立身流第22代宗家 加藤紘
「三田評論」No.1123(2009年5月号),pp5–7,初出
[平成21年10月8日掲載/平成25年7月26日改訂]
福澤先生が立身新流の居合を嗜んでおられ、「ずいぶん好きであった」(『福翁自伝』)ことは有名である。明治26~8年の間に3回程いわゆる千本抜をされた居合数抜記録が残っている。
「数抜」とは立身流居合修行の独特の方法であり立身流独自の用語である。
立身流では「向」「圓」という二つの太刀筋から稽古が始まりかつこれが極意とされる。居合、剣術、鎗の基本の形の名でもある。俰、長刀、棒、半棒、四寸鉄刀などの総合武術である立身流の動きの根本をなし、この二つが源となって千変万化する。心法、思想、宇宙観まで、この二元をもって理解、鍛錬の拠り所とする。
向は「後の先」の技である。敵の我が面への斬撃に対し、我が刀を抜き放ち立身流独特の技法で鎬ぎ、逆に敵の面を斬る。圓は「先」又は「先々の先」の技である。柄にかけた敵の手を抜打に我が両手で斬り、さらに面を斬る。
向と圓にはそれぞれ序(基本)、破(実戦)、急(応用)の形があり、更にそれぞれに、歩きながら、あるいは走りながら抜く「立合」と、坐して抜く「居組」とがある。
数抜はこの向、圓の立合の破を二人相対して「ヤー、エーイ」と発声しつつ抜き続けるのだが、先生の記録は一人抜きのようである。
先生が「四尺ばかりもある重い刀を取って庭に降りて、かねて少し覚えおる居合の技で二、三本抜いてみせ」た(『福翁自伝』)のも、立合の向、圓であろう。
数抜は現在も行われ、一日三千本、三日で一万本を通す。基本の技、動きを身にしみこませ同時に体力をつけるのが目的であるが、個癖が矯正不能ともなるので、基本を習得した者のみに許される稽古方法である。見分役は形が崩れたとみると直ちに中止させる。
また、『福翁自伝』に「しじゅう居合刀を所持して、大阪の藩の蔵屋敷にいるとき、また緒方の塾でも、おりふしはドタバタやっていました。」とある。このドタバタにも意味がある。
居組の序の向の形は、正座から、右膝を床に突き腰を立てながら左足を前に強く蹈み出し(その音をドタとする)同時に刀を抜いて敵の面撃を鎬ぎ、直ちに左右の足を蹈み違え(その音をバタとする)ながら敵の正面を斬る。
圓は、正座から、左膝を床に突き腰を立てながら右足を蹈出し(ドタ)同時に柄にかけた敵の手を抜き打ちに斬り、足はそのまま二之太刀で面を斬る。
立身流の居合は8本が一組だから、向(ドタバタ)、圓(ドタ)、後向(ドタバタ)、後圓(ドタ)、前後(ドタ、バタ)、左(ドタバタ)、右(ドタ)、四方(ドタ、バタ、バタ、バタ)の8本を通して一区切りとなる。先生の稽古風景が目に浮かぶようである。
立身流は約500年前の永正年間に、妻山大明神に参籠して開眼した伊予国の人立身三京を流祖とする。三京は稲葉一鐵の別名だとの説もあるが定かではない。立身三代をかけて完成したとされ、第六代桑島太左衛門(将監)の弟子 木村権右衛門が1590年代に分流して立身新流を名乗り 奥平家に仕えた。後に桑島も仕えている。伝書や文献には、「立身新流抜合」ともある。中津藩で新流といえば、立身新流抜合のことである。
先生愛用の居合刀として、刃渡り2尺4寸5分(約74.3cm)、重量310匁(約1162g)の一振が残されている。
先生の師については『福翁自伝』に「中村庄兵衛という居合の先生について少しけいこした」とある。中津藩の中村姓は十一家だが、この名は「奥平藩臣略譜集録」や、「幕末中津藩士人名録」等の諸文献に見当たらない。庄兵衛は生田保の弟子との説もあるが(立身流之形第一巻等)、私は「中津藩史」に「中村庄米」と記されている生田保の師がその人であると今は考えている。とすれば先生は流祖を初代として12代目になる。
なお、塾長等を歴任した小幡篤次郎の父 小幡篤蔵(録高200石)は、その師 衣川惣助より立身新流の免之巻(免許)を許されている。これも流祖を初代として12代目となる。
立身本流は下総佐倉藩に伝わり、現在、千葉県無形文化財に指定されている。
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