立身流第22代宗家 加藤 紘
令和2年(2020年)6月7日掲載/令和4年10月27日改訂(禁転載)
第一、はじめに
一、宮本武蔵(以下、武蔵という)の「五輪書」(以下、岩波文庫版「五輪書」校注者 渡辺一郎 1985年2月18日岩波書店発行を本書といい、引用頁数を示します)48頁に、
「一 足づかひの事
足のはこびやうのこと、つまさきを少しうけて、きびすをつよく踏むべし。足づかひは、ことによりて大小・遅速はありとも、常にあゆむがごとし。…」
(以下、設文という)とあります。
設文については拙稿「立身流に於る足蹈(あしぶみ)と刀の指様(さしよう)」(立身流之形 第二巻104頁以下。以下「前掲論考」という)で触れました。
二、ところが、その前掲論考と異なり、「設文では、歩きながら斬るときも構えた時も、前足だけでなく後ろ足も、爪先は浮かせて地から離し、踵は地に着け強く踏みしめてなければならない、と述べられている」と解釈する方がいらっしゃる、とのことで質問を受けました。
私は武蔵の流門系の者ではないのですが、敢えて結論を述べさせていただくと、そのような解釈は誤りであって、武蔵はそのようには述べていません。そもそも、そのように「歩む」ことができるのでしょうか(前掲論考参照)。
第二、本稿の位置付け
先ずは前掲論考をご覧ください。立身流の見地から設文にふれていますが、これをお読みいただいただけでも前記結論が導き出されます。
本稿は、設文の解釈に関係する範囲のみに限定して考察し、前掲論考を補完するものです。柳生新陰流の史料をも参照いたします。
第三、出発点…足蹈と刀の指様の関係 (前掲論考の表題参照)
一、前掲論考では、立身流序之巻の記載の引用に次いで、このように記しました。
「屋外では常に大刀を帯刀し、歩くとき走るときも腰にあります。脇差を腰にし、時には短刀をも腰にします。」
太刀については腰に差しても、佩(は)いても同じです。
帯刀者である武道者の代表例は武士です。
二、武蔵も本書で同じことを述べています。
26頁「武士は…二刀を腰に付くる役也。」
11頁「夫兵法といふ事、武家の法なり。」
12頁「武士たるものは…兵の法をばつとむべき事なり。」
そして
46頁 「惣而(そうじて)兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事肝要也。」
三、兵法者すなわち武道者の足蹈は、最低限、帯刀に適合した歩み方でなければなりません。
いいかえれば、武道者の歩みは最低限、帯刀して歩みやすい歩みであり、帯刀して歩みやすい歩みは、武道者としての歩みの出発点だということです。
帯刀を想定しない歩みの研究は、武道者の歩みとは直接には関係のない研究だということになります。
四、帯刀しての歩みや走りを感得することが必要です。
「腰の刀から手を離し、長距離長時間を二キログラム弱の真刀を腰にして、できれば脇差、短刀も差して歩いてみてください。」(前掲論考)。これが武士の日常です。
刀の重さ、重心、上下前後左右への揺れ,歩みによる反動、長距離歩行による崩れなどが理解できるはずです。
その状況下で最も安定する「足蹈」を、「刀の指様」と共にまずは探らなければなりません。
現代の日常が刀具と無縁であることが、後記の「常の歩み」を理解しにくい、あるいは誤解される一因と思われます。
第四、設文理解の前提…「自由」「常」「歩み」
一、(身体の)「自由」「自由自在」
本書には随所に「自由」の語がでてきます(25頁、79頁など)。
37頁と74頁には「惣躰自由」とあり、これは立身流秘伝之書での「我體自由自在」(拙稿「立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)」参照)と同義とおもわれます。
ちなみに、柳生宗矩(以下、宗矩という)著「兵法家伝書」(岩波文庫版「兵法家伝書 付 新陰流兵法目録事」校注者 渡辺一郎。以下、家伝書という)にも「自由」の語がみられ(30頁、61頁、74頁、91頁、107頁、115頁、117頁)、106頁には「自由自在」とあり、ここにも上記の立身流と同じ語句が示されています。
武蔵は勿論、立身流を含む日本伝統武道では、身体そして心の自由を希求していることがよくわかります。
武蔵のいう「足づかひ」も、あるべき身体の「自由」の一環として解釈せねばなりません。例えば「いつくという事を嫌」(本書48頁)います。
二、常(の歩み)
武蔵が「常」の字を随所にちりばめているのも前掲論考記載のとおりです。
本書では、「常の心…常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして、」43頁、「常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事」46頁、「常住」47頁の他、本稿に直接関係する足の動きについては、「常に歩むがごとし」48頁設文、「我兵法におゐて、足に替わる事なし、常の道をあゆむがごとし。」128頁、「一 足ぶみの事 足づかひ、時々により、大小遅速は有れ共、常にあゆむがごとし。…」143頁、「…常にあゆむ足也。能々吟味在るべし。」148頁とされています。
ちなみに家伝書でも、「…平常心…常の心…常の心…」55頁、「…常の心…常の心…」56頁、「…平常心…平常心…」57頁、「平常心」58頁、「常の心」59頁・73頁・115頁の他、本稿に直接関係する足の動きについては「一 歩みの事 歩みは、早きもあしく、遅きもあしし。常のごとくするすると何んとなき歩みよし。」72頁と記されます。
武蔵は勿論、立身流(前掲論考及び拙稿「立身流傳書と允許」の注2・第三参照)を含む日本伝統武道では、いかに「常」「平常」が重視されているかがわかります。
これは、上記一、に述べた自由が通常の日常生活中でも発現すべきことを意味します。
三、歩み
前記のとおり、歩み(走りを含む)は武道の礎であり、出発点です(後記参考(1)参照)。戦場でも日常でも、原則、歩かねばなりません。それらの動きの上に武道があります。
武道者の日常生活での歩みは武道での歩みと同じであるのが理想で、それは必然的に身体の自由を希求するものでなければなりません。
常態としてあるべき歩き方ですから、武道者として修練を積むべき武道としての礼法でもあります。立身流礼法(特に後記の「足蹈」)については拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」を参照してください。この稿と前掲論考に「常の歩み」の内容も説明しました。走りについては、拙稿「立身流剣術表(之形)に於る足どり」を参照してください。
なお、後記「足づかひ」を参照してください。
四、「あしぶみ」の「ふむ」の用字…「踏」と「蹈」
(1) 五輪書には武蔵直筆の原文はないとも、原文は平仮名だけだったとも云われていますが、本書で「ふむ」は、平仮名(127頁・128頁・143頁)での記載の他は「踏」の字が使われています(48頁・128頁)。
(2) 私は武道での足使いについては、もちろん例外はありますが、原則として「踏」の字を充てるのは妥当でなく「蹈」の字を充てるべきと考えています。
前掲論考に『「蹈足」であって「踏足」ではないのです。』と記したように立身流の用字がそうです(後記参考(1)及び前掲拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」参照)。
家伝書79頁では「足ぶみ」となっていますが、柳生延春先生(以下、延春先生という)著「柳生心陰流道眼」(平成8年6月1日 株式会社島津書房発行。以下、道眼という)頁前の巻頭の「始終不捨書」(柳生兵庫助利厳(以下、兵庫助という)著)原文の十三には「・・・足ヲ無ニ蹈出シ・・・」、十六には「一足ヲ蹈習之事」となっていて「踏」の字は使われていません。
(3) 大漢和辞典(以下、大漢和辞典という)巻十(著者 諸橋轍次 昭和61年9月1日修訂版第七刷発行 株式会社大修館書店)を抜粋します。
926頁
踏 ふむ。㋑足をあげ、又、地に著ける。㋺ふみつける。ふみおさえる。
943頁以下
蹈 ふむ。㋑足を地につける。㋺ゆく。行くさま。あるく。
うごく
「踏」は歩きと関係なく、足をあげ、又、地に著ける動作、典型的にはふみつける動作です。
「蹈」は、あるきうごく足を地につける動作です。
これら漢字本来の意味からも武道での「あしぶみ」は原則「足蹈」とすべきです。
(4) 「蹈」ではなく「踏」の字を使用することで、本来は「ふむ」「蹈む」にはないはずの「踏みつける」という感覚が無意識的に働き、武道での足使いの解釈に影響を及ぼしている面があるように思われます。
他方、例えば本書148頁「剣を踏む」は「踏」で妥当だということになるでしょう(本書89頁以下参照)。
本書での、例えば設文での「ふむ」は、「あるきうごく足を地につける動作、すなわち、蹈」を意味すると理解すべきです。
但し、本稿で文献引用の場合はすべて原文の用字に從っています。
第五、設文での「足づかひ」・「足のはこびやう」・「つまさきを少しうけて」・「きびすをつよく踏むべし」
一、「足のはこびやう」
(1) 「はこび」というのは「はこぶ」動作を意味します。運び終わった後の状態を意味しません。人間には両足あります。前へ歩いているときの両足をみると、前足が右足の場合を例にとれば、動いて蹈出して動作しているのは右足です。運ばれているのは右足であって、残っている後ろ足(この場合は左足)ではありません。地につく動作をする、すなわち蹈んでいるのは前足(右足)であって、後ろ足(左足)ではありません。
つまり、ここで武蔵がのべているのは前足(右足)についてのみであって、後ろ足(左足)ついては述べていません。
(2) 兵庫助は前出「始終不捨書」で(道眼記載原文の九)、「一 足ハ懸ル時モ退ク時モ跬タ浮キタル心持之事」と述べています。「跬」とは大漢和辞典によれば「ひとあし。一足を挙げる。」意です。新修漢和大辞典(小柳司気太著 株式会社博友社 昭和36年12月10日増補第17版発行)には「カタアシ 一足をあげること」とあります。「浮キタル心持」なのは片足すなわち前例での前足(右足)であって両足ではありません。なお、「跬タ」の読みは、片足を意味するものとしての「カタ」でよいと思いますが、延春先生は「カタカタ」と読んでおられます(道眼187頁)。
二、「足づかひ」
これに対し、表題としての「一、足づかひの事」の「足づかひ」は、足の使い方を総体的に示していますから、ここでの「足」とは右足左足の両足ないしその関係を、つまりは「歩み」を意味するものでしょう。
設文でも、「常にあゆむがごとし」であるのは「足づかひ」なのですから、武蔵は「足づかひ」を両足での「あゆみ」を念頭に置いた語としてとらえていることになります。
そして武蔵は、「足のはこびやうの事」の説明を記載した後、わざわざ文章を分けて、「足づかひは、・・・常にあゆむがごとし。」と更に記しています。その意図は、両足の「足づかひ」の両足のうち、特に「はこぶ足」(前足)についてはこの通りだが、そもそも常の歩みの両足での前足がそのようなものなのですよ、と説明していると理解できます。
三、「つまさきを少しうけて」
(1) ここの「うけて」は、「浮けて」と「浮」を充てるのが一般のようです。
私は、あるいは他の漢字を充ててもよいのではないかと考えています(例えば「請」)が、いずれにしても「うけて」の意味は、「常の歩み」「惣躰自由」の下の動作ないし状態として解釈しなければなりません。
居着いたりしてはいけません。本書48頁に「いつくは、しぬる手」とありますが、「いつく」は「居着く」と書かれるのが普通で、その語感からむしろ足に関していわれることが多い言葉です。
ところが、「うけて」を「浮かして」と解し、さらにそれを「床に触れないように(少し)上にあげて」と解して足指先を持ち上げる意味とするのでは、足をことさらに力ませることになり、ひいては足を居着かせることになってしまいます。
(2) 椅子に坐って右足を左膝の上に乗せてみてください。右足指に力を入れなければ自然に右足指は右足裏の平面より上がっている(浮いている)筈です。その状況は力まない限り「足のはこび」すなわち歩みで蹈出すときも全く同様です。
武蔵はこのことを言っているのだと私は解釈しています。
足裏が地に着いた後はどうなるかですが、地に着いた後も足指に力をいれず力まないのですから、指は軽く地に接することになります。
前掲論考に「地面に平行に着地し、かつ力みの入っていない足の爪先裏は自然に浮き加減となります。」と記したとおりです。
(3) 道眼187頁に『兵法歌に、…「懸ル時も退ク時モ足ハタダヰツカヌヤウニ使ウべキナリ」とある。』とあり、又、188頁に「うくるとは自然の勢位をもって爪先を浮ける--爪先をわずかに軽く上向し--はねるようにするのを好習とし、そのつくりつけを戒めて平常歩を提示したものである。」とされるのは、上記(2)と同旨と理解します。
四、「きびすをつよく踏むべし」
ここはこの言葉どおりです。
注意すべきは、この言葉を極端にとらえ、踵(かかと)だけが(まず)地に着く、と解釈しないことです。「地面に接触する瞬間に踵を主とする足裏全体で、力むことなく強く蹈みます。」と前掲論考に記したとおりです。
この足蹈を身につけるための稽古方法が、立身流居合の立合序之形の「蹈足」といわれるものであることも前掲論考のとおりです。蹈足では「足の裏全体で蹈みますが、特に踵を床が抜けるほどに強く打ちつけます。」(前掲論考)。
第六、後ろ足
一、「足づかひ」の意味および、前足については述べました。
それでは後ろ足(前例での左足)のつま先と踵はどうなるのか。この点について武蔵は設文で「足づかひは、ことによりて大小・遅速はありとも、常に歩むがごとし。」として「常に歩むがごとし」とのみ示し、これに加えて、悪い例を示しています。
要は自由な身体の自由な足による常の歩みの後ろ足でしょう。
二、後ろ足のつま先は、そのまま地に接しているでしょう。力まないで後ろ足のつま先を上げて地から離し続けることは不可能です。
踵は、前掲論考に「後ろの足の踵は歩むとき軽く浮きます。」「棒立ちになったり、後ろ足の踵が極端に上がったりしません。」「後ろ足の踵が全く浮かない歩みはありません。」と述べたとおりです。
家伝書37頁には「一 あとの足をひらく心持の事」とあります。「心持」とあることに要注意です。
第七、構での両足
五輪書では、構の場合の足についての特別の記述はありません。構について述べている本書49頁以下、51頁乃至57頁・73頁・123頁以下・154頁のいずれにも足についてはふれられていません。
要は構えを取った時点での歩みの足であればよいのです。
ちなみに、家伝書にも構の足についての特別記述はありません(家伝書38頁「一 かまへは…」参照)。
第八、甲冑着用時
一、設文に関し、甲冑着用時の足と着用していない時の足は全く異なる、ひいては武術内容も異なるので、形も異なるし、稽古内容も異なる、と述べる方がいらっしゃるそうです。
これも誤りと言わざるをえません。
設文自体、甲冑着用の有無で分けることなく、全て「常にあゆむがごとし。」です。
甲冑着用時でもそうでなくても、原理原則は全く同一なのです。
二、本書等の記載
設文については上記一、のとおりです。
本書32頁では合戦に関し諸武具について述べられていますが、足づかひにはふれられていません。
本書127頁以下では「浮足」を嫌う「其故」として合戦にふれています。しかしこの「其故」は理由というよりも、本来いけない浮足だが「たゝかいになりては、必ず足のうきたがるものなれば」注意しなさい、といっているのです。合戦時で甲冑を着用していても、着用していない時と同様「我兵法におゐて、足に替る事なし、常の道をあゆむがごとし。」(本書128頁)なのです。
家伝書にも甲冑着用の有無で足につき区別する旨の記載は一切ありません。前出の「常(の歩み)」に関する72頁、「足ぶみ」に関する79頁を参照してください。
道眼での明確な記述については後記六(2)を参照してください。甲冑着用時の剣術が甲冑不着用の剣術に「止揚」されたのです。
三、時代性
武蔵も宗矩も戦場では甲冑着用の時代でした。しかし常日頃の日常が戦場にあるわけではありません。日常生活は甲冑を着用していません。その二人が「常にあゆむがごとし」(武蔵)、「常のごとくするすると何んとなき歩みよし」(宗矩)と述べています。その「常」とは、強いて言葉として言うならば甲冑を着用していない場面でしょう。
太平の世を経て、幕末から再び戦乱が続き、甲冑着用の機会が増えました。しかしだからと言って、その頃、甲冑を着用しない武術から全く異なる甲冑武術に変わり、形も変わったわけではありません。
その明治初期までの合戦での武術が、明治中葉の警視庁流、明治後期の大日本武徳会、その他、学生・学校・道場などでの武術武道に繋がっていきます。
四、「武道、剣道は発達してきたのでして、それぞれの時代の最先端を行く流派は、その根幹を崩さずに保持したうえで、時代に合わせて進化し、深化してきました。…時代を遡らせた形態を基本とすることはこの発達の歴史を無視することに外ならず一般的に無益有害です。」(拙稿「立身流に於る下緒の取扱」。なお後記参考(2)参照)
武道は時代による変化を吸収してきたのです。そして、いわゆる素肌剣法で鍛え上げられた武芸は、即、合戦でのいわゆる甲冑剣法になり得るのです。
ただ、重く、身体の動きの制約となる甲冑着用時にはそれに適合した動きをする必要があります。しかし、それをのみ特別に稽古する必要はなく、心得として承知しており、甲冑に慣れていればよい程度、と立身流ではとらえています。
武術錬磨の稽古は甲冑の着用なしで行われ、これにより甲冑着用の場合をも含めた武術が習得されていきます。
五、立身流での実例を拙稿からひいてみます。
(1) 「その(武道の)最盛時は実戦との関係でも幕末と言え、流派武道の古流としての形態の踏襲は幕末が基準になります。立身流草創の戦国時代以来の形態は幕末時の形態にすべて包摂されています」(前掲「立身流に於る下緒の取扱」)
(2) 「第五 足蹈(実演)…両足は成る可く平行となります(甲冑を着用しているときはやや異なる)。」(前掲「立身流に学ぶ~礼法から術技へ」)
(3) 「立身流着具之次第」(前掲論考)
(4) 「刀長短ハソノ人具足ヲ着テ能振ル程ヲ吉ト言 平日ト違 小手ヲ差テ抜兼ルモノナリ」⦅拙稿『立身流に於る「圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理…」(立身流変働之巻) 第十二』⦆
六、立身流の「竪Ⅰ横一」との関係
(1) 本書45頁の「一 兵法の身なりのこと」では、「鼻すじ直にして」「くびはうしろのすじを直に」「背すじをろくに」(「ろく」とは、広辞苑によれば、まっすぐなこと。)などとされ、「常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事肝要也。」として、甲冑着用の有無による区別をしていません。143頁でも同様です。
(2) 兵庫助も武蔵や宗矩とほぼ同時代の人です。その兵庫助は始終不捨書で「一 直立タル身之位事」(道眼記載原文の九)と示し、道眼180頁には『兵庫助利厳の兵法歌に、「直立ツタ身トハ自由ノスガタニテ位トイフニナホ心アリ」「位トハ行住坐臥ニ直立ツモノゾ位ナリケリ」とある。』と紹介され、同181頁で延春先生はこれを『「真の自然体」といってもよい。』と述べておられます。」
兵庫助はさらに、始終不捨書(道眼記載原文の十)で「一 身ノ持様高上ニテ下ルハ好シ低シテ高上難成シ重ヽ口傳」とし、道眼200頁で延春先生はこれを「高上なる身の位から低く下げる働きをするのは好ましが、いつも低い身で懸かって、高上なわざはなかなかできがたいことを重々口伝して低く沈んだ身の位を禁習とした」と述べられています。
これは、「大きな動き方が身につけば、同じ動き方を小さくすることもできますが、小さい動き方ができたからといって大きい動き方までできるものではありません。」(拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」参照)という立身流の教えと同趣旨と理解できます。前記四で述べたことの一つの現れです。
さらに延春先生は、『利厳の兵法書、「始終不捨書」には「沈なる身」の介者剣術を止揚して、「直立つる身」の兵法を創り出した術理」』(道眼17頁)と記され、明確に「止揚」とされています。「止揚」したのですから、以降「沈なる身」と「直立つる身」が併存したわけではありません。
(3) 立身流では、姿勢につき「竪Ⅰ横一(たていちよこいち)」という言葉があります(後記参考(3))。「竪Ⅰ横一」については前掲拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」及び拙稿『立身流に於る、師、弟子、行儀、と剣道の「一本」』を参照してください。
上記(1)及び(2)で述べられている内容の姿勢は、立身流の「竪Ⅰ横一」とその内容に相通ずるものです。
なお、「身構」での「横一竪Ⅰ」(後記参考(4))についても上記二編で述べました。これは兵庫助が始終不捨書で「一 高キ構ニ弥高ク展ヒアカリテ仕懸ル位之事」(道眼記載原文の九)と述べる内容と相通じます。
第九、総括~形との関係
一、本稿で考察した「足づかひ」の内容全ては、古流各流派の形に凝縮されて存在するはずです。
「足づかひ」は、その流派の基本稽古から形稽古や地稽古(立身流での乱打や乱合)等の稽古の途上で練り上げられ、鍛え上げられ、修得されていきます。
設文の解読理解は、本来ならば、形を中心とする稽古の中で、時間をかけて身につけながらその都度吟味されていくものです(後記参考(5)参照)。武蔵のいう「能々(よくよく)吟味すべし」「能々工夫(くふう)あるべし」です。
二、形は、その流儀の歴史を背景として、実践と思索により醸成されてきました。
その意義は実用性だけはありません。歴史的に醸成された形が鍛えられた演武で表現され、そこに込められる技法と心法を直視すれば、芸術性を含めて、叡智と実践の結晶としての文化的価値を感受できるのではないかと思います(拙稿「立身流居合に於る鞘引と鞘(の)戻(し)~立身流歴代宗家の演武写真を参考にして~」第十 竪Ⅰ横一 参照)。
「足づかひ」にもそのような視点からの理解が必要なのではないかと考えます。
参考
(1)「足蹈は大方(おおかた)物の始めにて いえの土台の曲尺(かね)としるへし」
[立身流俰極意之巻] (拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」参照)
(2)「世盤(よは)広し折によりても替わるへし 我知る計りよしとおもふな」
[立身流理談之巻]
(3)「十の字を我身の曲尺(かね)と心得て 竪もⅠなり横も一なり」
[立身流立合目録之巻](拙稿『立身流に於る、師、弟子、行儀、と剣道の「一本」』参照)
(4)「身構は横も一なり竪もⅠ 十の文字こそ曲尺合としれ」
[立身流俰極意之巻](拙稿 同 参照)
(5)「立身流古文書類ノ研究解明ハ必ズ実技修得後ニ於イテ実技ニ照ラシテナス事 実技ト理合ノ対応九ナキ研究解明ハ判断ヲ誤ル場合少ナカラズ 注意スべシ」
[立身流入堂訓第九条]
以上