立身流剣術表之形破と「手本柔」 (立身流變働之巻)

 立身流第22代宗家 加藤 紘
平成27年度立身流秋合宿資料
平成27年10月17日(土)-18日(日)
[平成27年8月25日掲載/平成27年11月23日改訂(禁転載)]

第一、立身流剣術表之形破の体系

一、形の名称と傳書の記載
立身流では一つ一つの形の名称が傳書に網羅されているわけではありません。
傳書では形についてその体系等の根元的意味合や応用の方向性が簡単に述べられているだけのものが多く、形の種類本数や順序名称、変化などは、基本的に実技の習得と口伝(くでん)によって伝承されます。
立身流剣術表之形(序破急)も同様です。

二、立身流に於る剣術表之形の位置
立身流の中核である刀術の、更にその中枢に位置します。
立身流での基本的な技、動き、身体の習得の為の課程であり、剣術表之形の習得なしに他の形には進みえず、進んでも正確な他の形の習得は不可能です。
剣術表之形の技術的な体得の方向や理合を理解せずに他の形、他の種目に入っても、ただ、身振りが似ているにすぎない外形を真似するだけで、技になっておらず、してはならない動きの数を重ねることになります。

三、表之形破の本数と名称は次のとおりです。
一本目 向(むこう) 二本目 圓(まるい) 三本目 前斜(まえじゃ) 四本目 張(はり) 五本目 巻落(まきおとし) 六本目 大(体)斜(たいしゃ) 七本目 提刀向(ていとう むこう) 八本目 提刀圓(ていとう まるい)
七本目と八本目は併せて提刀です。

四、表之形破での提刀
表之形での提刀とは、受方仕方双方とも納刀した状態から始まる剣術の形を意味します。
組居合とは異なります。立身流での組居合とは、2人以上の人数で他の人の呼吸を探り、主に多数人相手の技を練磨する稽古法を意味します。
また、刀を右手(あるいは左手)に提げた状態からの技を意味する場合の提刀と、語は同じですが内容は異なります。この意味での提刀の技は半棒の応用に近いものです(半棒とは反(そり)の利用等による相違がでます)。

五、最初と最後が向圓
(1)体系として向圓から始まり向圓で終わっています。
その間に三本目から六本目がはさまれ、くるまれた形容です。
(2)剣術表之形破の一、二本目と七、八本目との相違
①一本目と七本目は向です。
一本目は、受方の左上段からの面撃に対し、仕方は平正眼から向受で請流し受方の面を斬ります。
七本目は、受方の抜刀での正面撃に対し、仕方はこれも抜刀での向受で請流し、受方の面を斬ります。
②二本目と八本目は圓です。
二本目は相中段に構え、まず、受方でなく仕方からの右小手撃に対し、受方は左後方に左足から小さく一歩退きつつこれを抜き、右足から一歩蹈込んで仕方の面を撃ちます。仕方は右に体を捌くと同時に圓受で請流し、受方を(左)袈裟に斬落とします。
八本目は、仕方からの抜刀での小手撃に対し、受方は右足のみを小さく退くと共に擁刀してこれを抜き、右足を蹈出しつつ抜刀して仕方の面を撃ちます。仕方は右に体を捌くと同時に圓受で請流し、受方を(左)袈裟に斬落とします。

六、立身流剣術表破の向圓(仕方)と立身流居合の立合表破の向圓との相違
(1)
剣術一本目向の仕方と居合向との相違は、平正眼からうけるか抜刀して受けるかにあります。
剣術七本目提刀向の仕方の動きと、居合向の動きは同一です。

(2)
剣術二本目圓の仕方と居合圓との相違は、①中段か抜刀か、②初太刀につき、仕方が右足から一歩蹈出しつつ打つか、歩みの右足だけを蹈出しつつ斬るか、③二之太刀につき、受方の反撃を請流しつつ袈裟に斬るか、敵がのけぞったところを(その反撃のないまま)正面から斬り下げるか、④二の太刀につき、仕方が右足から右に体を捌(さば)きつつ斬るか、左足を蹈出しつつ斬るか、⑤斬撃箇所が左袈裟か、正面か、です。
剣術八本目提刀圓の仕方と居合圓との相違は、上記中の③から⑤です。
剣術と居合の大きな相違は敵の反撃があるかないかです。

七、三本目から五本目は、それぞれが技としては二本でひとつの形となっています。
仕方の激突が一旦決まり、間合がとられた瞬間に受方から更に攻撃されます。残心をとる前の段階での敵の攻撃に対処するわけです。残心はこの際の体勢、心持などの延長でなければいけません。
基本的な技の多様さを求める意味合もあります。

第二、立身流剣術表之形破の意義

一、立身流の技法全体及び立身流刀術の礎をなす形であることは前述しました。
即ち、立身流の視点からの武道全体の基本と極意が凝縮されています。
それは、他の形や武器との関係でもそうなのですが、重要なのは、形以前の身体や動作の習得が表之形でなされることです。全てに通ずる武道としての動き方の練磨ということです。武道としての修練で鍛えられた身体の体幹、丹田から発して指先にまで連動した武道としての動きによって、初めて技が生まれます(拙稿『 立身流に学ぶ ~礼法から術技へ~ (国際武道文化セミナー講義録) 』参照)。

二、向圓の重要性や、居合を含め全てが向圓の延長上にある様子も前述のとおりです。

三、刀術は微妙精密です。
向圓から派生した精密な技の習得が、前斜、張、巻落、大斜の四本に任されます。それらは全て、長年の練磨によってやっと獲得できる刀術の極意の技です。
それらは向圓から発するのですが、向圓に戻っていきます。刀を、ただ、抜き、振り、切り、あるいはわが身を囲う道具だと思っていたのでは刀術は身に付きません。
敵に攻撃され反撃され、それへの対処の中に勝を探ります。
それは一瞬の差、剣先の刃の厚みの差、鎬の僅かな角度の差などを使いこなせるかで決まります。
この微妙さを理解しようとせず、体得しようとしない人はいつまでも未熟なままです。

四、刀の構造性質の習熟
表之形の特質に、刀の形態構造性質に習熟するための形である面もあります。
刀を使っての精密な技、微妙な動き、そしてそれによって生死が分かれる感覚を理解するには、刀を理解し自分の身体の一部としなければいけません。
そこで初めて「刀の技」が生まれ、「我体自由自在」(立身流秘伝之書)になるのと同様に「心のままに太刀や振られん」(立身流理談之巻)の状況(以上、拙稿『 立身流に於る「・・・圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理・・・」(立身流變働之巻) 』参照)に至るのです。

五、刀操作の技術の例
(1)剣先の厳しさ
剣先が常に厳しくなくてはいけません。剣先が効いてなければいけません。構えているときも、技をかけている最中も、打突の時も、防ぐときも、それらの後も、です。表之形破の八本は、剣先が常に生きてなければ使える技ではありません。刃先を意のままに操る精妙さが必要です。
前掲拙稿『立身流に於る「・・・圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理・・・」(立身流變働之巻)』の「第九、道歌」、及び後記 参考4 を参照してください。

(2)
敵の刀などの武器との接触は、ほとんど我が刀の鎬でします。攻めるときも守るときもです。敵の武器をたたくときも請流すときもです。
鎬を使える刀の角度は微小です。その僅かな角度を使いこなさなければなりません。

(3)反(そり)
我が刀の力や速さを敵の刀に及ぼしてこれを制し、あるいは敵刀での攻撃の力や速さを殺(そ)いでこれを制するためには、刀の反を利用します。反りを利用しなければ掛けにくい技もあります。巻落の序之形の巻上などがそれです(敵の刀にも反りがあるのでなおさらです)。
前突、表突、裏突の違い(合車の陰にはその全てが含まれます)も反の利用の仕方によっての相違ともいえます(後記 参考1 参照)。

(4)両手の役割
特に刀術では右手と左手の役割分担が顕著です。
右手は、例えば剣先の精密な動きなどに働くことも多いのに対し、左手は刀の大まかな動きの方向を決め力や速度を増す働きに使われることが多いと言えます。これには両手のそれぞれ握る柄の位置の相違による影響もあります。
手之内にも右手と左手での相違が出てきます。

(5)柄を握る両手の距離
ですから、両手を接して柄を握りません。接して握っては、上記(4)の働きができません。一本目の向の請流しもできません。両手を接して柄を握っていたのでは立身流剣術はできません。
前記のとおり、刀は、ただ、抜き、振り、切り、あるいはわが身を囲う為だけの道具ではありません。刀は刃筋を立てて力強く速く振ればいいだけのものではありません。
「我体自由自在」(立身流秘伝之書)になるのと同じように刀を自由自在に操るためには、そして「心のままに太刀や振られん」(立身流理談之巻)という状況になるためには両手が離れてなければいけません。

(6)柄の握様
柄の握り様については、前掲拙稿の第十一、「立身流聞書」(第21代宗家加藤高筆)をご覧ください。
柄を握る手や指、特に右手の人差指のありようも「食指は軽く屈め」と当該箇所にある通りです。人差指は柄にからみつくように接します。
但し、初心者や手之内が崩れて固い人などに対しては、左右の人差指を柄にまとわりつかせないで真直ぐ伸ばすように指導することがあります。手之内を心得やすいからです。熟練者も確認や自らの錬度をあげる稽古として有効です。
立身流では親指でなく人差指を鍔にかけます。これは手之内を整えるのに効果的で、次の柄を握る手之内の予習をしているようなものです。そのまま刀を半棒代わりに使う技にも移行できます。

六、「手本柔」特に手之内の有り様
以上はすべて、立身流変働之巻に示される、身のこなれ、柔(しな)やかさ、手之内の現れです。前掲拙稿を参照してください。
向圓で要求される身のこなれ、手之内が、前斜、張、巻落、大斜での具体的な技の稽古のなかで更にみがかれていきます。
形はすべて、大きく、伸びやかに、柔(しな)やかに、なされなければいけませんが、その前提として、表之形の八本は、全て、身のこなれ、手之内ができてないと打てない形ばかりです。
その意味で、表之形は向圓で要求される手之内を検証する形といえます。
手之内ができてないのに使えば、失敗して敵に敗れ負ける技の稽古を通じて、手之内などを体得していくのです。

第三、立身流刀術稽古での用具につきまとめてみます。

立身流全体の用具についてはいずれ別稿でまとめます。

一、袋撓(竹刀)
袋撓については、拙稿『立身流に於る 桁打、旋打、廻打』を参照してください。
手之内の稽古との関係では、竹の弾(はじ)く力の吸収の工夫がされています。革でくるんだり、割竹と丸竹を使い分けます。
独特な鍔をつけます。鍔をつけない立身流の袋撓はありません。刀術、特に向や剣術表之形は、鍔がなくては打てません。

二、木刀
立身流に鍔のない木刀はないのは袋撓と同様です。木刀には必ず鍔をつけます。鍔のない木刀は危険で、形を打つことは不可能です。
後記 参考2 の道歌を参照してください。
鍔のない状態での修錬は、棒、半棒などでなされます。

三、振棒
いわゆる鍛錬棒ですが、立身流の振棒は、木刀をより太く長く重くしたような形状です。
振棒は旋打の左圓と右圓を併せ行う法を行うのが基本です。
鍔はありません。立身流外の人で立身流振棒を立身流木刀と誤解する人がいますが、鍔のない立身流木刀はありませんし、立身流振棒は鍛錬のための特殊な目的でつくられた特殊な用具であって木刀の代わりになるものではありません。

四、居合刀
居合の稽古用の真刀です。現在、初心者には危険防止上いわゆる模擬刀の使用を許していますが、本来なら居合刀で稽古するところです。

第四、立身流剣術表之形破の内容

一、立身流剣術表之形一本目向、二本目圓、七本目提刀向、八本目提刀圓の動きについては既に記したとおりです。
向受と圓受の鎬活用法については拙稿『立身流に於る 形・向・圓・傳技・一心圓光剣・目録「外」(いわゆる「とのもの」)の意味』記載のとおり、「向受は右鎬で剣先側より鍔元方向へ敵刀をすべらし、圓受(剣術)は左鎬で鍔元側より剣先方向へ敵刀をすべらす。」ようにします。

二、三本目「前斜」、四本目「張」、五本目「巻落」、六本目「大斜」については
拙著「立身流之形 第一巻」を参照してください。以下はそこでの記載に付加されるものです。

三、立身流剣術表之形破三本目「前斜」(まえじゃ)
受方の左上段からの面撃に対し、仕方は平正眼から一歩退きつつ左鎬で摺(すり)上げ、一歩出つつ面を斬ります。更に、受方の中段からの右横面撃に対し仕方は中段から左斜め後方へ退きつつ右鎬で応じて弾(はじ)き返し一歩出つつ面を斬ります。

(1)左摺上
①内容
我が刀の切っ先を、自由自在に柔(しな)やかに弾力性を持って操作し、双方の刀の刃の厚さの微妙さを制し、撃ち来る敵の動きの起りをとらえ、その鍔元に我が剣先を利かして接しつけ、敵刀を我刀の表(刀の表は左側)に誘導し、我が刀の剣先近くの鎬で敵刀の鍔元寄りを抑え上げるように絡(から)め捕り、斬り下げる敵剣先が我鍔元寄りに来るように我刀の鎬で敵刀を滑らせながら我が刀を振り上げて摺上げます。
敵刀はその勢いのまま、その刃が我刀の左鎬を削るようになり、その剣先は我体や刀から外れて下に落ちます。
始まりは敵刀の鍔元寄りの刃の左側に我刀の剣先近くの左鎬が接触し、終りは敵刀の剣先近くの刃の左側が我が刀の鍔元寄りの左鎬から離れます。最初から我刀の鍔元寄りに敵刀が接してしまってはこの技をかけることは困難です。
我刀の剣先近く物打付近から鍔元寄りまでのほとんど全ての左鎬が、敵刀の鍔元寄りから剣先近くのほとんど全て(の刃)に接触します。
摺り「上がる」のは我刀であり、敵刀は撃ち込んだ勢いでそのまま落ちます。
この技は精妙な感覚を理解しなければできない技です。
後記 参考3 に挙げた「剣法至極詳伝」の記述を参照してください。
武道では余計で派手な動きはいけません(後記 参考4 参照)。
立身流の「匂いの先」を感得し、体幹から発する手之内を会得してなければできない技です(「匂いの先」については立身流剣術五合之形三之太刀参照)。

②摺上、張、巻落の異同
摺上は後述の張、巻落の基礎ともなる技です。摺技の基本ともいえます。
「摺る」というのは、我刀のほぼ全てを使って敵刀のほぼ全てを摺ることを意味します。
刀では刀同士の擦れ合う音が聞こえます。
摺上での摺り始めは、敵刀の鍔元寄りの刃の左側への我刀の剣先近くの左鎬の接触です。摺り終りは敵刀の剣先近くの刃の左側が我が刀の鍔元寄りの左鎬から離れます。
これに対し、張と巻落での技の摺り始めは、敵刀の剣先寄りに我刀の鍔元に左鎬が接触している所から始まります。摺り終りでは敵刀の鍔元近くが我が刀の剣先近くの位置から離れます。
張と巻落との技の相違は一直線か巻かで、その結果、摺り終りに違いがでます。
張の摺り終りが我刀の左鎬と敵刀の左鎬(ないし峯の左側)との接触なのに対し、巻落破の摺り終りは我刀の右鎬と敵刀の右鎬です。巻落の序での摺り終りは我刀の峯と敵刀の刃になります。
後述のとおり、張と巻落には共通する要素が多々あります。

(2)右応じ
①内容
我刀身の中程あるいは鍔元寄りの右鎬で応じて敵の刀を弾き返します。
我体幹から発する右手首の動きと手之内が肝要です。
我刀と敵刀はそれぞれの一点で触れ合うだけで、擦れ合いません。
刀では刀同士で一瞬弾かれる音がします。

②稽古方法
木刀(袋撓)の剣先を他の人に持ってもらって動かせないようにしたうえで、我鍔元寄りの鎬で受方の木刀の物打を右上に弾(はじ)く稽古が有効です。

四、立身流剣術表之形破四本目「張」(はり)
小走りで八相から中段に変化した受方が余勢で仕方の水月を突くのに対し、仕方も小走で脇構から下段(刀は水平)に変化したうえ一歩退きつつ(間合により、その場か退がるか、どちらでも良い。拙著「立身流之形 第一巻」参照)小さく摺上げる如くして受け、直ちに左下へ張り落として一歩出つつ水月を突き返す。更に、受方の中段からの我右小手撃を仕方は中段から左斜め後方へ少々退きつつ右鎬で小さく応じて弾き返し一歩出つつ敵右小手を斬ります。

(1)張落
①内容
敵の突を我剣先の効きで我左鎬に誘導し、我鍔元付近まで呼び寄せかつ敵の剣先を我体から外し、我鍔元付近の左鎬で敵刀の剣先寄り乃至物打(の刃)を抑え上げるように絡(から)め捕り、我両手を左にかえしつつ我刀の反を利用して敵刀を敵の右足元へ一直線に張り落します。
我刀の剣先は敵の体の右脇前近くを一直線に落ちて行き、最後は敵刀の鍔元近くで敵刀と離れます。
我刀の左鎬のほとんど全てを使って敵刀の剣先寄りから鍔元までを一直線に摺り落とすのです。
張る動作の始まりでは敵刀の剣先寄りの刃の左側に我刀の鍔元近くの左鎬が接触しており、終りは敵刀の鍔元寄りの峯(みね)の左側が我が刀の剣先近くの左鎬から離れます。最初に我刀の鍔元近くに敵刀の剣先寄りが接していなければこの技をかけることは困難です。この点、摺上とは逆になります。
我刀の剣先は敵刀の鍔元にくいこみ、敵の右手に逆が効き、敵刀は敵の手を離れてその右下に落ちたりします。
我刀が敵刀に接している間の敵刀の落下速度の加速が肝要です。
最後に、反りをも利用した我剣先のわずかな動きで敵の鍔元寄りを動かし敵刀の落下速度を最高にします。
我剣先が終始厳しく効いてないと張る力が抜け、威力が出ません。
摺らないで我刀と敵刀が一点で接触するだけではできない技です。

②張落と摺落
後記参考3をご覧ください。
そこに述べられている「摺落し」は、正に立身流の「張」そのものです。
「剣法至極詳伝」での「摺落し」の語は「張」と言い換えることができます。
「摺落す」のは我刀であり、「摺落される」のは敵刀です。
ただ、立身流の張は敵の突に対するものだけでなく、敵の上段からの撃にも対処します。立身流剣術表之形序での張がそれです。

(2)応じ小手
前斜での右応じとほぼ同じですが、より小さく、より精妙な動きになります。
受方の振りかぶり自体小さく、仕方の小手が受方の振り上げた自分の両手の下から視認できる程度ですが、仕方の応じもこれに対応して弾きはできるかぎりに小さくしかも有効になされ、斬るための振りかぶりは右上に弾く動作と連動してほとんどなくなります。体幹から発する手首と手之内の僅な動作で敵の右小手を斬ります。

五、立身流剣術表之形破五本目「巻落」(まきおとし)
受方の左上段からの面撃に対し、仕方は平正眼から一歩退きつつ左鎬で摺上(すりあげ)る如くして受け直ちに左、下、右と巻落し、一歩出つつ水月を 突く。
受方は右足から大きく一歩退いて肩上段に、仕方は受方の動きに合わせて右足から、これも大きく一歩退いて脇構にとる。
受方の右足、左足、右足と踏み込んでの正面撃に対し、仕方は左足、右足、左足と踏み込みつつほぼ水平に逆胴を斬り左膝を立てて折敷きます。

(1)巻落
敵の正面撃の刀を、我剣先を利かして我左鎬に誘導し摺り上げる如くして我鍔元近くまで敵刀を呼び寄せ、わが鍔元近くの左鎬で敵刀の剣先寄り乃至物打(の刃)を抑え上げるように絡(から)め捕り、我両手を左にかえしつつ、まず敵刀の剣先寄りを僅かに左に動かし、加速しながらほぼ真下へ、最後は我剣先近くの右鎬で敵刀の鍔元を右に払って巻落し、下段(立身流の下段は水平)ないし少々低い位置にある剣先で水月を突きます。
我刀の反をも利用して敵刀を敵の左足元へ巻落します。
我刀の剣先は敵の体の右脇前近くをその体形に沿って落ちて行き、最後は敵刀の鍔元で我刀の右鎬と敵刀の右鎬とが離れます。
始めは我刀の左鎬を使って敵刀の剣先寄りから巻落し始め、最後は我刀の剣先近くで敵刀の鍔元を右に払うことになります。
巻落す動作の最初に我刀の鍔元近くが敵刀の剣先寄りに接していなければこの技をかけることは困難です。
我刀の剣先は敵刀の鍔元にくいこみ、敵の左手に逆が効き、敵刀は敵の手を離れてその左下に落ちたりします。序之形では巻き上げられますから敵刀は敵の左上方へ飛ばされます。
我刀が敵刀に接している間の敵刀が巻かれて落下する速度の加速が肝要です。
最後に、我剣先のわずかな動きで敵の鍔元寄りを動かし敵刀の巻かれる速度を最高にします。
竜巻を思い浮かべてください。周辺の渦(うず)は中心に近づくにつれ速度を増し、物は吸い込まれて空中に飛ばされます。同じような威力が巻落に求められます。
摺らないで我刀と敵刀が一点で接触するだけではできない技です。
そして、我剣先が終始厳しくきいてないと巻く力が抜け、威力が出ません。

(2)逆胴
立身流の胴撃は逆胴が基本といえます。刃筋の通りを考慮するといわれます。半棒に敵の右胴を斬る形がありますが、これは逆袈裟斬りともいえるものです。
後に述べる体斜の二太刀目に仕方が折敷いて受方の右胴を斬る変化がありますが、これも胴への袈裟斬りといえます。

六、大(体)(たいしゃ)
受方の右上段からの面撃に対し、仕方は平正眼から身を左後方へ退きながら右鎬で摺上げ一歩出て面を斬る。更に、受方の中段からの右膝撃(折敷いてもよい)に対し、仕方は中段から刃を後向に剣先を下に柄を上にして右鎬で受け、同時に左足を左方に開き右足を左足の右後方へ引きながら(折敷いて胴へでもよい)面を斬る。

(1)右摺上
前斜の左摺上の左が右になったのとほぼ同一です。
双方の刀の刃の厚さの微妙さを制して我刀の右鎬で技をかけます。

(2)大斜受
右之圓の請流しの応用です。

第五、立身流剣術表之形破の要素

一、立身流剣術表之形破の体系をあらためてみてみます。
全体が向圓にくるまれている状況については初めにのべました。
立身流全体を見ても、向圓に始まり、かつ、終わります。
立身流極意之巻では、向は月之太刀として、圓は日之太刀として、前斜は星之太刀として回帰します。

(1)立身流表之形破の摺技をまとめると次のとおりです。ここでいう摺技とは、仕方(我)が積極的に仕掛けている摺技のことです。

三本目 前斜の左摺上面
四本目 張の張落突
五本目 巻落の巻落突
六本目 体斜の右摺上面

(2)これをみると、まず基本(秘伝ともいえます。後記 参考3 参照)としての左摺上、これを習得した上で張、更に巻落、そして基本である摺上に戻ります。戻った摺上は右摺上に変化しています。
これに応じ技二本と逆胴、大斜受が加っていて、その全てが向圓にくるまれているわけです。

二、敵の攻撃や反撃を考慮する刀術
(1)起り
以上、いずれの技も敵の動きの起こりを察知できなければいけません。
その上で、我はすぐ行動に出るか(圓、前斜および体斜の摺上)、敵刀を呼寄せたうえで技をかけるか(向、張、巻落)、敵の動きに合わせて同時に動くか(前斜および張の応じ技、巻落の逆胴、大斜受)です。

(2)剣先の厳しい効き
いずれの技も剣先の厳しさが重要です。これがないと技がかからないだけでなく、我からの攻撃に結びつきません。
また、剣先が締っておらず浮いていては効きが甘くなります。

(3)敵の刀を操るには鎬を使います。
それは必然的に反(そり)をも利用することになります。

(4)技とは
張や巻落を含む摺り技や応じ技あるいは、萎(なやし。萎技は鎗術や長刀で多く用いられます)等の技は、我が刀で、敵の刀を、ただ単にどかしたりたたいたりしているわけではありません。敵の刀の一点を我刀の一点で押して移動させているのではありません。
そして、ただ刀で我身を囲っているだけでもないのです。あるいは我刀のどこででもいいから、敵刀のどこでもいいから受けているだけではないのです。
未熟練者が立身流表之形の技を使うとどの技も皆全く同じ動作になってしまって差異がなくなってしまいます。大げさな身ぶりが違うだけで技になっていません。

「藝術ヲ習極」(ならいきわ)(立身流秘傳之書)める気持が必要です。
そして「極める」には、これらの技を可能にする「手之本柔」な武道の身体と動きにまで行きつくことが重要で、それこそが真の技だといえます。
どの段階の人にも目標とすべきものは必ずあります。常に自らの目標を捜し目指すべきです。慢心して偉くなってしまってはいけません(『立身流入堂訓』参照)。

(5)技は力まかせにするものではありません。
力まかせにしなければかからない技には無理があります。
張も巻落もその動きは自然の流れに従うもので力まかせの場面はありません。
私は張と巻落につき「最初に我刀の鍔元近くが敵刀の剣先寄りに接していなければこの技をかけることは困難です」と前記しました。
しかし困難ではあっても不可能ではなく、実戦でそうしなければならないときもあるでしょう。
ただ、技のかけ始めが我刀の剣先寄りと敵刀の鍔元よりの接触からですと、初めに力をかけないと敵の刀が動きません。
前記拙稿『立身流に於る「・・・圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理・・・」(立身流變働之巻)』に「身体がこなれないうちは、力の要る技(場合により、張、巻落など)の稽古をしてはならない、ということにもなります。」と記したのはこのことです。

(6)立身流修業上の注意
立身流の想定する敵、すなわち受方は名人です。素人ではありません。我(仕方)は素人をやり込める為の稽古をしているわけではありません。ただ手馴れるだけのような稽古をしてはいけません。名人を目指す稽古をしなければなりません。
また、仕方は敵が名人であるとして稽古しなければなりません。思いつきや思い込み、知識やフェイントで勝てる相手ではないのです。いろいろ工夫はしなければいけませんが、即効性がなく時間がかかっても常に基本を求め、基本にのっとる姿勢が必要です。
受方は自分が名人ならどうするか、との想定で動かなければなりません。

第六、立身流剣術表之形破と他の形との関係

一、立身流五合之形(詰合をふくむ)については別稿に記します。
五合之形二之太刀は、摺技としては前斜よりも張、巻落に似ます。
しかし表之形の摺技のように敵刀を制したうえで攻撃するのでなく、摺技と攻撃が一体となっています。
いくつかの他流にもみられる技です。
五合之形は五之太刀まであるのですが、その体系としては、敵に遅れて攻撃するか、敵と同時に攻撃するか、敵に先んじて攻撃するか、が重要です。
二之太刀は敵と同時に攻撃する技です。そして相八相からの技に続き、相中段からの技となります。

二、警視流木太刀之形での摺技と立身流表之形破との関係
これについても別稿に記します。
警視流木太刀之形で摺技と思われる技を含むものは次の5本です。巻落は本稿で説明した立身流の巻落です。

第一 八相
第二 變化
第四 巻落
第五 下段の突
第十 位詰


【参考】

1、木下壽徳著「剣法至極詳伝 全」(大正2年6月25日発行) 96ページより引用

「諸手にて突くべき場合起りなば
   手元うかべて突下すべし」

2、「鍔はただ 拳の舘と心得て 太くなきこそ 僻事と知れ」[立身流理談之巻]

ただ=ひたすら
舘(たて、たち)=やかた、

太し=しっかりして動じない

僻事(ひがごと)=道理にはずれている、正しくないこと

3、前記「剣法至極詳伝 全」122ページ以下より引用

「三七 摺上げ摺下し
すり上げて面を打つのは至極なり
   すり落しからつきも亦妙
摺上げ摺落しは・・・起りに依つて為さずんば巧みに成就し難かるべく若し技に現れたる後に之を為すは既に遅し摺上げ摺落しは斯くの如く六ヶ敷き技なるが故に一刀流にては免許の許に加へあり即ち免許の技倆なくんば為し能はざるものと推定せざるを得ずすり上げとは敵面を打って來るを受けながら敵の太刀を殺し我が太刀を生かして打つを謂ひ又すり落しとは敵の突き來る太刀を殺し我が太刀を生かして突くを謂ふ起りを知ることを得ずんば此拍子を會得すること難ければ・・・」

4、前記「剣法至極詳伝 全」88ページ以下より引用

「受けとむる太刀を我身に引きつけず
   構へたるまゝうけならふべし」
・・・敵の打ち込む太刀は構へたるまゝにて微かに動かせば受け止め得べきものなるを大きく受け止むるは心の迷ふが為めなり・・・」

以上

立身流に於る「・・・圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理・・・」(立身流變働之巻)

立身流第22代宗家 加藤紘
平成24年度立身流秋合宿資料
平成24年10月20-21日
[平成24年9月10日掲載/平成26年6月16日改訂(禁転載)]

第一、はじめに

古人はあらゆることを考究実践のうえ体系を打ち立てています。背景もない現代人の軽薄な思いつきや思い込みとは次元が違います。立身流について言えば、武士への武道指導者、専門家、実務家、研究者として500年来の思索と実践の蓄積があります。この500年の間に全てがなしつくされています。

例えば、立身流には次のような道歌があります。

  • 先々の先こそ阿連ば後の先も 後の先としてせんせんの勝 [立身流立合目録之巻]

逸見宗助源信髙が本人の字で、本人の制作で「以先戒為寶」(せんのいましめをもってたからとなす)と扁額に記した、その戒の歌です(加藤高論稿「以先戒為寶」参照)。

武道における「先」は勿論「後の先」とか「先先の先」という語句も古くからあり、代々、研究に研究を重ねられて現在にいたっているのです。決して、現代武道に始まるものではありません。又、これらの語は一部の武技だけでの用語ではなく、武道全般に関わる言葉です。

「手(之)内」(てのうち)という言葉もそのひとつです。

第二、「手(之)内」(てのうち)

1、堅(ひきしまってつよい)と緩(ひきしまってない)

立身流直(ちょく)之巻は、「十一ヶ条三十三段之分」を中心に構成されていますが、その第八条は次のようになっています。

   手     内

堅     諸     緩

この条を含む直之巻の内容は、立身新流 序之軸にも記されています。新流は1590年代に分流し、江戸時代以降本流との交流はありませんでしたから、これだけでもその以前から「手内」という語があったことがわかります。

手之内には、堅い(ひきしまってつよい)のと、緩い(ひきしまってない)のと、堅くも緩くもないのとがある。どれが良くてどれが悪いというものではありません。しかし、堅いだけではいけない、緩いだけでもいけない。堅くなければいけない場合もあり、緩くなければいけないときもある。しかも手指は常に柔らかくしなやかでなくてはいけません。

特に難しいのは、緩でも堅でもない手之内から緩や堅へ、緩から堅へ、堅から緩へ、そして緩でも堅でもない手之内へ、と、一挙動のうちに、場合によっては何回も、瞬時に、なだらかに、変化しなければならないことです。「諸」とは、この自由自在な、しかも微妙な、変化を意味します。

手之内については、刀術、特に剣術で主に研究されてきました。剣術では敵の刀等を我刀で制御しつつ斬撃打突する場合等が多く、そのためには、左手と右手の手之内の相違などを含め、剣先や鎬の活用法をはじめとする精妙さが特に必要とされるからです。刀術の手之内が他の武技に応用されます。

2、身のこなれ

この動きを可能にするものは何か。

それが立身流にいう「身のこなれ」です。

手之内は、体全体の「こなれ」を前提としたうえで、手、指で握る際のこなれの現れ方です。手で武器を持つ、手を武器とする、手を守る、等、種々の場合における特殊情況に応じられるのは、「こなれ」た身体全体のおかげです。

「身のこなれ」は、立身流變働之巻では、「手本柔」と表現されています。

第三、「・・・まるいぬきは すなわち みずからの てのもと しなやかに たのうつところ つよきの ことわり なり。・・・」(たつみりゅう へんどうのまき)

1、柔(しなやか)と固(まわりがかたい)

手本(手之本)とは、手元からはじまる身体全体のことです。自分の手、手元は勿論、身体まで柔(やわ)らかくしなやかにすれば、斬撃打突等を強くできる。自分の手之本が柔(しな)やかでなければ、強く冴えのある斬撃打突等はできない。常に凝り固まらず、力まずに柔やかで、手之本が柔らかい。こなれた身、それが武道の身体です。

「柔(しなやかなこと)」の対語は「固(まわりがかたいこと)」です。

「緩(ひきしまらないこと)」の対語は「堅(ひきしまってつよいこと)」です。

「柔」と「緩」は異なります。「固」と「堅」は異なります。

手之内に関していえば、手をふくむ身体全体が常に固まらず、柔(しなや)かな状態を獲得できて初めて「堅」も「緩」も自在となります。

固いのはいけません。ところが、ほとんど全ての人が、特に右手が、程度の差こそあれ、固いのです。柄を握った右手の凝り固まっているのが、見ただけでわかる方がよくいます。特に、古武道修行者や居合を稽古する人に右手のゴチゴチの人がめだちます。立身流門も例外ではありません。これでは刀の操作もままなりません。

右手を含む「こなれた身」ができて、はじめて「我体自由自在」(立身流秘伝之書)が可能になります。

2、身のこなれと向(むこう)、圓(まるい)

そのような身体が武道の必須要件として要求されるのですが、特に立身流の圓抜で顕著に必要とされるのです。見た目、格好だけできても圓ではありません。

他方、向は手本(身体全体)の勁(つよ)さ、明確さを志向しているといえます。

圓、そして向の正しい修練を重ねるのが身体のこなれの質を高めていく近道です。

  • 日々夜々に向圓を抜ならば 心のままに太刀やふられん [立身流理談之巻]

向圓は立身流の基本中の基本であり、かつ秘事です。

3、身のこなれの質と程度

「身のこなれ」の質と程度は一見してわかるものです。流派の異同、武道種目の異同を問いません。静止していてもですが、動作に顕著です。例えば、立身流での歩みや走りの一歩目は、左足からが原則ですが、その一歩にすべてが示されます(拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」の第五参照)。

4、身のこなれの現れ

「身のこなれ」は気品、品格にも通じます。

「形は人によって良くなる。良い形も人によって悪くなる。要は人だ。流儀の良し悪しも人によって決まってくる。」とは、先代宗家父加藤高の言です。一見難しいことを見事にこなしていたり、社会的評価が高く著名な先生方について、先代宗家加藤高は、間合などの問題点のほか「身体が、本当でない。まだ本物でない」と内々評することがよくありました。「実戦だったら・・・」の例え話つきです。

他方、中山博道先生の杖(立身流の半棒に対応する)での一突につき「その、真直ぐにすっと伸びるすばらしさ、美しさは表現し難いものだった」と、しばしば口にしていました。

逸見宗助は萬延2年(1861年)正月18日に、まず千葉栄次郎の下での稽古に入りましたが(後、桃井春蔵門)、坂本龍馬と接触があり、「龍馬の剣は、大きく、のびのびした、立派な稽古であった。」と語っていました。

俰の、電返(いなずまがえし)之事の稽古で父は、「電の如く、電光石火、敵の懐にとびこむのが要諦。国士舘の柔道の同僚で巴投の見事な者がいた」とのことでした。電返は柔道の巴投に対応します。ただ、初めから組んではいないことや、キンを中(あ)てたり、受身をとれないよう頭から敵を落とすなどの違いがあります(拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」の第四、構の1、及び2、参照)。

戦後剣道が解禁された頃、父が持田盛二先生と日本剣道形を撃った際、質問する父に対し、持田先生は「あなたぐらいになれば、自分の解釈にしたがうのが一番良く、それで十分です。」と述べられました(写真)。

持田盛二と加藤高の演武 /於 佐倉第二高等学校講堂(右が加藤高)

持田盛二と加藤高の演武 /於 佐倉第二高等学校講堂(右が加藤高) [立身流所有]

国士舘での父の後輩、二天一流今井正之先生については「今井は良いから真似するといい」と教えられました。

一突、一振、一足の中に全てがあり、全てが示されます。

第四、「手之本柔(しなやか)ニ」なるための稽古

1、桁打(けたうち)、旋打(まわしうち)、廻打(まわりうち)と切返し

かつて立身流では、初心者には、三年間は、桁打(すなわち、向)、旋打(すなわち、圓)、廻打(すなわち、向と圓)しか許されませんでした。袋撓(ふくろじない)を用います。

戦前、先代宗家加藤高が在学した国士舘専門学校や、武道専門学校でも、新入生は一年間、稽古は切返しだけでした。今の高校三年生くらいの、それまで鍛えに鍛えられてきた猛者たちが、です。切返しは、立身流の桁打、旋打、廻打に対応します。

「みんな、死ぬ思いの稽古を繰り返したからな」との父の述懐でした。在学中の四年間のほとんどは基本稽古に費やされたのです。

これはすべて、「手之本柔(しなやか)二」し、こなれた身体を創り、同時に、技の基本を身につけさせるためでした。

武道の習得には、このようにした方が結局ははやいのです。というよりも、こうしなければ武道を本当には習得できません。基本が習得され、その結果どのような場面にも対応できる応用力が備わっている、それが専門家です。

但し、正しい桁打、旋打、廻打、切り返しでなければ、取り返しのつかないことになります。

2、稽古方法

「手本柔(しなやか)」になるには、疲れに疲れ、力を入れようとしても入れられない状況まで廻打等を稽古し、その情況下で更に、師匠の指導の下、正しい廻打等を繰り返すのが一番です。

当初は、ゆっくり、右手は勿論全身の力を抜き、大きく、のびやかに、真直ぐに、無理のない、動きでです。

これを何年かかけて、速く、右手は勿論全身の力を抜き、大きく、のびやかに、真直ぐに、無理のない動きにしてゆき、さらにこれらを繰り返します。上達しても、稽古の最初と最後に行います。可能な限りゆっくりした動きから、可能な限り速い動きを繰り返します。

数を重ねていくと、次の歌が肌でわかるようになります。

  • 遅くなく疾(はや)くはあらじ重くなく かるきことをばあしきとぞしれ [立身流理談之巻]

このようにして、どのような事態にも対応し得る、こなれた身がつくられてゆきます。

本当の速度や冴えや鋭さや強さや美しさや品格はこうして身につきます。立身流や、戦前の武道家養成校はこれを実践したのです。

疲れ果てるまでの時間と機会がないばあいは、疲れ果てたとの想定の下で稽古します。

数をかけないで先へ進もうとする(速くしようとする、強くしようとする、冴えを出そうとする、等)と、崩れ、拗(こじ)れます。

3、子供の稽古と大人の稽古

子供時代からの稽古が有益なのは、単に稽古期間を長くとれるからではありません。子供の柔らかい身体と素直な心の下、身体の柔やかさとその感覚を維持しつつ、筋力をつけ、正しい技と力を身につけながら、大人になる迄たっぷり数と時間をかけて熟成し、柔やかにこなれた身体を創りあげる稽古ができるからです。子供にだけ可能な、大人には不可能な、質の高い稽古ができるのです。

その子供には無理な重い武器(刀等)を持たせたり、速く振らせようとしたり、強く打たせようとしたり、意図的にメリハリをつけさせたりしてはいけません。折角の子供の資質をそぎ取り、悪癖をつけさせるだけです。

大人はまず身体をほぐして柔らかくすることから始めなければなりません(その意味では女性の方が武道に入りやすい、と言えるでしょう)。そのうえで、自分の筋力を生かしながらも柔やかさを得る方法を探り、正しい技を身につけ、なおも筋力等の強さを身につけ、身のこなれをもとめていかねばなりません。

4、初心者の稽古

初心者は、武器を手にする場合は成るべく軽いものにする。軽いものを重く正しくのびやかに振ります。それを続けていけば重いものをも軽く正しくのびやかに振れるようになります。身体がこなれないうちは重い武器を手に稽古しないことです。袋撓(割竹の受方用でなく丸竹の仕方用を選ぶこと)が有効です。

立身流刀術の動きは、重く、長い刀にも適しています。抜打に斬る瞬間には既に両手で柄を握っているのが原則ですし、勿論、刀の重さ、長さ、反り、刃筋、鎬の存在等を生かし、これらに逆らわない自然な動きだからです。ちなみに、私の居合刀(真刀)は刃渡り2尺6寸3分、鞘を払った重量1.4キロです。息子の敦のそれは、2尺5寸5分、1.6キロです。敦の刀は、台湾に持参した全ての刀剣を残して戦後引き揚げて以降の、先代宗家加藤高の愛刀でした。

しかし、身のこなれと技が相当程度達成され、かつ、正しい稽古を続けるならば悪影響はない、と判断されるまでは、重い刀、長い刀は避けねばなりません。手之内等には思いもいたらず、刀を反りのある鉄棒と同視するような、抜いて振り回すだけの、不器用なだけの稽古になってしまいます。器用なだけというのはいけませんし、不器用なだけというのもいけません。

  • 不器用も器用も鈍も発明も 終りの末ハみちハ一寿(す)じ [立身流立合目録之巻]

身体がこなれないうちは、力の要る技(場合により、張、巻落など)の稽古をしてはならない、ということにもなります。

5、数抜(かずぬき)

立身流の数抜(拙稿「福澤先生と立身新流居合」参照)の数の多いものは、原則、相当に身のこなれた者がすべきです。その主眼は、身のこなれを向上させると共に、向圓の居合の表(おもて)の立合を、刀を用いて正しく身にしみ込ませ、矯正し、向上させ続けることにあります。しかし、個癖(こへき)を身につけてしまうことにもなりかねません。特に見てくれる人のいない一人抜は要注意です。

  • 不器用も器用もいらず数抜を 年を積りてする人ぞよき [立身流歌]
  • 怠らず数を抜いても工夫をも せずば稽古のいかで上がらむ [立身流歌]

福澤諭吉はこれらの歌に従い、数抜を続けていました。(拙稿「福澤先生と立身新流居合」参照)

6、個癖と個人的特性

  • あまり身に過ぎたる技を好まずに 進み退くことを覚えよ [立身流立合目録之巻]

色々な形の所作を覚えて、いくら数を重ねても、格好だけで、あるべき形から離れるだけ、理想の方向へ向かわず、究極の目標とは方角違い、ということがよくあります。ただ手なれていて小さく迅いだけでは、また、ただ力まかせに強いだけでは大成しません。そのような稽古を続けていても固癖に陥るだけです。武道は対人関係から始まるのでして、只物理的に速かったり強かったりすればいいものではありません。

そして、修復しがたい個癖におちいらないためには、よい師匠が必要です(拙稿『立身流に於る、師、弟子、行儀と剣道の「一本」』参照)。個性(個人的特性)と個癖は異なります。自分では個性だと思っていても、そのほとんどは個癖にすぎません。一人稽古だけを続ける場合は特に要注意です。

すべきでない稽古や運動を重ねて個癖が身についてしまった時は最初に戻らなければなりません。ところが、それが困難なのです。拗らせてしまった時はなおさらです。

矯正には、素直さを取り戻した上で、尋常でない覚悟と努力が必要です。しかし、個癖を正しいものだと、個癖をすばらしい個性だと、身体と意識下に刷り込まれてしまっています。そのため、説明を受けて仮に頭では一応理解でき、その場では一旦矯正されたとしても、身体が納得しません。潜在意識も変化せず、従って、正しいものを見ても、それを正しいものと真に認識できないのです。

武道では、自分の体得した質、量の範囲でしか理解できず、正しい目標も設定できません。

7、最高のほめ言葉

「そのまま数を重ねればいい」という言葉は、先代宗家加藤高の、その時点毎の最高のほめ言葉でした。

第五、「心目體用一致」(立身流俰極意之巻)における「體用(たいよう)

「用」は「はたらき」を意味します。すなわち、心用、目用、体用はすべて一致しなければならないという意味です。

「心」は、七戒の下、空の状態の心です。その「用(はたらき)」は、意識作用のない無念無想の下で環境への最適な対応の仕方を判断します。(拙稿「立身流について」及び「立身流に於る『心の術』」参照)

「目」は、間合など直接認識できるもののほか、その背後にあるものに感応します。その「用(はたらき)」は、他の感覚器官と併せて環境を的確に把握します。

「體」は、こなれています。その「用(はたらき、すなわち技)」は、環境変化への対応を実現します。

「一致」は「一体」と同義です。

心を軸として、環境とその変化の把握からこれへの対応行動が一瞬でなしうる、その要件のひとつが、身のこなれです。

  • 心こそ両輪軸とおなじなれ とまるものなら廻るまじきぞ [立身流理談之巻]

武道では、武道の心、目、體を練りあげ、その各々のはたらきが理(曲尺: かね)にかない、しかもその全ての一致(曲尺合: かねあい)が求められます。

立身流三四五曲尺合之巻(たつみりゅう さんしご かねあいのまき 立身流曲尺之巻とも標される)はここから始まり、ピタゴラスの定理なども考察しつつ、天、地,人、自然、生死へと思索を深めてゆきます。

立身流は「動く禅」とも称されます。

第六、身のこなれ、手之内、の形への現れ方

これについては別稿の「『手本柔』」(立身流變働之巻)の立身流刀術形への現れ」に記します。

個々の刀術の形(表之形<居合・剣術>、陰之形、五合之形、五合之形詰合等)への現れとともに、刀術全体を通じての注意点例(桁打・旋打・廻打の種類・内容、一刀・二刀・抜刀での手之内、剣先の厳しさ、刃筋の正しさ、擁刀、鎬の用法、抜刀の際の鞘の戻し、残心等)につき述べ、「立身流刀術極意集」(立身流第11代宗家逸見柳芳筆)や「立身流之秘」(立身流第17代宗家逸見忠蔵筆 安政5年戌午(1858年)10月)の一部にもふれます。

第七、武道に於る「必勝の原理」

流祖立身三京が濃州妻山大明神に参籠し、37日目の暁、夢のうちに開眼して会得した武道全体に通ずる必勝の原理は、向、圓の形を介して授けられました。

本稿で述べたところはこの原理の表れのほんの一端です。

形の上では、向、圓がそれぞれ独自に変化するばかりでなく、向と圓あるいは向の変化と圓の変化が無限に組み合わされていきます。

俰でいうと、向、圓の体系が俰の居組、特にその初の3本の右位、首位、胸位(胸痛)となり(なかでも、1本目の右位の重要性がきわだちます)、中(あて)、逆(ぎゃく)、絞(しめ)、解(ほどき)等が加わり、立合及び組合(甲冑技)を含む全45カ条と、受身や活法を含む多数の口伝(くでん)につらなっていくことになります。

他方、向と圓が統合され、昇華したのが「一心圓光剣」(立身流免之巻。立身新流免之巻には「一心圓明剣」と表記される)です。

第八、術と道

今までの記述で私は「武道」の語を使ってきました。

私は、武術すなわち武道、武道すなわち武術、と認識しています。古武術すなわち古武道、古武道すなわち古武術です。

術すなわち道、道すなわち術です。

立身流は、世間的には古武術、ないし古武道だとされるかもしれませんが、その内容は、単に武道という語を使ってもいいものです。

【参考】諸橋轍次 大漢和辞典(修訂版) 巻十 153頁

術・・・㊀みち。㋑とほりみち。邑中の通路。・・・㋺心のよるところ。心術。・・・㋩のり。おきて。法則。・・・㋥てだて。手段。・・・㊁わざ。㋑学問技芸。・・・

第九、道歌

< >内は、関係する特に重要な事項を示します。

  • いかほどに太刀はするどに振るとても 手の内さとり備へく寿す奈 [立身流立合目録之巻]

<剣先の厳しさ>

  • 我身なる手元の非をば知らずして 敵を切らんとするぞはかなき [立身流立合目録之巻]

<手之内の基本稽古>

  • 敵の打太刀の切先引しめて たぐり行くなる心なれかし [立身流立合目録之巻]

<剣術・表之形 陰之形>

  • 本の身は行くも留るも飛(ひく、退く)は猶 心にまかせ叶ふ身と知れ [立身流直之巻]

<剣術・五合之形>

第十、「立身流秘伝之書」(第17代宗家逸見忠蔵編)中、「剣術抜合理談」(明和元年甲申(1764年)晩秋 一鏡堂源水跋(いっきょうどう みなもとの すいばつ・第11代宗家逸見柳芳)筆)より三か所引用(読下し)

一、「夫(そ)レ太刀ハ其ノ人ノ心ノ如ク動クト云(い)ヘリ。假初(かりそめ)ニモ敵ヲ欺クコト莫(ナカ)レト云フ。・・・柄(つか)鞘(さや)手付(てつけ)ニ習ヒ有リ。強ニ非ズ、弱ニ非ズ。是(こ)レ手之内ノ陰陽也。弱ノ中ニ強有リ、又、強ノ中ニ弱有リ。是ヲ第一ノ習ヒト為ス也。弓矢剣鎗、共ニ皆等シ。陰中陽、陽中陰也。諸流共ニ同ジク之ヲ秘ス。卵合セノ場也。卵ハ強ク握ル時ハ潰レテ失有リ。又、豫メ弱ク捉エテ打落サル時ハ破レテ失有リ。故ニ亡ビテ夫(そ)レ止ム事ヲ得ズ。然ラバ則チ柄ハ惟(これ)、卵ニ添テ握ルガ如シ。弓鎗ノ握モ同ジ。弣(ゆづか)ヲ強ク握レバ弓(ゆ)ガエリナシ。鎗モ左ノ手強雄ノ時ハ突ク事カタシ。是レ卵ヲ握ルガゴトシ。・・・」

二、「・・・右ノ手ノ力強ク左手ノ力弱キハ人ノ常也。力強クシテ手足堅ク氷ノゴトク成ルトキ用ヲ闕(か)ク也。身體ハ水ノ如ク水ハ方圓ノ器ニ随フ。抜ク者ハ敵ニ因リ轉化(てんげ)ス。・・・」

三、「ソレ兵ハ詐(いつわり)ヲ厭(いと)ワズト言ヘドモ、剣術ノ修業ヲ専ニスル者、之ヲ好ム所ニ非ズ。武ヲ用フル者ハ威ヲ先ンズ、威ハ変ラズ於(に)在リ。・・・兵法ハ偽ヲ嫌フ。偽ヲ以テ勝ツ事ハ勝ニ非ズト云リ。敵ヲ唆(さ、そそのかす)リ欺キ打ツ事莫(なか)レ。夫レ人ノ氣ニ虚実有リ。敵ニ向ヒテ打ヲ發シ欲スル時ニ吾(わ)ガ見込タル所ヲ打外サヌ様ニ打ツコト肝要也。打勝ト雖(いえど)モ猶(なお)、打チ始メノゴトシ。突キモ又同ジ。打ハ手ヲ以テ撃ッテ、手ニテ撃ツニ非ズ、躰(たい)ヲ以テ打ツ也。又躰ニテモ打ツニ非ズ、呼吸ヲ以テ打ツ也。是(こ)レ皆、体用一致ノ所也。突ク物モ等シ。弓射ル者モ此レニ同ジ。手ニテ彎(ひ)キテ射ルニアラズ躰ニテ張ッテ射ル也。躰ニテ張ッテ発スニアラズ呼吸ニテ射テ放ツ也。太刀突モ鎗ニテ突クモ同ジ事也。・・・太刀ニ打在リ,打ノ中ニ突有。鎗ニ突アリ、突ノ中ニ弾(はじき)アリ。・・・目付三段九ヶノ内、身体ヲ打ツ所ハ只一ヶ所ニ止マル。此ノ打ヲ打損ゼヌ様ニ相討(あいうち)ニ打ツ可(べ)シ。是、直(ちょく)ノ打也。唆シ打タント欲シ、打タ不(ず)シテ敵ノ氣ヲ欺ク、是、偽ノ打也。・・・心、凝(こ)リ固リ、則(すなわち)、業(わざ)モ固リ、手足共ニ岩木ノゴトクニ凝リテ身体自由ニ成ラ不(ず)、故ニ利ヲ得ル事甚(はなはだ)難(かた)シ。心ハ両輪軸ノ如シ。留ル時ハ旋(まわら)不。・・・」

第十一、「立身流聞書」(第21代宗家加藤高筆)より三か所引用

「一、・・・柄の握りは刀の死活に影響するところ極めて大なるを以て、手のかけ様は廣からず、狭からず、力を以て強く握らず、柔かく、肚(はら)にて握る心持ち肝要なり。

手の裡の心持は、両手首を軽く折り、左右の小指及び無名指を絞り込み、中指の基部を締め、食指は軽く屈め、拇指の基部にて柄の上より僅か押す心持にて柄を握ること(所謂、茶巾を絞る要領にてなす)。而して斬撃する時は、その斬りつけたる瞬間両手の力をひとしく十分握りしめておこなひ、斬撃の後、刀を復する時、又は刀を構えたる時は、手の裡やわらかに、力を入れる事なく、所謂左手は傘をさしたる心、右手は卵を握りたる心にて柄をとる事。

柄の握り様は鍔(つば)に拳の觸(ふ)れざる様、縁金(ふちがね)の部を避けてかけ、・・・左手は柄頭の金具を握りこまず(小指を金具にかけぬ)、即ち八寸くらいの柄に於いては小指の基部関節の外部が柄表の柄糸の巻き納めの結ひ節に小指先は柄裏の柄糸巻き留めの結び節にかけて握るを最も適当とす(彼の左小指の半ばを柄頭にかけて握る時は金具ゆるみて柄を損傷し、手の作用十分なり難し)。」

「一、居合は剣道に伴ひ之に並行して発達し来れる刀法にして、元より剣道を離れて居合なく、居合を離れて剣道なく、両者全く一体不離の関係たり。・・・」

第十二、「立身流秘伝之書」(第17代宗家逸見忠蔵編)中、「立身流戦場動幷着具之心得」(たつみりゅうせんじょうばたらき ならびに ちゃくぐのこころえ) (安政5年戊午(1858年)9月吉辰 逸見忠蔵筆)より三か所引用

「陣大小事・・・」

刀長短ハソノ人具足(ぐそく)ヲ着テ能(よく)振ル程ヲ吉(よし)ト言 平日ト違 小手ヲ差テ抜兼ルモノナリ・・・」

「持鎗之事・・・」

鎗ノ柄ハ二間程迠(まで)ハ好ミニ依ベキ也 長キハ余リ好マ不ル事也。柄ヲカンナ(鉋)目ニ削タルガ吉。塗柄アシ・・・」

鎗合之事

敵味方歩立(かちだち)ニテ鎗ヲ合スル時ハ・・・トカク胸板刀諸臑(すね)ヲナグル 則(のっとれ)バ必ス敵タヲルゝ物ナリ・・・」

第十三、「立身流入堂訓」(昭和62年1月27日 第21代宗家加藤高 全十ヶ条)より5ヶ条引用

第一条 立身流を学ぶ者は、流租神伝以来、歴代先師が、尊き実地試練の苦業を経て完成されし形、その他、古来より伝承されし当流の内容に聊かも私見を加え、私意を挟み、之を改変すべからず。

第二条 常に向上の念を失わず、先達者に就いて、絶えず個癖の矯正に心がけ、正しき立身流の形及び理合並びに慣行知識の修得と伝承に心がけよ。

第三条 個癖と個人的特性とを混同する勿れ。

第四条 立身流修業中、不知不識の間に、往々にして或る種の不正過誤に陷ること有り。拗れざるうちに宗家の指導を受けよ。

第九条 立身流古文書類の研究解明は必ず実技修得後に於いて、実技に照らしてなすこと。実技と理合の対応なき研究解讀は、判断を誤る場合少なからず。注意すべし。

以上

註 印は朱