古武道に学ぶ心身の自由(二)

日本古武道振興会会長 立身流第21代宗家 加藤 高
初出 月刊柏樹1995年3月号(No.144) 平成7年3月10日株式会社柏樹社発行
令和2年(2020年)5月23日 掲載(禁転載)

古武道の練磨にあたっては、常に思念工夫を怠らず、心身を最大限に、練って、練って、練り上げているうちに、やがて自由、自在な働きが出来るようになり、何時しか堂に入り、必勝の原理の妙味を体得されるものである。

戦前、戦時の中等学校では、剣道は厳然たる、独立した教課であった。私は往年の若かりし頃、当時の中等教諭として、剣道と国語、漢文を兼任していたが、はからずも剣道の全国的な公開研究授業の担当を指名されたので、慎重に剣道の年間指導計画やら、担当時間の教案とか、その他の必要書類を整備して、公開研究授業に臨んだところ、文部省関係の先生方はじめ、授業参観の専門家の先生方から、好運にも分に過ぎた最優秀の模範授業であるとの好評を頂戴した。

これは学校長はじめ、全教職員の全面的な指導協力と、優秀な生徒達の努力の結果にほかならない。

公開研究授業と無事滞りなく済んで、いよいよ最後の質疑応答になった。私は壇上に着席して色々な質間に応答していたが、そのうちに某校のある教諭より、「虚弱生徒に対する指導対策如何」との質問を受けた。当時はどこの学校でも、病弱な生徒に対しては、実地指導は免除し、ただ見学させるのが普通で、特別な指導対策などというものはたてておかなかった。勿論、私もその程度で、公開研究授業のために整備してあった各種の書類や資料中にも、その事については全然記載してなかったのである。その盲点を指摘しての質問であった。壇上にいた私は、相手の意地悪なこの質問に、思わずむっとして、「そういうあなたは、一体どういう指導対策をやっておられるか」と大声一番、反問したところ、満場の一同、途端にどっと爆笑の嵐しばしやまず、収拾のつかない状態であった。

やがて最終段階に入り、文部省派遣の先生方の講評があった。日く、「加藤教諭の剣道の実地指導の授業は、まことに微に入り、細を穿った、一点の非のうちようもない理想的な、申し分のない模範授業であるが、最後の段階の質疑応答の時間に、相手の質問には一向に答えずに、『そういうあなたは一体どういう指導対策をやっておられるか』と声を励まして反問したのは、甚だ宜しくない。とにかく、先ず一応、自分の見解を述べてからのことである。この点、猛反省を促さざるを得ない。併し、全体を総括してみると、まあ立派な公開研究授業であった」との批評を受けたので、私は苦笑せざるを得なかった。

つまり、相手の辛辣な質問に対して、平常心を失った言動をとったのが、千慮の一失であって、私の常日頃の、精神修養の未熟さを遺憾なく露呈した結果となったのである。

剣を執って敵と相対峙した場合には、心を微塵も動揺させることがなくとも、その他のあらゆる場合に於いて、その心境を持続し、活用させることが、如何に困難なことであるかを、身をもって体験した次第である。

前記の通りの質問に対して、精神鍛練に未熟な私が、古来から古武道立身流心法の七戒 (驚・懼・疑・惑・緩・怒・焦 (きょう・く・ぎ・わく・かん・ど・しょう)--立身流では以上の七つがまったく消滅した「空 (くう)」の境地に悟入することを学ぶ。前号参照) のうちの、「怒」の状態にまで、完全に心が動いてしまったのは、全く往時宮本武蔵との試合の際に於ける佐々木小次郎の轍を踏んだもので、生来の不敏のいたすところとはいいながら、内心甚だ忸怩たる思いであった。

別件ではあるが、私は往年の学生時代に、中野正剛先生より雄弁法講話の指導を受けたことがある。

先生は夙に雄弁家として、名声嘖々たるものがあり、その演説を拝聴するに、満堂の聴衆を完全に魅了し、感動させて、やがて陶酔させてしまう程の迫力があった。

  辨すでに中野の如く冴えぬれば
    長広舌もおもしろきかな

こう当時謡われたほどの人物であった。

ついでながら付記しておくが、この中野氏は戦時中、東條英機氏と当時の国策に対する見解を異にして、遂に憲兵に逮捕され、その後、一時釈放されたが、その間に自決された悲劇の人物である。

有為の人材でもあり、愛国者でもあったが、悲運な方であった。

その中野氏が言うには、「大衆の前で演説するには、聴衆の数の如何にかかわらず、決して恐怖心を起こすような事があってはならない。そうかといって、集った多くの聴衆の、学識人物の程度を軽視して、かりそめにも気をゆるめて、侮るような事があってはならない。大衆は大智識であると思わなければならない。又、聴衆の態度が大変悪く、非礼をきわめるような場合もしばしば見受けられるところであるが、決して驚かない事が肝要だ。聴衆がこちらの演説に一向に耳を傾けずに、相互に盛んに私語をかわして、ざわめくような事があっても、気をもんでいらいらしてはいけない。その他、無礼な弥次などを飛ばされても、一向に気にしないことだ。どんな事を怒鳴られても、絶対に腹を立てない事が必須不可欠の条件である。以上の事を固く肝に銘じて、怠らずに弁舌に数をかけていけば、誰しも何時しか必らず堂に入らん」とのお話しであった。

中野氏の説くところは、言葉の表現方法には多少の相違点もあるが、古武道立身流の七戒と、全く同一内容のことを主張しておられることが、十分了解されたのである。

その後、学生弁論大会に私が出場した際に、演説最中、失礼千万な弥次妨害が頻発した。中には「鈍感」などという、全く聞くに堪えない毒舌をふるう聴衆もあったが、私はいわゆる馬の耳に念仏で、耳をかさなかった。やがて次第に静粛な雰囲気になり、しまいにはシンとなって、演説終了時には、万雷の拍手であった。

これなどは、古武道立身流の心法の活用の事例というべきではなかろうか。これも学生時代のことであるが、剣道範士の大島治喜太先生の熱烈な勧誘により、私は剣道稽古のかたわら、銃剣術の御指導に預かったのである。

大島先生は銃剣術の達人でもあり、先生の経営しておられた健武館道場では、剣道と共に銃剣術も指導しておられた。

さて銃剣術は構は剣道とやや異なるけれども、気分(敵と相対峙した時の充実した気勢)、間合(敵と我との距離のとり方)、突く機会、目のつけ方、体さばきなどは全く剣道と同一であって、従って暫く稽古をつんだところ、あまり突かれなくなった。

当時、大島先生は陸軍戸山学校の武道教官も兼務しておられたので、私は先生のお供をして、陸軍戸山学校にも稽古に行ったのである。

陸軍戸山学校では、将校学生と、下士官学生が、剣術、銃剣術、その他の体育を研修していたが、わけても下士官学生の銃剣術は、朝稽古、間稽古(まげいこ)(昼休み間の稽古)、午後の稽古等、数時間にわたって実施され、壮烈をきわめ、その稽古量は、ゆうに私の数倍はやっていることは確かであった。

或る日、大島先生の指示で、その猛稽古をつんでいる下士官学生中の、選ばれた数名の猛者連中を相手に、私は試合を命ぜられた。

陸軍戸山学校の試合は、実戦の場合を想定して、総べて一本勝負である。その結果、私は好運にも、辛くも全勝することができた。そして銃剣術五段を允許されたのである。

その時私は、「成り上がり者の私のような者が、銃剣術五段を允許されるようでは、剣道は十段を允許されてもよい筈である」と、呵呵大笑したものである。

古武道に於いては、「上手は武器を選ばず」といわれているが、決して上手でもない私如き一介の武骨者が、はからずもその時、全勝することが出来たのは、いわば古武道立身流の必勝の原理の、活用の結果のいたすところと考えざるを得ないのである。

後年、支那事変がはじまって、やがて第二次世界大戦となり、その真最中、私もアジア全域と南方方面にわたり、西に南に、各地を転戦するにいたったが、当時、日本軍は、まだ破竹の勢いの、連戦連勝の時代で、米英軍は支那軍より遙かに弱いというような、行き過ぎた驕慢な風潮が、公然と横行していた頃でもあった。

たまたま南方作戦中、攻撃前進中に、待ち構えた米軍の重砲、野砲の一斉集中射撃にさらされたことがあった。幸いにも、最初の一斉射撃の砲弾は、いずれも数百メートルの前方に落下して、人的被害は皆無であった。間もなく修正されて、第二次斉射の始まることは必定である。そのあまりにも物凄い目前の砲爆を見て、多くの部隊は、その危害予防を考慮して、余儀なく一時、後退転進したのである。

私はこの時、咄嗟に判断して、この状況下に於いては、却って前進する方が安全だと察知して、急遽今しがた砲弾の落下した地点まで前進して、その弾痕に入り、一応、装具をはずして休憩していたところ、果たせるかな、米軍の第二次斉射が開始され、今しがた後退退避したばかりの友軍の真直中に落下しはじめ、砂塵爆煙、濛々として咫尺を弁ぜず、黙視しがたい状態であった。私達一同は、弾痕の中で休憩しながら、その実況を眺めつつ、「前に進んでよかったなあ。あの真向から集中射撃を受けているのは何中隊か」などと話合っていた。

咄嗟の瞬間的な状況判断と、その場の適正な処置。これは如何なる場合を問わず、古武道立身流の心法に於いて、最も重視されているところであって、この場合も、米軍の砲撃被害を無事に避けることが出来たのは、言うなれば古武道立身流の、必勝の原理(前号参照)に基づくものであったと今もって思われてならない。

但しその時の、米軍砲兵の練度の高かったことも改めて認識した。将来とも、どうしてなかなか悔りがたいものがあることを痛切に予感した次第である。

さて前号冒頭に記した通り、古武道立身流は、居合、剣術を表芸とする総合武術であるけれども、その中でも俰(やわら)(柔術)は相当重視されている。

それは古い源平時代から、甲冑の著しい発達にともない、戦場に於いては太刀討ちだけでは、容易に勝負がつかなくなって、必然的に鎧組討(よろいくみうち)が行なわれるようになったからである。

立身流俰の形(やわらのかた)は四十五本あって、その構成は他流の柔術と大体同じで、投業、当身業(身体の致命部を撃突して痛める業)、締業(首又は胴を締めて痛める業)を主体とし、それに各種の活法(かっぽう)(気絶した者を蘇生させる法)を加えたものであるが、立身流俰の特長は、逆業が特に発達している事である。そしてその逆業は肘関節はもとより、手首、足、その他全身の関節に及んでいる。

又、当身業は比較的数が少ない。これは前記の通り、甲冑の著しい発達にともない、戦場に於ける鎧組討では、当身業の効力がおのずから、ある程度の制約をうけるからである。この点、素肌闘技を主体とした空手、あるいは中国拳法、ボクシング等とは、全く正反対の立場におかれるように思われる。素肌では当身業の効力は絶大である事は言うまでもない。

逆業は体力には関係なく、平時に於いても、戦場鎧討組の場合でも、その効力は絶大で、熟練すれば一瞬にして敵を制することが可能である。

(以下次号)

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