立身流第22代宗家 加藤紘
佐倉市民体育大会剣道大会講話録
平成26年6月1日
於 佐倉市民体育館
(本稿は表記の講話録を大幅に加筆したものです)
[平成26年6月16日掲載/平成26年11月6日改訂(禁転載)]
第一、観取(みとり)稽古の意義
観取稽古とは、文字通り、観て自分に取り入れて自分の稽古とすることです。
その観取稽古のめざすところは通常の稽古と全く同様です。観取稽古はあくまでも通常の稽古の補充にすぎませんが、通常の稽古と異なり自分の体を使ってないため、又、目で比較対照できるため、客観的に認識判断でき、冷静に考察して本質に迫りうる利点があります。
ところで、観取稽古では、何をどのように観て、何をどのように取り入れるのでしょうか。
第二、稽古場での観取稽古
1、師匠を観取る
(1)道場で、自分が身体を動かしてないときに、同僚や後輩の人たちと雑談に興じているひとがいます。もったいない話です。芸の稽古は、本来、師と弟子が一対一でなされるべきものです。しかし時間的制約があります。これを補うのが師匠を観取る稽古です。師匠を観取ることにより、師匠の動きが自分に映りこんできます。ここで注意しなければならないのは、師匠の悪いところ、欠点ほど、増幅してうつりやすいということです。少しでも油断すると、師匠の悪いところだけ真似するようになりかねません。良い点は真似ます。悪い点は意識的に排除しなければなりません。師匠としては、自分の欠点や、その欠点の出る理由を弟子の程度により徹底して教えておかなければいけません。それが弟子の「観取る目」を育てることになります。
(2)師匠の他の人への指導は集中して見守らなければいけません。他の人の欠点は自分の欠点です。長所は取り入れます。
(3)そして、考えます。いわゆる科学的考察としての、帰納と演繹をくりかえします。より高次の基本の動き、より高次の理合を求め、自らの動きは、可能な限り高次な基本の動きと、可能な限り高次な理合から導きだされるようにします。基本的な動きについてのあるべき姿(目標)や形の意味、形との関係を探るのです。
立身流で言えば、どのような微細な動きでも向圓から導き出されるのでして、それを頭と体で理解しうるように努力します。微細な動きは、個々の動きをその動きごとに分断して覚えるのでなく、他の動きとの共通性を探り、どうしてそういう動きになるのかの原則を探ります。原則を探り当てたら、更にその上、高次の原則を探ります。その探求の積み重ねが大切なので、その人の到達程度により、その人の基本とする動きや理合の次元が異なってきます。
例えば、手之内についてみると、立ちあるいは座っているとき、歩いているとき、走るとき、武具を持つとき、提刀のとき、帯刀動作のとき、抜刀のとき、斬撃打突のとき、納刀のとき、俰において等、全てに通ずる原則があります。ただ、具体的な動作が異なるため、手之内の現れ方が異なるにすぎません。その人の微細な動作は、その人の到達程度を如実に示します。微細な動作は、習得された基本の現れです。
立身流入堂訓 第二条
常に向上の念を失わず、先達者に就いて、絶えず個癖の矯正に心がけ、正しき立身流の形及び理合並びに慣行知識の修得と伝承に心がけよ。
(4)観取稽古は普段の稽古でのそれが一番重要です。
- 利(理)合をは(ば) 心に留めて尋ねずは(ば) 人にほと(ど)こす時そ(ぞ)かなしき [立身流理談之巻]
2、師匠以外の人を観取る
例え未熟な人でも、馬鹿にしてはいけません。見習うべき長所は必ずあるもので、しかも未熟な人の長所ほどその人の天性ともいえ、純粋です。それを見抜けない人こそ未熟です。
- 下手(へた)こそは 上手の上の上手なれ 返す返すもそしることなし [立身流理談之巻]
第三、試合場や演武会等での観取稽古
1、自分の師匠が出場するとき
自分の師匠が出場するときは可能な限り拝見しなければならないのは当然です。ところが、その当然なことをしないのを当たり前と思っている人が多いのです。師の演武は師が勝手にやってるので自分は関係ないという態度では上達しません。師から教えを受ける姿勢から正さねばいけません。
父は「口でうるさく言わなくても技はうつる。」と、よく言ってました。しかし、うつるかうつらないかは、教える側の心持によるのでなく、教わる側の心持によって決まります。
2、他流を観取る稽古
江戸時代は閉鎖社会であったとの認識が蔓延していますが、そんなことはありません。交流は自由で活発でした。立身流には「針谷夕雲無住心剣傳法嫡子 小田切一雲誌焉」の写本が伝来しています。廻国修業がなされ、幕末に特にこれが多くなってから以降、現在まで、他流との交流が盛んです。佐倉藩関係では、嘉永3年正月から明治3年10月までに佐倉新町油屋に宿泊したその宿帳による「諸藩御修行者姓名録」が有名です。
(1)流儀自体を拝見する
その流儀や集団(以下、「流儀」とまとめて言います)に共通する動き様を把握します。
それぞれの流儀にはそれぞれ特有の形や動き様があります。修業の結果「我が体自由自在」(立身流用語)の境地に達すればそのようなものも消えるはずですが、皆さんも私もそのような名人ではありません。
そこで、他流を拝見する時は、その流派の形の意味や動きの特徴をしっかり理解して把握するのです。
その際、特に初心者が注意しなければいけないのは、「この流派は常にこういう動きをするのだ、こういう動きしかないのだ」と決めつけないことです。また、その場での思い付きでの恣意的な解釈で結論を出さず、疑問があれば何度でも拝見し、或いは教えを乞うことです。
- 問ひ来たる人を粗略にすべからす 誠あらねは朋も信せす [立身流居合目録之巻]
- 与(よ)の中尓(に) 我より外(ほか)のもの奈(な)しと 井尓住むかはつ(かわず)音越(を)のみそ(ぞ)奈く [立身流理談之巻]
(2)立身流ならどうするかを考える
次に、その流儀の形や動きと同じことを立身流の形や動きで行なったらどうなるのか、を考える。又、実践する。言わば、立身流の形試合と同じような事のシミュレイションです。
(3)その人(の技)を観る
その次は、流儀を離れて、その人個人の長所、欠点、錬度など、個人的属性(個人的特性すなわち個性を含む)を拝見する。
(4)自分ならどうするかを考える
流儀と人を観取り、立身流としての動きを考えたうえで、さて自分だったらどうするのか、を考察研究しなければなりません。言わば、立身流剣術の乱打、立身流俰の乱合と同じような事のシミュレイションです。
(5)どう勝つかを考える
観取稽古の最終段階は、この人と立合って自分は勝てるのか、勝てそうもないならば勝つためにはどうしたらいいか、を考えます。勝てる人には、自分の修業に役立つ勝ち方を考えます。要するに、どう勝つかです。現実に立合うわけでなく頭の中で思うだけですから、自由な発想ができ、楽しいものです(現実に立ち会うときは無心の境地で向かわなければなりません)。勿論、だまし討ちや裏をかいたり、フェイントかけたりする方法を探るのは有害無益です。
- 切合に 表裏の業は無き物そ(ぞ) 太刀の誠の道をつくせよ [立身流立合目録之巻]
第四、その他の場での観取稽古
観取稽古の対象は武技に限りません。
例えば、立身流礼法の見取稽古は術技そのものの稽古にほかなりません(拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」参照)し、立身流礼法と他流の礼法との対比は、その相違の背景や理由を探ることにより、立身流自体や武道全体への理解を深めます。そして、剣道、柔道をはじめとする所謂現代武道は勿論、スポーツや芸術ひいては世の中の全てが観取稽古の対象であり、立身流の心技の資となります。
- 草毛(も)木も 薬なりとは聞きぬれ登(ど) 病ひによりて 用ふるとしれ [立身流理談之巻]
以上