立身流第22代宗家 加藤 紘
初出 一般財団法人千葉県剣道連盟
居合道部設立40周年記念誌「サムライたちの居合道」
平成30年4月発行
[平成30年6月23日掲載/平成30年7月9日改訂(禁転載)]
千葉県剣道連盟居合道部の設立前後、私は父の高の運転手役として、千葉市稲毛の志道(しぢ)吉次先生宅へ何度か伺った。
その志道先生のお誘いもあり、無段無級だった私は、受審の上での特認可能な最高段位の3段を昭和51年(1976年)3月30日付で授与された。審査での演武内容は古流、すなわち立身流の形だけであった。その後の昇段のない私にとって、この3段は非常に大切なものである。
立身流は千葉の流派といわれる。
確かに、戦前戦後を通じ、千葉県内に根を下ろした流派としては立身流が主であったと思われる。
その故もあってか、居合道部設立前から四街道の福永優先生他の流派の異なる方々が定期的に父の許を訪れ、居合道研究会を催していた。
大正2年(1913年)7月25日生まれの父は、昭和12年(1937年)5月の京都大会(武徳祭)で居合術錬士を許された。当時は居合道の名称ではなく、又居合術に段位はなかった。父は昭和20年(1945年)3月12日に達士(当時教士の称号が変更されていた)となり、そのまま段位を取得することなく、後、居合道無段範士となった。
この昭和12年武徳祭での居合術演武者は、範士が無想神傳流を称された中山博道先生お一人、教士が23名で千葉県からは私の祖父の立身流 加藤久のみ。錬士が76名で千葉県からは久の弟子である成田の立身流 加勢胖(かせゆたか)のみ。無称号者は132名中千葉県からは3名で、その一人がこの大会で錬士となる父であった。他の2名の先生方は、大森流の瓜生勘之丞先生と長谷川流の鈴木喜代司先生である。
立身流は佐倉藩で教授された刀術(居合と剣術)を含む総合武術である。他に俰(やわら)、鎗(やり)、長刀(なぎなた)、棒、半棒、四寸鉄刀(しゅりけん)などがあり、歴代允許され続けた傳書15巻の外、多数の古文書類等が相伝されている。
立身流が佐倉(現在の千葉市の相当部分は佐倉藩領であった)に根付いたのは1749年に第12代宗家の逸見宗八が佐倉藩主 堀田正亮に召抱えられてからである。実はその前1714年に第10代宗家 糟谷団九郎が当時山形藩主であった堀田正虎に出仕したが致仕(ちし)している。
立身流は山形と縁が深い。第11代宗家 逸見柳芳は「出羽ノ人」と明記されている。
立身流と堀田藩とは、堀田正俊が群馬県安中城主となった1667年ころ第8代宗家 山口七郎左衛門との間で縁が生じた。第9代宗家の竹河九兵衛は、1700年に安中から山形に転封された前記 堀田正虎と行動を共にしたとされる。
山形には明治まで佐倉藩の分領があり、山形市内に柏倉陣屋がおかれ、陣屋には刀術所が設置されていた。その稽古場で立身流が修業されていた。
立身流創流後の出生の林崎甚助に発祥する流れも同様に山形と縁が深い。この二つの流れは山形において交流があった様である。
立身流の道歌数は二百首を超えるが、その中に十数首程、林崎甚助系の流儀の道歌と表現の似る歌が散見される。
山形は立身流の分流の発生にも関係がある。
立身流の分流は、立身新流の福澤諭吉で有名な奥平家の中津藩、松平家の忍(おし)藩、酒井家の出羽松山藩その他に伝わったが、いずれも山形に領地を有したことのある藩である。それらの藩から他藩へ更に分流が派生している。中津藩とは、立身流第8代宗家 山口七郎左衛門も居住した群馬県での関係もあるようである。
立身流は永正年間(1504年~1521年)の、一説には1517年(他に、1509年、1515年、1518年とも伝承される)の創流と伝えられる。とすると本年で丁度500年である。
古文書によると、流祖 立身三京は濃州(岐阜県) 妻山大明神(つまやまだいみょうじん)に祈念して37日目の暁、夢の裡に分明を得た。後、第7代宗家 大石千助も流祖にならいここに参籠した。
立身三京は伊豫(愛媛県)出身であって、同じ出身の稲葉一鐡の別名だとの説があるが、年代的に比定すると三京は更に昔の人である。
ここに昭和5年(1930年)5月5日 大日本雄辯会講談社発行の「昭和天覧試合附録 武道寶鑑」がある。その巻頭に「日本武道家分布図」として日本地図が示されている。そこには、四国に青字で「立身三京(立身流)」と記されている。「青文字ハ柔道家」である。「仙臺」付近には赤字(剣道家)で「林崎甚助重信(抜刀流)」との記載があるが、長谷川英信などの名は見当たらない。ちなみに地図の裏面の傳系図には田宮流が示されている。
千葉の立身流は、山形の立身流であり、群馬の立身流であり、岐阜の立身流であり、そして四国愛媛の立身流でもあった。
平成29年10月筆