空手としては埒外のものである。」の文章との関係で記されていますから、居合の面でいえば試斬に対応する文ですが、いずれにしても埒外であることは同じです。

4)力を要する(前記④) 力でやらうと思ふからいけない・呼吸(前記⑤)
 武道動作は呼吸との一致から始まります(拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」形二・89頁)。そして武道の奥義は「呼吸ヲ以テ打ツ」ことです。「呼吸ヲ以テ打ツ」ことができるようになる前段階は「躰ヲ以テ打ツ」であり、更にその前は「手ヲ以テ打ツ」で、しかも「力強クシテ手足堅ク」するのは厳禁です(形二・96頁・立身流秘伝之書)。
 ⑤での「呼吸」の意味は、あるいは師の中村庄兵衛から授かった上記「呼吸ヲ以テ打ツ」の意味なのかもしれません。しかし、「力を要する」との記述や次の5)の記述からすると、ここでは武術としての呼吸ではなく、上記3)に示されるような単に手慣れていることを意味していると思われます。師匠がおらず一人で数抜を重ねたことなども併せみると、単に数をかけて手慣れることから取得するコツ(形二・94頁参照)にすぎないものではなかったでしょうか。

5)筋骨逞しく(前記⑥)
 生涯「先生は今で言えば身長173センチ、体重68キロ」(評論62頁、自伝315頁)だったとのことで、いまの私と比べると身長は同じで体重が1キロ多いだけです。
 ところで、居合を好むことが必然的に「筋骨逞しく」の結果を生ずるわけではありません(形二・94頁参照)。「運動」と武道武術との相違ともいえます。
 ここの書かれ方は、武道居合に詳しくない人による印象表現だったのではないでしょうか。
 本当に居合のおかげで「筋骨逞しく」なったのだとすると、「ただ力でやらうと思ふからいけない」と頭ではお分かりになっていながら、先生ご自身、技でなく力でやっておられたのでないかと推察されます。仮に言葉であるいは目で見てある程度わかり得たとしても、自分の身体ではできないのが、技・業・芸です。頭で理解できたことをどうすれば自分が実現しうるか、ここでも師が必要となります。

6)少し前屈み(前記⑧)
 「少し前屈みながら、肩幅の広い福澤が」、と続きますから、意図的に前屈みにしているのではなく、体格として「少し前屈み」だったのでしょう。
 もし体格姿勢でなく、技としての姿勢だったとすると問題です。「竪1横一」(形二・89頁)に反するからです。
 業としての姿勢は、歩くときは勿論、走るときも腰を曲げず、屈(かが)みません。

7)数抜(前記⑧、形二・144頁)
 形二・94頁に「…数抜…の数の多いものは、原則、相当に身のこなれた者がすべきです。…個癖を身につけてしまうことにもなりかねません。特に見てくれる人のいない一人抜は要注意です。」と記したとおりです。
 未熟な者に数抜をさせると、疲れてきて力が抜けるのはよいのですが、樂をしようとしてごまかし必ず技が崩れます。そのごまかしの技や、未熟な技がそのまま矯正不可能な個癖として固まってしまう恐れがあります。
 数抜の最中に、形・技が乱れた場合は直ちに矯正するか、止めさせます。勿論、「形がくずれた場合は本数には入れ」ません(加藤髙「古武道に学ぶ心身の自由(三)」形一・174頁)。
 何千本抜いても、何万本抜いても、それだけで、その人が「名人」だというわけではありません。むしろ、やればやるほど、名人に至る道からはずれていく場合が多いのです。そうなると、美しい技を求めても、その実現は不可能です。
 数抜はあくまでも稽古の、先生の場合は運動の、一方法にすぎません。先生はそれらをよく理解した上で、工夫を重ねつつ、数抜を続けていたのでしょう。
 関連立身流歌を形二・94頁に二首あげました。
 又、前出義珍先生の言葉を参照して下さい。

(4)要は、先生自らの御認識では「近来は少々上達」(本稿冒頭文)していたり、「極度に近い」(前記⑦)と思えていたのですが、「惡しき處」がないはずないからそれを「直して貰う」先生の意図です。
 その「惡しき處」とは、教えを受けずにただ手慣れていっても、そして、いかに自分で工夫を加えても自己流になるだけで、個癖に陥らざるを得ない、その自分だけではどうしようもない個癖の矯正を願ったのでしょう。
 立身流序之巻から引用します。

「…然亦取之有習若其不習而取之其剣縀雖為莫邪亦何益兮」
(しかれども また これをとるに ならいあり。もし それ ならわずして これをとらば そのけん よし ばくやたりといえども また なんぞ えきせん。…)

これと同一の文章が立身新流序之軸にも記されています。

5、先生の立身新流についての記載から他の興味深い点を挙げてみます。

(1)下からはねて…抜いて先をとらねばならん(前記①)
 立身流居合で、これに該当するのは向の陰です。
 立身新流の居合には、陰の動きも伝わっていて先生も学んだことがわかります。

(2)刀を抜く餘地のない窮屈な處でお抜きになったり(前記⑤)
 立身流で言えば「外」(拙稿「立身流に於る形・向・圓・傳技・一心圓光剣・目録「外」(いわゆる「とのもの」の意味)」形二・112頁以下参照)にあたるもので、特殊状況下での心得からの一つでしょう。
 立身流の立合目録や居合目録から窮屈な所で抜く方法を羅列してみると、落差抜様之事・同鞘共気不付様抜出様之事・壁添抜様之事・人込抜様之事・細道抜様之事などがありますが、先生のなさったものがそのどれであるかは不明です。
 「外」は本質を求めるための形ではなく、単なる心得にすぎません。見せるためだけにこれらを行うということは、前記した曲芸に通ずることにもなります。

(3)居合には六つの型があるそうで(前記⑦)
 立身流居合は、立合でも居組でも、表之形の序・破・急でも陰之形の初傳・本傳・別傳でも、八本で一組です(形二・145頁参照)。言い換えれば「八つの型」です。内容は、向・圓・後向・後圓・前後・左・右・四方です。
 「六つの型があるそうで」というのが誤りで「八つ」だったとすれば、立身新流居合の形の構成は立身流と全く同じです。
 立身新流の居合が六本だったのだとすると、多分、左と右の欠落した六本だったのでしょう。また、前後は、走らずに、歩みの動きだったのでしょう。

(4)かけ声と共に刀を抜き(前記⑧)
 立身流居合は無声ですが、数抜では「ヤー・エーイ」と発声し続けます。前へ進みながら、「ヤー」で抜刀し「エーイ」で斬撃します。形は向・圓の立合の破です。元の位置に後進しながら納刀します。納刀が終り左手が下がると、直ちに左手が上がり、前進が始まります。
 かけ声があるのは立身流の数抜そのものです。

(5)踏み込み踏み込み、刀を振り回し(前記⑧)
 少々違和感のある表現ではありますが、ここでも立身流の立合の特徴が示されています。
 立身流居合の立合は歩み(あるいは走り)の上に乗っています。それを示しているのでしょう。
 このことが必然的に、次の(6)に連なっていきます。

(6)…千二百本抜きの時間は…。また、居合の間に当然一定の場所を往き来する。「足をはこばすことも五千二百間、凡二里半ばかりなり」(前記⑧)

 歩みの上に業が乗っている立身流の立合だからこそ、又、数抜だからこそ「当然」なのでして、他流ではこのように言うことはできないと思われます。
 明治27年先生61才の時の数抜記録は1,200本でした。
 5,200間は9,362m、二里半は1万mですから、1,200本で1万メートルとすると1本8m30、数抜は前進後退を繰り返しますから、1本で約4メートルを行き、又、戻っています。
 数抜は一旦始まると、食事(塩がゆ)の為の休止等の区切りまで、前進後退の歩きづめで足が止まることはありません。
 正に立身流数抜です。

(7)数抜は立合です。そして、前述のとおり、先生は居組の序をおりふしドタバタやっていました(自伝313頁)。
 つまり、立身流居合と同じく立身新流居合にも立合と居組があったことがわかります。先生はその双方を続けられたわけです。

6、総括
 以上、先生の「惡しき處を直して貰う」気持ちが垣間見えるようです。
 自分なりに努力し工夫し、それなりに上達はしたのですが、自己流のため、それ以上を望むことが不可能であることを自覚し、あらためて基本からの真の技を希求したのでしょう。
 先生が「稽古」の語を使われるのは自伝313頁の「中村庄兵衛という居合の先生について少しけいこしたから、…」と記される箇所だけです。その後の居合は全て「運動」と記されていて、先生にとっては稽古と言えるものではなかったのです。
 先生は、自分で自分を導けるまでの域に達していなかったことが「残念」だったのではないでしょうか。
 先生のすばらしさは、自分の至らなさを理解なさっていたことにあります。

以上

(本稿の資料蒐集には、前記市川氏、日向一泰氏、小暮達夫氏および立身流奥傳八角敏正氏のご協力を得ました)

立身流と無住心剣

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和3年(2021年)7月20日 掲載(禁転載)

第一、はじめに

立身流傳書「立身流三四五曲尺合之巻」(たつみりゅう さんしご かねあいのまき。立身流曲尺之巻ともいう。)については、拙稿「立身流傳書と允許」「立身流古文書に於る不合理的表現の合理性」「立身流傳書・古文書等の東北弁表記~「手舞足蹈處皆一物」等に関連して~」等で触れました。
立身流誠心之巻(たつみりゅうせいしんのまき)についても拙稿「立身流傳書と允許」で触れました。
以下ではそれらでの記載に加え、立身流と無住心剣(むじゅうしんけん)の関係を探ったうえ、日本武術武道理論の深化や広がりの様子、ひいては江戸時代の日本での学術進化発展の様子の一端をみてみます。武術武道を心法と技法から理解しようとするならば、その心法の場面です。

第二、立身流秘傳之書と立身流曲尺之巻および立身流誠心之巻

1、立身流には、第17代宗家逸見忠蔵偏の「立身流秘傳之書」があります。
その中には、次に記す2編の長文の写本が、次の順序で綴じこまれています。

①「貞享三丙寅夏六月三日 針谷夕雲無住心剣傳法嫡子 小出切一雲誌焉」(じょうきょうさん ひのえとら なつ ろくがつみっか はりがやせきうん むじゅうしんけん でんぽう ちゃくし おでぎりいちうん しるす)と最後尾に記されているもの。
内容は「天眞獨露(てんしんどくろ)」の表題で知られている、文章と11種の図(一種の図が数回示されたり、文中に示されたりする)ですが、立身流に伝わる写本には表題がありません。
貞享3年は西暦1686年です。

②「無住心剣元祖針谷夕雲傳法嫡子 小出切一雲誌焉」と最後尾に記されているもの。
内容は「夕雲流剣術書」の表題で知られている文章ですが、立身流に伝わる写本には表題がありません。

2、立身流曲尺之巻
(1)現代に伝わる立身流曲尺之巻にはその記載内容に4つの形態があります。

ⓐ、「夫曲尺之三四五者天地人也…」(それ かねの さんしごは てんちじんなり。…)から始まり、「…三川四つ五川丹叶婦 曲尺奈連盤 時耳乃曽満者 まからし登知れ」(…みつよついつつにかなう かねなれば ときにのぞまば まがらじとしれ)
の道歌で終わるもの。
立身流曲尺之巻は立身流第11代宗家逸見柳芳が加えた巻と伝えられていますが、この部分は、その柳芳筆の曲尺之巻の本体部分と理解できます。

ⓑ、上記ⓐの本体部分の前に、「立身流利談有三四五曲尺命…」(たつみりゅうりだんに さんしごのかねとなずくるものあり。…)から始まり「…顕當流秘術之奇珍而已」(…とうりゅうひじゅつの きちんを あらわすのみ。)
までの文章が加えられているもの。
この部分は巻を加えた経緯を説明したもので柳芳自身の言でしょう。前出拙稿「立身流傳書・古文書等の東北弁表記~「手舞足蹈處皆一物」等に関連して~」の第二、三の記述を参照してください。

Ⓒ、上記ⓑに加え、ⓐの次行に「右」と記され、その後に第一、1に前記した①の中から八番目の種の図および次の文が抜粋されて付加されているもの。
「八方詰之圖 以吾流論之則圖中一圓相無意無心無固無我明歴々変動無常轉化自在而獨全之象天理之本然也…」(はっぽうづめのず わがりゅうをもって これをろんずれば すなわち ずちゅうの いちえんそう むい むしん むこ むが めいれきれき へんどうつねなく てんかじざいにして ひとりまったきのかたち てんりのほんねんなり。…)
から始まり
「…謂之中和於中得之難矣」(…これを ちゅうかという。ちゅうにおいて これをうることかたし。)
に終わる部分。
「八方詰之圖」が八番目の種の図で、宗家論考におさめた父・高の「すべて圓相のもとに~立身流傳書より」に掲載される図とほぼ同じです。

ⓓ、上記Ⓒから上記ⓑの部分が削除されているもの。

(2)私の授かった曲尺之巻はⒸの形態によるものです。

3、立身流誠心之巻
前記した第一、1の①の中から次の二か所の文、および一番目の種の図すなわち中が白(黒でない)の円形図が抜粋されて記されています。
一カ所は「凡諸人氣有四種之分……陽而輕矣其象圓也清中清學而習則成聖之氣也」(およそ しょにんのき よんしゅのわかちあり。……ようにしてかるし。そのかたちえんなり。せいちゅうのせい まなびてならわば すなわち ひじりとなるのきなり。)の部分
「陽而輕矣」の前に、一番目の種の図が描かれています。

二カ所目は「已學而移習而熟則如此……若有少間断則禀受一点之濁兆干清中必矣」(すでにまなびてうつり ならいてじゅくすれば すなわちかくのごとし。……もしすこしくかんだんあれば すなわち ひんじゅいってんのだく せいちゅうにもとめるのきざし ひっせんや。)の部分
立身流誠心之巻は、立身流秘伝之書に綴じこまれて立身流に伝わっている小出切一雲の研究書(伝書)の中の①から、一番目の種の図及びこの図に関する記述等の二か所を抜き書きして立身流の一巻とした形です。

第三、立身流曲尺之巻と立身流誠心之巻を含め、私に伝わる立身流正伝書15巻をこのような形式に完成したのは、幕末の第17代宗家逸見忠蔵です。

1、立身流曲尺之巻について
(1)逸見忠蔵より前の代に発行されたものにⒸⓓの形のものはありません。
 例えば、立身流第12代宗家逸見宗八が立身流第13代宗家半澤喜兵衛に授けた安永三甲午(1774年)十二月吉日付「立身流三四五之傳」はⓑの形式です。
(2)他方、逸見忠蔵以降の伝書は、ⓑ、Ⓒ、ⓓの各形式のものが混在します。
 忠蔵が©の部分を加えた上、被授与者ごとに記載形式を変えた故と考えられます。

2、立身流誠心之巻について
この巻に忠蔵より前の代に発行されたものはありません。
立身流誠心之巻は立身流正伝書15巻の中でも、最後に、幕末、第17代宗家逸見忠蔵によって加えられた巻です。

第四、立身流曲尺之巻を著して立身流正傳書に加え、更に参考として小出切一雲の書写をその旨を明示したうえ立身流の併伝文書としたのは第11代宗家逸見柳芳です。

1、まず、立身流曲尺之巻の原作者が立身流第11代宗家逸見柳芳であることを示す事項です。
(1)立身流曲尺之巻が著された経緯はⓑに述べた通りです。
(2)立身流利談之巻とともに立身流曲尺之巻が柳芳により加えられた、という伝承が立身流にあります。
(3)前記安永3甲午十二月吉日付の立身流三四五傳の伝系の記載が、流祖神の妻山大明神の次に逸見柳芳となっており、次に逸見宗八、そして半澤喜兵衛殿とされています。この記載形式は、柳芳が追加した伝書であることを示していると考えられます。

(4)立身流曲尺之巻の記載内容やその種類、及びそれらの変遷状況は既に述べた通りです。

2、次に、小出切一雲の二つの書を、その旨を明示したうえ立身流伝書と併伝する扱いとしたのも柳芳です。
大正元年十一月吉辰付け立身流第18代宗家半澤成恒から立身流第19代宗家加藤久に授与された立身流誠心之巻の伝系の記載では、妻山大明神の次に流祖立身三京、その次に逸見柳芳と記載され、その間の伝系は省略され、その後の伝系は漏れなくなく記されています。
この記載形式は、前述した安永3甲午十二月吉日付の立身流三四五傳同様、誠心之巻との関係でも柳芳が(これを加えたというような)重要な立場にあることを示しています。誠心之巻の内容は前記①と②の文章と図の中から①の二か所(図を別に数えると三カ所)を抜粋して合わせたものです。要は「小出切一雲誌焉」とされる文や図で、これが柳芳の時代から立身流内に伝わっていたことを示すものと解することができます。誠心之巻の作成者自体は逸見忠蔵ですが、忠蔵は伝系の記載をこのようにすることによって柳芳と無住心剣傳法との関係を示したものと考えます。

第五、逸見柳芳の事績の一端

1、伝承では、柳芳は立身流第7代宗家大石千助とならんで立身流理論を深めたとされています。
柳芳は、夕雲の考察認識と一雲の表現に立身流の思想思考と同一の方向性を見出し、同感共鳴し、魅力を感じたのでしょう。立身流理論の参考として①②を立身流内に併伝しました。

2、柳芳の写本の仕方は徹底しています。
①の写本の中の九番目の種の図では、二枚重ねの図の中央が糸で固定され、回転する細工がほどこされています。円形の下図の上に乗せられた、正方形の薄い木片図が回転するわけです。この木片は黒く塗られており、そこに四方向への線がより黒い細線で示され、かつ、赤で細かい字や円形が描かれています。正方形の一辺は24ミリメートルです。下図の円形は二重に描かれ、一つの円の直径は89ミリメートル、その外の円の直径は113ミリメートルです。そして、それぞれの箇所に語句が放射状に記入されています。
このように、図を利用しての説明に加え、正方形の木片図が回転する細工と薄木片の厚さにより、更に理解がプラスされるよう、機動的立体的な仕掛けが施されています。
そこに仕掛けられた各図への記入内容を併せみると、円形というよりも、立体的な球体の感覚概念を基に事理を理解しようとしていると思われます。

第六、逸見忠蔵の事績の一端

忠蔵は、幕末、武術とくに居合の名手として名を馳せました。
その忠蔵が、柳芳以来立身流内に伝わった無住心剣傳法の理論の中で、曲尺之巻の理論から敷衍しうる表現部分を、曲尺之巻に組み込みました。
更に、曲尺之巻の記述とは直接関係はしないが、従前の立身流理論の延長上にある他の部分を立身流誠心之巻としました。
特に立身流理論に一致し、忠蔵が感覚的にも同感しうる表現部分と図を抜き出したのでしょう。
②からの引用はありません。忠蔵の思考・価値判断がそこにもあります。
しかも①と②は、立身流への組み込みがされた後も、その原文全体が夕雲一雲の名と共に立身流秘傳之書の中に綴じこまれて相伝されました。

第七、研究 交流 学術発展

江戸時代は閉鎖社会ではありませんでした。活発な交流がおこなわれ、特にその道の最先端を行く少数の専門家間においては濃密でした。
本稿は、大きく言えば、江戸時代の日本の学術の進歩する様、学術発展の姿を垣間見るものです。現今のことばでいえば、イノヴェイションが図られた一例と言えるかもしれません。
その成果を、前記した父・高の論考「すべて圓相のもとに~立身流傳書より」で参照できます。

以上

2021年 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部

立身流剣術五合形および五合形詰合の体系

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和3年(2021年)7月20日 掲載(禁転載)

第一、はじめに

立身流剣術五合形(たつみりゅうけんじゅつごごうのかた・五合之形)及び立身流剣術五合形詰合(つめあい)の、それぞれ一之太刀(いちのたち)から五之太刀(ごのたち)迄の形の内容は拙著「立身流之形 第一巻」に記しました。
本稿は、五合形の体系構成、及び立身流内での体系的位置につきまとめるものです。

第二、五合形と五合形詰合

共に一之太刀から五之太刀まであり、すべて一つの太刀が二本の技で成り立っています。
技の内容は五合形と五合形詰合に違いはありません。
五合形と五合形詰合との違いは、五合形が受方仕方双方とも構えた状態から始まるのに対し、五合形詰合は双方帯刀の状態から始まることにあります。五合形詰合は、一之太刀から五之太刀までの全てにおいて初めの技が受方仕方双方とも抜刀によるもので、次の技は双方とも構から始まります。五合形が一般にいわれる剣術だけなのに対し、五合形詰合は一般に言われる居合から始まり、剣術に移行します。
五合形詰合は、流外からは「組居合」と表現されることも多いのですが、立身流での「組居合」とは、2人以上の人数で他の人の呼吸を探り主に多数人相手に業を錬磨する稽古方法を意味し、五合形詰合や剣術表形提刀などの形を意味しません。

第三、五合形の内容

「立身流之形 第一巻」に記したとおりです。
以下に動きの要約と解説を記します。


1、一之太刀
(動き)
正面を斬ってくる受方に対し、仕方は右へ体をかわしつつ面を斬る。
次に、水月に前突する受方に対し、仕方は右へ体をかわしつつ水月へ表突。
(解説)
受の動きを感知した仕が、その体捌で受を制する形です。

2、二之太刀
(動き)
受方の正面への斬りつけに対し、仕方は同時に深い角度に斬りつけて我刀の左鎬から受方の刀を斬り落とし、そのまま右斜め下に返して逆袈裟に斬る。
さらなる受方の正面への斬りつけに対し、仕方は同時に斬りつけて我刀の左鎬から受方の刀を斬り落とし、そのまま面を斬る。
(解説)
受方の刀の動きとほぼ同時に、仕方は自分の刀で受方の刀に合わせてこれ斬り落とし、そのまま受方を斬る形です。
他流、例えば一刀流(切落・きりおとし)や新陰流(合撃打・がっしうち)等にみられる技と同じ技と理解します。

3、三之太刀
(動き)
受方が仕方の面を斬ろうとする瞬間、仕方はその匂いを感じ機先を制して面を斬る。
次に、受方が仕方の小手を斬ろうとする瞬間、仕方はその匂いを感じ機先を制して小手をきり、即、裏突。
(解説)

立身流の用語で「匂いの先」、一般にいわれる先の技の典型です。
 
4、四之太刀
(動き)
仕方が受方の刀を萎(なや)し押さえんとするのを、受方が下からはね返し振りかぶって撃たんとする瞬間、仕方は左小手右小手と斬る。
次に、面を斬らんと大きく振りかぶろうとする受方に対し、仕方は瞬間、水月へ前突き。
(解説)
受方の刀の動きが尽きた瞬間に撃突します。
また、萎(なやし)技やこれへの対処、突き技のまとめと言えます。

5、五之太刀
(動き)
仕方は小太刀で太刀に対します。
受方の正面への斬りつけに対し、仕方は退がりつつ右に摺り上げて小手を斬り、更に面を斬る。
次に、右胴を斬る受方の刀を、仕方は腰の位置で剣先を上に立てて受け、水月を突く。
(解説)
小太刀による摺上からの小手面の二段撃と、かわしにくい右胴撃への受突です。小手面の二段撃は圓での基本の撃突です。
詰合での仕方は小太刀の居合から始まります。

第四、五合之形の体系

1、敵の動きと我の動きを刀の動きからみた場合
①敵の刀が早く、我の刀が遅い。
②敵の刀と我の刀が同時。
③敵の刀が遅く、我の刀が早い。
 の三種の場合以外ありえません、
これと一之太刀から三之太刀までを対応させると
 一之太刀は①の場合
 二之太刀は②の場合
 三之太刀は③の場合
となります。
その全ての動きは、刀術のみならず俰を含む他の武器武技全てに通ずる具体的な技として示されています。

2、四之太刀は、敵の刀と我の刀との関係でなく、受方の刀の動きそのものに着眼します。受方の刀の動きが完成し止まる一瞬前の、まだ動いている最中をとらえて撃突します。
萎や突も、他の武器武技全てに通じます。
萎は鎗、長刀、棒など、長く重い武器に対して多用される技です。
突については、一之太刀に前突と表突、四之太刀に裏突、五之太刀に前突が示されています。

3、五之太刀
立身流剣術陰之形は小太刀の入身(いりみ)から始まりますが、ここでは太刀の先攻から始まります。
小太刀による間合をとりつつの摺上は、逆に間合を詰めつつ行えば「妙剣」(「立身流之形第二巻75頁」となります。双方に小太刀の居合も含まれます。
膝への攻撃への小太刀による受は陰之形(「立身流之形 第一巻」に掲載)「左入身」に出てきます。
また、鎗術小太刀合を参照してください。

4、三之太刀での「匂いの先」との関係で、先、後の先、先先の先については第21代宗家加藤髙の論考「気攻め、術攻めで敵を守勢に立たしめる」「以先戒為宝」(共に拙著「立身流之形第二巻」146頁以下、宗家論考所収)を参照してください。

第五、立身流全体の中での体系的意味

1、五合形の前提
立身流全体が向圓の理念の下にあるのですが、五合形は、直接的には立身流剣術表形および立身流剣術陰形を前提とし、これらを習得の後にこれらと総合して修練されます。
表形については、その破の形を例として拙稿『立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)』に記しました。その中での記載や、拙稿「立身流と剣道・居合道・杖道」で五合形との関係に触れましたので参照してください。

2、五合形の展開
以上のとおり、五合形の體用技法は、刀のみならず俰を含む他の武技武器全てに連なる具体的内容として示されています。
五之太刀は、小太刀としての立身流剣術陰形を追補集大成し、対長物武器などへの更なる発展へと繋げるものです。
武器を手にしなくても、また、刀以外の武器を手にしたとしても、すぐに応用しうる技が五合形です。
具体例としては、拙稿「立身流と剣道・居合道・杖道」を参照してください。

以上

2021年 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部

すべて圓相のもとに~立身流傳書より

立身流第21代宗家 加藤 高
初出昭和53年(1978年)8月1日発行
1978 月刊剣道日本 8月号
令和3年(2021年)2月27日掲載/令和3年(2021年)3月3日改訂(禁転載)

立身流の極意とする技について、つぎのような道歌があります。

三つの太刀 清く清きぞ此の勝身 斬ると思ふな打つと思はじ(註1)

三つの太刀とは「三光の勝」(註2)つまり月の太刀、日の太刀、星の太刀(註3)のことで、この三光の太刀こそ、技のうえでは極意中の極意とされるものですが、じつは、それは入門と同時に傳授される「向(むこう)」「圓(まるい)」の秘太刀を、執心こめて抜き続けるうちに、いつしか到達する心技一体の姿です。

「向」「圓」をここまで抜き続けると、いっさいの無駄な所作や虚飾は消えうせ、どこにも付け入る隙がなくなるというものです。

さらに、究極としては、身体を動かすことそれ自体も無駄となり、動かすのではなく、ただ無心にはたらく(註4)という境地を求めていくことになります。

立身流の極意をあらわす言葉として「満月の位」(註5)がありますが、満月は圓相の表現です。圓は太極(註6)に発して、天・地・人の曲尺合(かねあい)(註7)をもってはたらき(術)、互いに徳(註8)をそなえて(心)、ふたたび太極に納まり、尽きることなく循環するのです。

この満月の位に立って敵に向かえば、なに一つ迷いを生じることもなく、敵に対して、ただ無心にはたらく(術)ばかりで、動も静も互いに循環して途切れることを知らないというのです。

「八方詰之圖」
図「八方詰之圖」立身流三四五曲尺合之巻

(註9)中の我は一つであり、圓相をなしています。無意、無心、無固、無我(以上、註10)その心境は鏡のようであり、変働無常、転化自在、ただ、天理にしたがってはたらくばかりです。

八方の敵は、おのれの象(かたち)に偏し、方相をなして暗く、計りごとをもって円相を破ろうとねらい、勇を励まし、ますます堅強濁重の気をみなぎらせています。間をはかり、機をみては斬りつけるのですが、囲中の我をどうしても破ることができないでいる図です。
道歌でも、つぎのように謳っています。

三つ四つ五つに叶ふ曲尺なれば 時にのぞまば曲がらじと知れ(註11)

天地人の曲尺合に熟達すれば、いつ、いかなる場にのぞんでも、おくれをとることはない、ということです。

立身流では「心の曲尺、太刀の曲尺、身の曲尺」(註12)といって、心技体の三者が、相互のバランスを保ちながら、あるいは大きく、あるいは小さく、さまざまな圓を構成して芸術の極致をつくりあげています。

角のあるものや直線的な運動は衝突して壊れますが、圓運動は衝突せず、壊れることもなく、相手も傷つけません。

現代剣道では、かなり高段者のなかにも、直線的な運動をされているかたを多く見受けます。これは、一つの勝れた技だけを頼りにやれる競技本位の風潮が、剣本来の姿を変えてきているのではないかと考えます。今一度原点に立ち戻り剣道のなんたるかをつかんでほしいと思います。


出典等
(註1)立身流極意之巻
(註2)立身流極意之巻
(註3)立身流極意之巻
(註4)立身流變働之巻
(註5)「満月之事」立身流極意之巻
(註6)立身流眼光利之巻
(註7)立身流三四五曲尺合之巻
(註8)立身流俰極意之巻
(註9)「八方詰之圖」立身流三四五曲尺合之巻
(註10)立身流三四五曲尺合之巻
(註11)立身流三四五曲尺合之巻
(註12)「身の曲尺と心の曲尺と太刀の曲尺 ただ直にせよ 三つの曲尺合」立身流立合目録之巻

(ルビ及び出典等の註は立身流第22代宗家 加藤紘による)

立身流傳書・古文書等での東北弁表記 ~「手舞足蹈處皆一物」等に関連して

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和3年(2021年)1月16日 掲載(禁転載)

第一、はじめに

拙稿「千葉の立身流」「立身流古文書に於る不合理的表現の合理性」でふれたとおり、立身流は、第九代宗家竹河九兵衛から第十八代宗家半澤成恒までの12代にわたり、1680年代から明治初頭のほぼ200年の間、東北地方とくに山形との深い縁がありました。
このため現代まで伝わる立身流の伝書や古文書には東北弁の影響による表記が散見されます。具体的には「い」と「え」の混同表記です。
立身流の史料解読の際に留意すべき一点です。

第二、立身流俰極意之巻および立身流(三四五)曲尺(合)之巻(さんしごかねあいのまき)の文中に「手舞足蹈處皆一物」(てのまい あしのふむところ みないちぶつ)の語句(以下、本句という)があります。

一、本句は、中国古典の「礼記」(らいき)の「故不知手之舞之足之蹈之也」(ゆえに てのこれをまい あしのこれをふむを しらざるなり)との表現に拠っているとも思われます。
本句に関し、今ここでとりあげるのは「舞」「蹈」の二字についてです。
「蹈」については、拙稿「立身流に於る足蹈と刀の指様」及び「五輪書「足づかいの事」記載の解釈~立身流と照し合わせて」に記しました。
以下では主に「舞」についてふれます。

二、立身流俰極意之巻での記載は次のとおりです。

「…習此要術手舞足蹈處皆一物乎規矩無不曲尺」(…このようじゅつをならうに てのまい あしの ふむところ みないちぶつなるか。きくとして かねならざることなし。)

続いた文章は次のように記されます。

「故無浮沈方寸迷心目體用一致則自然徳乎」(ゆえに ふちんほうすんのまよいなく しんもくたいよういっちすれば すなわち しぜんのとくならんか)
「心目體用一致」については拙稿「立身流に於る「…圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理…」(立身流變働之巻)」(「立身流之形第二巻」95頁)等を参照して下さい。

そして、立身流立合目録之巻の全25首の道歌中7首目の歌は次のとおりです。

「身の曲尺と心の曲尺と太刀の曲尺 多々直にせよミ川の曲尺合」(みのかねとこころのかねと たちのかね ただちょくにせよ みつのかねあい)

本句はこの道歌の「身の曲尺」の内容を解き明かすものです。「心の曲尺」については拙稿「立身流について」(「立身流之形第二巻」87頁)等を、「太刀の曲尺」については拙稿「立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)」(「立身流之形第二巻」119頁以下)等をそれぞれ参照してください。
なお、歴代の書いた歌の読み方はみな同じですが、漢字を含む歌の表記表現方法については、歴代の宗家が、それぞれの解釈と思いを込めて各自異なる表記方法をとることがあります。
また、立身流には、立身流俰極意之巻、立身流極意之巻の二巻は、第七代宗家大石千助によって付け加えられたものである、との伝承があります。

三、立身流曲尺之巻の、前文での該当記載は次のとおりです。

「…手舞足蹈處皆是一物乎規矩無不曲尺故認拙語時陳梗概顕…」(…てのまいあしの ふむところ みな これ いちぶつなるか。きくとして かねならざることなし。ゆえに せつごをしたため この こうがいをのべ あらわす。…)

立身流曲尺之巻が、立身流第十一代宗家逸見柳芳が加えた巻であると伝えられていることは、拙稿「立身流傳書と允許」に述べた通りです。
柳芳は「出羽の人」と明記されています(「拳法圖解」久富鐡太郎(明治21年)119頁参照)。
立身流曲尺之巻の冒頭は次の文から始まります。

「立身流利談有三四五曲尺命師雖口授之年久替(「賛(とく)」と記す傳書もある)而師又其数益不能委知…」(たつみりゅうりだんに さんしごのかねとなずくるものあり。し これをくじゅすといえども としひさしく すたれて しもまた その すうえきを くわしくしることあたわず。…)

柳芳は、このようにして立身流俰極意之巻の上記部分をも併せ含めて考究しました。

四、ところが、立身流俰極意之巻においても、立身流曲尺之巻においても、「手舞」を「手前」と表記する伝書巻が複数あります。
「手前(まえ)」でもこれを「所作(しょさ)・腕前・技量」と解すれば文章の意味を理解できないわけではないのですが、やはり「手舞(まい)」の方が自然でしょう。
「手前」は、東北弁の影響による「手舞」の変記であると私は理解しています。

五、本句の「蹈」を「踏」と表記する伝書巻も複数あります。私はこれも変記と理解しています。

第三、他の立身流古文書での東北弁の影響をみてみます。

一、「立身流秘傳之書」より
拙稿「立身流に於る「…圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理…」(立身流變働之巻)」中の「第十」(拙著「立身流之形第二巻」96頁)で、私は「立身流秘傳之書」から「弓ガエリ」の語を含む文を引用しました。
実はその際、原文では「弓ガイリ」とある記載を「弓ガエり」と直して引用しています。
東北弁表記と判断したためです。

二、「立身流刀術極意集 完」より
「立身流立合目録之分」中の「外」(とのもの)より

「抜所被留勝様之事(ぬくところ とどめられ かちようのこと)
是ハ抜ントシタル時敵方ニテ棒カ又ハ杖ニテモ以(もっ)テ我太刀ノ柄ヲ手ヲヲサイル時柄ヲハナシテ又柄ヲトルト電(いな)ヤ抜打二ウツ也」

ここでの「ヲサイル」の「イ」は東北弁表記ですから、「エ」として解釈すべきことになります。

三、「立身流之秘」より
1、「居合目録陰五个(か)口傳之分」より

「戦場平日共人中(ひとなか)イ出時(いずるとき)異形(いぎょう)ノ大小(大刀小刀)不用事(もちいざること)

ここでの「イ」も同じく「エ」として解釈します。

四、立目流(たつめりゅう)
身(み)と目(め)の混同の例です。
拙稿「日本伝統武道の流名・呼称・用字~立身流を例として」中の「第三、立身流名の変化した俗称など」の②として記しました。参照してください。

以上

2021年 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部

五輪書「足づかひの事」記載の解釈 ~立身流と照らし合せて

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和2年(2020年)6月7日掲載/令和4年10月27日改訂(禁転載)

第一、はじめに

一、宮本武蔵(以下、武蔵という)の「五輪書」(以下、岩波文庫版「五輪書」校注者 渡辺一郎 1985年2月18日岩波書店発行を本書といい、引用頁数を示します)48頁に、

「一 足づかひの事
足のはこびやうのこと、つまさきを少しうけて、きびすをつよく踏むべし。足づかひは、ことによりて大小・遅速はありとも、常にあゆむがごとし。…」

(以下、設文という)とあります。

設文については拙稿「立身流に於る足蹈(あしぶみ)と刀の指様(さしよう)」(立身流之形 第二巻104頁以下。以下「前掲論考」という)で触れました。

二、ところが、その前掲論考と異なり、「設文では、歩きながら斬るときも構えた時も、前足だけでなく後ろ足も、爪先は浮かせて地から離し、踵は地に着け強く踏みしめてなければならない、と述べられている」と解釈する方がいらっしゃる、とのことで質問を受けました。
私は武蔵の流門系の者ではないのですが、敢えて結論を述べさせていただくと、そのような解釈は誤りであって、武蔵はそのようには述べていません。そもそも、そのように「歩む」ことができるのでしょうか(前掲論考参照)。

第二、本稿の位置付け

先ずは前掲論考をご覧ください。立身流の見地から設文にふれていますが、これをお読みいただいただけでも前記結論が導き出されます。
本稿は、設文の解釈に関係する範囲のみに限定して考察し、前掲論考を補完するものです。柳生新陰流の史料をも参照いたします。

第三、出発点…足蹈と刀の指様の関係 (前掲論考の表題参照)

一、前掲論考では、立身流序之巻の記載の引用に次いで、このように記しました。
「屋外では常に大刀を帯刀し、歩くとき走るときも腰にあります。脇差を腰にし、時には短刀をも腰にします。」
太刀については腰に差しても、佩(は)いても同じです。
帯刀者である武道者の代表例は武士です。

二、武蔵も本書で同じことを述べています。
 26頁「武士は…二刀を腰に付くる役也。」
 11頁「夫兵法といふ事、武家の法なり。」
 12頁「武士たるものは…兵の法をばつとむべき事なり。」
そして
 46頁 「惣而(そうじて)兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事肝要也。」

三、兵法者すなわち武道者の足蹈は、最低限、帯刀に適合した歩み方でなければなりません。
いいかえれば、武道者の歩みは最低限、帯刀して歩みやすい歩みであり、帯刀して歩みやすい歩みは、武道者としての歩みの出発点だということです。
帯刀を想定しない歩みの研究は、武道者の歩みとは直接には関係のない研究だということになります。

四、帯刀しての歩みや走りを感得することが必要です。
「腰の刀から手を離し、長距離長時間を二キログラム弱の真刀を腰にして、できれば脇差、短刀も差して歩いてみてください。」(前掲論考)。これが武士の日常です。
刀の重さ、重心、上下前後左右への揺れ,歩みによる反動、長距離歩行による崩れなどが理解できるはずです。
その状況下で最も安定する「足蹈」を、「刀の指様」と共にまずは探らなければなりません。
現代の日常が刀具と無縁であることが、後記の「常の歩み」を理解しにくい、あるいは誤解される一因と思われます。

第四、設文理解の前提…「自由」「常」「歩み」

一、(身体の)「自由」「自由自在」
本書には随所に「自由」の語がでてきます(25頁、79頁など)。
37頁と74頁には「惣躰自由」とあり、これは立身流秘伝之書での「我體自由自在」(拙稿「立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)」参照)と同義とおもわれます。
ちなみに、柳生宗矩(以下、宗矩という)著「兵法家伝書」(岩波文庫版「兵法家伝書 付 新陰流兵法目録事」校注者 渡辺一郎。以下、家伝書という)にも「自由」の語がみられ(30頁、61頁、74頁、91頁、107頁、115頁、117頁)、106頁には「自由自在」とあり、ここにも上記の立身流と同じ語句が示されています。
武蔵は勿論、立身流を含む日本伝統武道では、身体そして心の自由を希求していることがよくわかります。
武蔵のいう「足づかひ」も、あるべき身体の「自由」の一環として解釈せねばなりません。例えば「いつくという事を嫌」(本書48頁)います。

二、常(の歩み)  
武蔵が「常」の字を随所にちりばめているのも前掲論考記載のとおりです。
本書では、「常の心…常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして、」43頁、「常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事」46頁、「常住」47頁の他、本稿に直接関係する足の動きについては、「常に歩むがごとし」48頁設文、「我兵法におゐて、足に替わる事なし、常の道をあゆむがごとし。」128頁、「一 足ぶみの事 足づかひ、時々により、大小遅速は有れ共、常にあゆむがごとし。…」143頁、「…常にあゆむ足也。能々吟味在るべし。」148頁とされています。

ちなみに家伝書でも、「…平常心…常の心…常の心…」55頁、「…常の心…常の心…」56頁、「…平常心…平常心…」57頁、「平常心」58頁、「常の心」59頁・73頁・115頁の他、本稿に直接関係する足の動きについては「一 歩みの事 歩みは、早きもあしく、遅きもあしし。常のごとくするすると何んとなき歩みよし。」72頁と記されます。

武蔵は勿論、立身流(前掲論考及び拙稿「立身流傳書と允許」の注2・第三参照)を含む日本伝統武道では、いかに「常」「平常」が重視されているかがわかります。
これは、上記一、に述べた自由が通常の日常生活中でも発現すべきことを意味します。

三、歩み 
前記のとおり、歩み(走りを含む)は武道の礎であり、出発点です(後記参考(1)参照)。戦場でも日常でも、原則、歩かねばなりません。それらの動きの上に武道があります。
武道者の日常生活での歩みは武道での歩みと同じであるのが理想で、それは必然的に身体の自由を希求するものでなければなりません。
常態としてあるべき歩き方ですから、武道者として修練を積むべき武道としての礼法でもあります。立身流礼法(特に後記の「足蹈」)については拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」を参照してください。この稿と前掲論考に「常の歩み」の内容も説明しました。走りについては、拙稿「立身流剣術表(之形)に於る足どり」を参照してください。
なお、後記「足づかひ」を参照してください。

四、「あしぶみ」の「ふむ」の用字…「踏」と「蹈」
(1)
五輪書には武蔵直筆の原文はないとも、原文は平仮名だけだったとも云われていますが、本書で「ふむ」は、平仮名(127頁・128頁・143頁)での記載の他は「踏」の字が使われています(48頁・128頁)。

(2) 私は武道での足使いについては、もちろん例外はありますが、原則として「踏」の字を充てるのは妥当でなく「蹈」の字を充てるべきと考えています。
前掲論考に『「蹈足」であって「踏足」ではないのです。』と記したように立身流の用字がそうです(後記参考(1)及び前掲拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」参照)。
家伝書79頁では「足ぶみ」となっていますが、柳生延春先生(以下、延春先生という)著「柳生心陰流道眼」(平成8年6月1日 株式会社島津書房発行。以下、道眼という)頁前の巻頭の「始終不捨書」(柳生兵庫助利厳(以下、兵庫助という)著)原文の十三には「・・・足ヲ無ニ蹈出シ・・・」、十六には「一足ヲ蹈習之事」となっていて「踏」の字は使われていません。

(3) 大漢和辞典(以下、大漢和辞典という)巻十(著者 諸橋轍次 昭和61年9月1日修訂版第七刷発行 株式会社大修館書店)を抜粋します。

 926頁
  踏 ふむ。㋑足をあげ、又、地に著ける。㋺ふみつける。ふみおさえる。
 943頁以下 
  蹈 ふむ。㋑足を地につける。㋺ゆく。行くさま。あるく。
    うごく

「踏」は歩きと関係なく、足をあげ、又、地に著ける動作、典型的にはふみつける動作です。
「蹈」は、あるきうごく足を地につける動作です。

これら漢字本来の意味からも武道での「あしぶみ」は原則「足蹈」とすべきです。

(4) 「蹈」ではなく「踏」の字を使用することで、本来は「ふむ」「蹈む」にはないはずの「踏みつける」という感覚が無意識的に働き、武道での足使いの解釈に影響を及ぼしている面があるように思われます。
他方、例えば本書148頁「剣を踏む」は「踏」で妥当だということになるでしょう(本書89頁以下参照)。
本書での、例えば設文での「ふむ」は、「あるきうごく足を地につける動作、すなわち、蹈」を意味すると理解すべきです。
但し、本稿で文献引用の場合はすべて原文の用字に從っています。

第五、設文での「足づかひ」・「足のはこびやう」・「つまさきを少しうけて」・「きびすをつよく踏むべし」

一、「足のはこびやう」
(1)
「はこび」というのは「はこぶ」動作を意味します。運び終わった後の状態を意味しません。人間には両足あります。前へ歩いているときの両足をみると、前足が右足の場合を例にとれば、動いて蹈出して動作しているのは右足です。運ばれているのは右足であって、残っている後ろ足(この場合は左足)ではありません。地につく動作をする、すなわち蹈んでいるのは前足(右足)であって、後ろ足(左足)ではありません。
つまり、ここで武蔵がのべているのは前足(右足)についてのみであって、後ろ足(左足)ついては述べていません。

(2) 兵庫助は前出「始終不捨書」で(道眼記載原文の九)、「一 足ハ懸ル時モ退ク時モ跬タ浮キタル心持之事」と述べています。「跬」とは大漢和辞典によれば「ひとあし。一足を挙げる。」意です。新修漢和大辞典(小柳司気太著 株式会社博友社 昭和36年12月10日増補第17版発行)には「カタアシ 一足をあげること」とあります。「浮キタル心持」なのは片足すなわち前例での前足(右足)であって両足ではありません。なお、「跬タ」の読みは、片足を意味するものとしての「カタ」でよいと思いますが、延春先生は「カタカタ」と読んでおられます(道眼187頁)。

二、「足づかひ」
これに対し、表題としての「一、足づかひの事」の「足づかひ」は、足の使い方を総体的に示していますから、ここでの「足」とは右足左足の両足ないしその関係を、つまりは「歩み」を意味するものでしょう。
設文でも、「常にあゆむがごとし」であるのは「足づかひ」なのですから、武蔵は「足づかひ」を両足での「あゆみ」を念頭に置いた語としてとらえていることになります。
そして武蔵は、「足のはこびやうの事」の説明を記載した後、わざわざ文章を分けて、「足づかひは、・・・常にあゆむがごとし。」と更に記しています。その意図は、両足の「足づかひ」の両足のうち、特に「はこぶ足」(前足)についてはこの通りだが、そもそも常の歩みの両足での前足がそのようなものなのですよ、と説明していると理解できます。

三、「つまさきを少しうけて」
(1)
ここの「うけて」は、「浮けて」と「浮」を充てるのが一般のようです。
私は、あるいは他の漢字を充ててもよいのではないかと考えています(例えば「請」)が、いずれにしても「うけて」の意味は、「常の歩み」「惣躰自由」の下の動作ないし状態として解釈しなければなりません。
居着いたりしてはいけません。本書48頁に「いつくは、しぬる手」とありますが、「いつく」は「居着く」と書かれるのが普通で、その語感からむしろ足に関していわれることが多い言葉です。
ところが、「うけて」を「浮かして」と解し、さらにそれを「床に触れないように(少し)上にあげて」と解して足指先を持ち上げる意味とするのでは、足をことさらに力ませることになり、ひいては足を居着かせることになってしまいます。

(2) 椅子に坐って右足を左膝の上に乗せてみてください。右足指に力を入れなければ自然に右足指は右足裏の平面より上がっている(浮いている)筈です。その状況は力まない限り「足のはこび」すなわち歩みで蹈出すときも全く同様です。
武蔵はこのことを言っているのだと私は解釈しています。
足裏が地に着いた後はどうなるかですが、地に着いた後も足指に力をいれず力まないのですから、指は軽く地に接することになります。
前掲論考に「地面に平行に着地し、かつ力みの入っていない足の爪先裏は自然に浮き加減となります。」と記したとおりです。

(3) 道眼187頁に『兵法歌に、…「懸ル時も退ク時モ足ハタダヰツカヌヤウニ使ウべキナリ」とある。』とあり、又、188頁に「うくるとは自然の勢位をもって爪先を浮ける--爪先をわずかに軽く上向し--はねるようにするのを好習とし、そのつくりつけを戒めて平常歩を提示したものである。」とされるのは、上記(2)と同旨と理解します。 

四、「きびすをつよく踏むべし」
ここはこの言葉どおりです。
注意すべきは、この言葉を極端にとらえ、踵(かかと)だけが(まず)地に着く、と解釈しないことです。「地面に接触する瞬間に踵を主とする足裏全体で、力むことなく強く蹈みます。」と前掲論考に記したとおりです。
この足蹈を身につけるための稽古方法が、立身流居合の立合序之形の「蹈足」といわれるものであることも前掲論考のとおりです。蹈足では「足の裏全体で蹈みますが、特に踵を床が抜けるほどに強く打ちつけます。」(前掲論考)。

第六、後ろ足

一、「足づかひ」の意味および、前足については述べました。
それでは後ろ足(前例での左足)のつま先と踵はどうなるのか。この点について武蔵は設文で「足づかひは、ことによりて大小・遅速はありとも、常に歩むがごとし。」として「常に歩むがごとし」とのみ示し、これに加えて、悪い例を示しています。
要は自由な身体の自由な足による常の歩みの後ろ足でしょう。

二、後ろ足のつま先は、そのまま地に接しているでしょう。力まないで後ろ足のつま先を上げて地から離し続けることは不可能です。
踵は、前掲論考に「後ろの足の踵は歩むとき軽く浮きます。」「棒立ちになったり、後ろ足の踵が極端に上がったりしません。」「後ろ足の踵が全く浮かない歩みはありません。」と述べたとおりです。
家伝書37頁には「一 あとの足をひらく心持の事」とあります。「心持」とあることに要注意です。

第七、構での両足

五輪書では、構の場合の足についての特別の記述はありません。構について述べている本書49頁以下、51頁乃至57頁・73頁・123頁以下・154頁のいずれにも足についてはふれられていません。
要は構えを取った時点での歩みの足であればよいのです。
ちなみに、家伝書にも構の足についての特別記述はありません(家伝書38頁「一 かまへは…」参照)。

第八、甲冑着用時

一、設文に関し、甲冑着用時の足と着用していない時の足は全く異なる、ひいては武術内容も異なるので、形も異なるし、稽古内容も異なる、と述べる方がいらっしゃるそうです。
これも誤りと言わざるをえません。
設文自体、甲冑着用の有無で分けることなく、全て「常にあゆむがごとし。」です。
甲冑着用時でもそうでなくても、原理原則は全く同一なのです。

二、本書等の記載
設文については上記一、のとおりです。
本書32頁では合戦に関し諸武具について述べられていますが、足づかひにはふれられていません。
本書127頁以下では「浮足」を嫌う「其故」として合戦にふれています。しかしこの「其故」は理由というよりも、本来いけない浮足だが「たゝかいになりては、必ず足のうきたがるものなれば」注意しなさい、といっているのです。合戦時で甲冑を着用していても、着用していない時と同様「我兵法におゐて、足に替る事なし、常の道をあゆむがごとし。」(本書128頁)なのです。
家伝書にも甲冑着用の有無で足につき区別する旨の記載は一切ありません。前出の「常(の歩み)」に関する72頁、「足ぶみ」に関する79頁を参照してください。
道眼での明確な記述については後記六(2)を参照してください。甲冑着用時の剣術が甲冑不着用の剣術に「止揚」されたのです。

三、時代性
武蔵も宗矩も戦場では甲冑着用の時代でした。しかし常日頃の日常が戦場にあるわけではありません。日常生活は甲冑を着用していません。その二人が「常にあゆむがごとし」(武蔵)、「常のごとくするすると何んとなき歩みよし」(宗矩)と述べています。その「常」とは、強いて言葉として言うならば甲冑を着用していない場面でしょう。
太平の世を経て、幕末から再び戦乱が続き、甲冑着用の機会が増えました。しかしだからと言って、その頃、甲冑を着用しない武術から全く異なる甲冑武術に変わり、形も変わったわけではありません。
その明治初期までの合戦での武術が、明治中葉の警視庁流、明治後期の大日本武徳会、その他、学生・学校・道場などでの武術武道に繋がっていきます。

四、「武道、剣道は発達してきたのでして、それぞれの時代の最先端を行く流派は、その根幹を崩さずに保持したうえで、時代に合わせて進化し、深化してきました。…時代を遡らせた形態を基本とすることはこの発達の歴史を無視することに外ならず一般的に無益有害です。」(拙稿「立身流に於る下緒の取扱」。なお後記参考(2)参照)
武道は時代による変化を吸収してきたのです。そして、いわゆる素肌剣法で鍛え上げられた武芸は、即、合戦でのいわゆる甲冑剣法になり得るのです。
ただ、重く、身体の動きの制約となる甲冑着用時にはそれに適合した動きをする必要があります。しかし、それをのみ特別に稽古する必要はなく、心得として承知しており、甲冑に慣れていればよい程度、と立身流ではとらえています。
武術錬磨の稽古は甲冑の着用なしで行われ、これにより甲冑着用の場合をも含めた武術が習得されていきます。

五、立身流での実例を拙稿からひいてみます。
(1)
「その(武道の)最盛時は実戦との関係でも幕末と言え、流派武道の古流としての形態の踏襲は幕末が基準になります。立身流草創の戦国時代以来の形態は幕末時の形態にすべて包摂されています」(前掲「立身流に於る下緒の取扱」)

(2) 「第五 足蹈(実演)…両足は成る可く平行となります(甲冑を着用しているときはやや異なる)。」(前掲「立身流に学ぶ~礼法から術技へ」)

(3) 「立身流着具之次第」(前掲論考)

(4) 「刀長短ハソノ人具足ヲ着テ能振ル程ヲ吉ト言 平日ト違 小手ヲ差テ抜兼ルモノナリ」⦅拙稿『立身流に於る「圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理…」(立身流変働之巻) 第十二』

六、立身流の「竪Ⅰ横一」との関係
(1)
本書45頁の「一 兵法の身なりのこと」では、「鼻すじ直にして」「くびはうしろのすじを直に」「背すじをろくに」(「ろく」とは、広辞苑によれば、まっすぐなこと。)などとされ、「常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事肝要也。」として、甲冑着用の有無による区別をしていません。143頁でも同様です。

(2) 兵庫助も武蔵や宗矩とほぼ同時代の人です。その兵庫助は始終不捨書で「一 直立タル身之位事」(道眼記載原文の九)と示し、道眼180頁には『兵庫助利厳の兵法歌に、「直立ツタ身トハ自由ノスガタニテ位トイフニナホ心アリ」「位トハ行住坐臥ニ直立ツモノゾ位ナリケリ」とある。』と紹介され、同181頁で延春先生はこれを『「真の自然体」といってもよい。』と述べておられます。」
兵庫助はさらに、始終不捨書(道眼記載原文の十)で「一 身ノ持様高上ニテ下ルハ好シ低シテ高上難成シ重ヽ口傳」とし、道眼200頁で延春先生はこれを「高上なる身の位から低く下げる働きをするのは好ましが、いつも低い身で懸かって、高上なわざはなかなかできがたいことを重々口伝して低く沈んだ身の位を禁習とした」と述べられています。
これは、「大きな動き方が身につけば、同じ動き方を小さくすることもできますが、小さい動き方ができたからといって大きい動き方までできるものではありません。」(拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」参照)という立身流の教えと同趣旨と理解できます。前記四で述べたことの一つの現れです。
さらに延春先生は、『利厳の兵法書、「始終不捨書」には「沈なる身」の介者剣術を止揚して、「直立つる身」の兵法を創り出した術理」』(道眼17頁)と記され、明確に「止揚」とされています。「止揚」したのですから、以降「沈なる身」と「直立つる身」が併存したわけではありません。

(3) 立身流では、姿勢につき「竪Ⅰ横一(たていちよこいち)」という言葉があります(後記参考(3))。「竪Ⅰ横一」については前掲拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」及び拙稿『立身流に於る、師、弟子、行儀、と剣道の「一本」』を参照してください。
上記(1)及び(2)で述べられている内容の姿勢は、立身流の「竪Ⅰ横一」とその内容に相通ずるものです。
なお、「身構」での「横一竪Ⅰ」(後記参考(4))についても上記二編で述べました。これは兵庫助が始終不捨書で「一 高キ構ニ弥高ク展ヒアカリテ仕懸ル位之事」(道眼記載原文の九)と述べる内容と相通じます。

第九、総括~形との関係

一、本稿で考察した「足づかひ」の内容全ては、古流各流派の形に凝縮されて存在するはずです。
「足づかひ」は、その流派の基本稽古から形稽古や地稽古(立身流での乱打や乱合)等の稽古の途上で練り上げられ、鍛え上げられ、修得されていきます。
設文の解読理解は、本来ならば、形を中心とする稽古の中で、時間をかけて身につけながらその都度吟味されていくものです(後記参考(5)参照)。武蔵のいう「能々(よくよく)吟味すべし」「能々工夫(くふう)あるべし」です。

二、形は、その流儀の歴史を背景として、実践と思索により醸成されてきました。
その意義は実用性だけはありません。歴史的に醸成された形が鍛えられた演武で表現され、そこに込められる技法と心法を直視すれば、芸術性を含めて、叡智と実践の結晶としての文化的価値を感受できるのではないかと思います(拙稿「立身流居合に於る鞘引と鞘(の)戻(し)~立身流歴代宗家の演武写真を参考にして~」第十 竪Ⅰ横一 参照)。
「足づかひ」にもそのような視点からの理解が必要なのではないかと考えます。


参考
(1)「足蹈は大方(おおかた)物の始めにて いえの土台の曲尺(かね)としるへし」
  [立身流俰極意之巻] (拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」参照)
(2)「世盤(よは)広し折によりても替わるへし 我知る計りよしとおもふな」
  [立身流理談之巻]  
(3)「十の字を我身の曲尺(かね)と心得て 竪もⅠなり横も一なり」
  [立身流立合目録之巻](拙稿『立身流に於る、師、弟子、行儀、と剣道の「一本」』参照)
(4)「身構は横も一なり竪もⅠ 十の文字こそ曲尺合としれ」
  [立身流俰極意之巻](拙稿 同 参照)
(5)「立身流古文書類ノ研究解明ハ必ズ実技修得後ニ於イテ実技ニ照ラシテナス事 実技ト理合ノ対応九ナキ研究解明ハ判断ヲ誤ル場合少ナカラズ 注意スべシ」
  [立身流入堂訓第九条]

以上

古武道に学ぶ心身の自由(三)

日本古武道振興会会長 立身流第21代宗家 加藤 高
初出 月刊柏樹1995年4月号(No.145) 平成7年4月10日株式会社柏樹社発行
令和2年(2020年)5月24日 掲載(禁転載)

もう、六十年ほども前のことである。俰の形(やわらのかた)を見た某婦人団体から「立身流俰(たつみりゅうやわら)は、婦人護身術として最も適切である。近く講習会を開催するから、是非、立身流俰の御指導をお願いしたい」との依頼を受けたが、元来、立身流は太刀の業が一通りできてから、俰(やわら)に入ることになっているので、私としては、古来からの修行順序をくずすわけにはいかないので、お断わりしたことがあった。

その頃私は、講道館柔道の達人、山本昇先生の切なる勧誘で、講道館柔道を稽古するようになった。山本先生の専門は柔道であるが、剣道も武徳会教士で、先生の御尊父は揚心流柔術範士で、幕末から明治にかけての、有名な大家であった。山本昇先生は立身流宗家、亡父、加藤久とは頗る昵懇の間柄であったので、私に対しては、特別目をかけて稽古をつけて下さった。

講道館柔道は投げわざが発達しているが、私の場合、立身流俰の素養が大いにプラスとなり、三箇月ばかり稽古したら、あまり投げられなくなった。そのうちに柔道大会があって出場した際、相手は大体学生、警察官であったが、当時私は二十歳台の血気時代で、溢れるばかりの体力気力にものをいわせ、組むや否や鎧袖一触、遮二無二投げとばして、とうとう優勝してしまった。

その時、山本先生が手招きされたので、片手間にやった柔道で優勝したのだから、多分先生は褒めて下さるのだろうと、内心期待しながらお伺いすると、先生曰く、「君の柔道は強さはあるがうまさがない。試合だからあれでも一本になったが、あんな無理な力業の柔道をやっていると、四十歳を超えると、めっきり弱くなってしまう。先ず相手の体の重心を外し、相手の崩れたところを風の如くに業をかけて投げたのが、本当の一本である。併し筋がいいから、今後心を入れかえて稽古に励みなさい」と、案に相違して、大変厳しいお叱りを受けてしまったのである。

その後先生から稽古をつけていただく際には、無理に業をかけると、絶対に受けつけてくれないが、先生が動こうとするところ、動きつつあるところ、動いてとまろうとする刹那にこれを察知して業をかけると、投げさせてくれることがわかった。

つまり、立身流の必勝の原理(月刊「柏樹」一九九五年二月号参照)でいう(一)、即ち心身の自由を得た「匂の先 (においのせん)」と全くその軌を一にしていることがわかったのである。

その後の柔道大会で、私よりはるかに軀幹長大で剛強な相手と組合せになったが、最初は組まずに小手先を争っているうちに、やがて相手が不用意に手をのばして、袖をつかもうとした時、電光石火、巧みに相手を引張り込んで肘関節の逆をきめ、数十秒で勝ったのである。これなども「匂の先」の活用に過ぎない。先生からも「相手の起りをとらえ、悍烈俊敏な逆業できめたのはよかった」と、はじめて褒められたのである。

立身流では心身の自由をなるべく迅速に体得させるための方策として、一定の練度に達すると居合では「数抜き (かずぬき)」、剣術では「立ちきり稽古」という、言語に絶した強行手段で、猛稽古を古来から実施してきた。

先ず「数抜き」であるが、これは相対峙した二人が、一定の間合(敵との距離)をとって、相互に「イヤー」、「エィー」の発声と共に、互いに前進、後退を繰り返しつつ、向(むこう)(敵が切りつけてきたのを、受け流して切りさげる業)、円(まるい)(敵が切りつけようとした時、腕を切り、面を切る業)を抜くのである。

主審一人、副審二人の立合(たちあい)で、形(かた)がくずれた場合には本数には入れない。主審は五十本ごとに本数を発表する。演武は夕刻より開催し、翌朝の夜明けまで連続三千本抜くのである。三千本通した者は更に数年稽古をつみ、次に「数抜き」一万本に取り組むのである。古武道立身流第二十代宗家・加藤久は、青年時代、「数抜き」三万本を通したがこれは創流以来、空前絶後といわれている。

「数抜き」開始後、千本ぐらいまでは普段の稽古と同じような、安易な気持で抜き、呼吸も静かであるが、千五百本位の頃になると、厳寒の夜中といえども、熱汗、瀧と流れ、そろそろ呼吸も乱れはじめ、やがて二千本を越えると、最早体力気力の限界に達し、それ以後は誰しも否応無しに、思わず我を忘れて至誠一途の心魂に徹するに至り、自ら心身共に自由自在なる、所謂、立身流奥義の、「深夜聞霜 (深夜霜を聞く)」、「満月之事」(前述、月刊「柏樹」一九九五年二月号参照。無念無想)の心境に到達できるのであるが、これは自然の機能の然らしむるところである。

古武道立身流の道歌に、

  敵もなく我もなきこそ此の勝身
    とる敵もなく捕る人もなし

剣術の「立ちきり稽古」は十数名で円陣をつくり、本立(もとだち)を中央にしてこれを囲み、礼は最初と最終だけでその他は省略し、抜刀して構えたままで本立と対峙し、立会人三人のうちの主審の号令により、入れ代り立ち代り、猛烈果敢に本立に懸っていって、息つくいとまもないぐらいに、撃突を加え、体当り(体で相手にぶつかって、はねとばす)、足搦み(相手と接近した場合、柔道の応用で投げとばす)、果ては組討等で、本立を半殺しの状態に痛めつけてしまうのである。

これまた剣術「立ちきり稽古」三千本を通すのは、尋常一様の仕業ではなく、無理矢理にも、真に死生の間をくぐらせられるのであるから、最後には必然的に、居合「数抜き」同様に心身自由自在なる無我の心境に到達せざるを得ないのである。

居合「数抜き」も、剣術「立ちきり稽古」も、勿論、単なる体育というような枠をはるかに越えた徹底した類例のない特殊猛鍛錬である。

古武道立身流の伝書に「心目体用一致」「口伝」とあるが、これも要するに心目(敵の意志を察知する心のはたらきと、肉眼で知る敵の動静)と己れの体と、使用操作する武器とが、渾然一体をなし、瞬間的に最大限にその機能を十分に果す活動をいうのである。別伝にある「気剣体の一致」とほぼ同一内容のことをいうのであるが、これなども、いうなれば心身の自由自在なる活動が基をなしているので、そのために古武道立身流では、初心のうちは先ず平常心を乱さないように心がけ、心と体と剣の動きが、無理なく正しく自然にできるようにするために先ず桁打ち(足捌きと共に相手の打ち込みを受けて打ち返す動作)、廻し打ち(同様の動作を右廻り、左廻りに繰り返す動作)という、比較的簡素な基本業を袋竹刀で稽古するのである。いわば立身流独得の、切り返しのようなものである。

立身流伝書の道歌に、

  足踏みは大方物の初めにて
    家の土台の曲尺と知るべし
  身構は横も一なり竪も一
    十の文字こそ曲尺合としれ

私は往年学生時代に、澤木興道老師について禅を学んだことがあるが、禅も剣も不動心をつちかい、心にこだわりなく、心身自由自在なる無我の心境に悟入するための修行であることにはかわりないが、強いて言うならば、剣は動より、禅は静より入定する場合が多いように思われる。

古武道立身流奥義の「深夜聞レ霜 (しんやしもをきく)」という純粋経験の窮極の心境は、主格も対立もなく、さながら引きしぼって、満を持した弓勢のようなものである。そこには無限の力と、充満した緊張がみなぎっている。

老子の説く「抱」も、禅家(ぜんけ)の唱える「無」も、これは幾度となく前に述べた通り、古武道立身流の「満月之事」と、全く同一の妙理を説いているのである。

古武道立身流を評して、「動く禅」といわれているが、誠に適切な評言だと思う。

道歌に云う。

  立ち向ふ時の心は明月の
    くまなく照らす姿なりけり

古武道は勿論単に剣を弄する術ではない。又、決して自己を守り、敵を制するための手段だけのものではない。

相対の我を絶対の無我たらしめ、心身を自由自在、金剛不壊の大自在にいたらしめ、より高大なる自己を創造するため、全身全霊を提げての、苦心惨澹たる修行にほかならないのである。(完)