古武道に学ぶ心身の自由(二)

日本古武道振興会会長 立身流第21代宗家 加藤 高
初出 月刊柏樹1995年3月号(No.144) 平成7年3月10日株式会社柏樹社発行
令和2年(2020年)5月23日 掲載(禁転載)

古武道の練磨にあたっては、常に思念工夫を怠らず、心身を最大限に、練って、練って、練り上げているうちに、やがて自由、自在な働きが出来るようになり、何時しか堂に入り、必勝の原理の妙味を体得されるものである。

戦前、戦時の中等学校では、剣道は厳然たる、独立した教課であった。私は往年の若かりし頃、当時の中等教諭として、剣道と国語、漢文を兼任していたが、はからずも剣道の全国的な公開研究授業の担当を指名されたので、慎重に剣道の年間指導計画やら、担当時間の教案とか、その他の必要書類を整備して、公開研究授業に臨んだところ、文部省関係の先生方はじめ、授業参観の専門家の先生方から、好運にも分に過ぎた最優秀の模範授業であるとの好評を頂戴した。

これは学校長はじめ、全教職員の全面的な指導協力と、優秀な生徒達の努力の結果にほかならない。

公開研究授業と無事滞りなく済んで、いよいよ最後の質疑応答になった。私は壇上に着席して色々な質間に応答していたが、そのうちに某校のある教諭より、「虚弱生徒に対する指導対策如何」との質問を受けた。当時はどこの学校でも、病弱な生徒に対しては、実地指導は免除し、ただ見学させるのが普通で、特別な指導対策などというものはたてておかなかった。勿論、私もその程度で、公開研究授業のために整備してあった各種の書類や資料中にも、その事については全然記載してなかったのである。その盲点を指摘しての質問であった。壇上にいた私は、相手の意地悪なこの質問に、思わずむっとして、「そういうあなたは、一体どういう指導対策をやっておられるか」と大声一番、反問したところ、満場の一同、途端にどっと爆笑の嵐しばしやまず、収拾のつかない状態であった。

やがて最終段階に入り、文部省派遣の先生方の講評があった。日く、「加藤教諭の剣道の実地指導の授業は、まことに微に入り、細を穿った、一点の非のうちようもない理想的な、申し分のない模範授業であるが、最後の段階の質疑応答の時間に、相手の質問には一向に答えずに、『そういうあなたは一体どういう指導対策をやっておられるか』と声を励まして反問したのは、甚だ宜しくない。とにかく、先ず一応、自分の見解を述べてからのことである。この点、猛反省を促さざるを得ない。併し、全体を総括してみると、まあ立派な公開研究授業であった」との批評を受けたので、私は苦笑せざるを得なかった。

つまり、相手の辛辣な質問に対して、平常心を失った言動をとったのが、千慮の一失であって、私の常日頃の、精神修養の未熟さを遺憾なく露呈した結果となったのである。

剣を執って敵と相対峙した場合には、心を微塵も動揺させることがなくとも、その他のあらゆる場合に於いて、その心境を持続し、活用させることが、如何に困難なことであるかを、身をもって体験した次第である。

前記の通りの質問に対して、精神鍛練に未熟な私が、古来から古武道立身流心法の七戒 (驚・懼・疑・惑・緩・怒・焦 (きょう・く・ぎ・わく・かん・ど・しょう)--立身流では以上の七つがまったく消滅した「空 (くう)」の境地に悟入することを学ぶ。前号参照) のうちの、「怒」の状態にまで、完全に心が動いてしまったのは、全く往時宮本武蔵との試合の際に於ける佐々木小次郎の轍を踏んだもので、生来の不敏のいたすところとはいいながら、内心甚だ忸怩たる思いであった。

別件ではあるが、私は往年の学生時代に、中野正剛先生より雄弁法講話の指導を受けたことがある。

先生は夙に雄弁家として、名声嘖々たるものがあり、その演説を拝聴するに、満堂の聴衆を完全に魅了し、感動させて、やがて陶酔させてしまう程の迫力があった。

  辨すでに中野の如く冴えぬれば
    長広舌もおもしろきかな

こう当時謡われたほどの人物であった。

ついでながら付記しておくが、この中野氏は戦時中、東條英機氏と当時の国策に対する見解を異にして、遂に憲兵に逮捕され、その後、一時釈放されたが、その間に自決された悲劇の人物である。

有為の人材でもあり、愛国者でもあったが、悲運な方であった。

その中野氏が言うには、「大衆の前で演説するには、聴衆の数の如何にかかわらず、決して恐怖心を起こすような事があってはならない。そうかといって、集った多くの聴衆の、学識人物の程度を軽視して、かりそめにも気をゆるめて、侮るような事があってはならない。大衆は大智識であると思わなければならない。又、聴衆の態度が大変悪く、非礼をきわめるような場合もしばしば見受けられるところであるが、決して驚かない事が肝要だ。聴衆がこちらの演説に一向に耳を傾けずに、相互に盛んに私語をかわして、ざわめくような事があっても、気をもんでいらいらしてはいけない。その他、無礼な弥次などを飛ばされても、一向に気にしないことだ。どんな事を怒鳴られても、絶対に腹を立てない事が必須不可欠の条件である。以上の事を固く肝に銘じて、怠らずに弁舌に数をかけていけば、誰しも何時しか必らず堂に入らん」とのお話しであった。

中野氏の説くところは、言葉の表現方法には多少の相違点もあるが、古武道立身流の七戒と、全く同一内容のことを主張しておられることが、十分了解されたのである。

その後、学生弁論大会に私が出場した際に、演説最中、失礼千万な弥次妨害が頻発した。中には「鈍感」などという、全く聞くに堪えない毒舌をふるう聴衆もあったが、私はいわゆる馬の耳に念仏で、耳をかさなかった。やがて次第に静粛な雰囲気になり、しまいにはシンとなって、演説終了時には、万雷の拍手であった。

これなどは、古武道立身流の心法の活用の事例というべきではなかろうか。これも学生時代のことであるが、剣道範士の大島治喜太先生の熱烈な勧誘により、私は剣道稽古のかたわら、銃剣術の御指導に預かったのである。

大島先生は銃剣術の達人でもあり、先生の経営しておられた健武館道場では、剣道と共に銃剣術も指導しておられた。

さて銃剣術は構は剣道とやや異なるけれども、気分(敵と相対峙した時の充実した気勢)、間合(敵と我との距離のとり方)、突く機会、目のつけ方、体さばきなどは全く剣道と同一であって、従って暫く稽古をつんだところ、あまり突かれなくなった。

当時、大島先生は陸軍戸山学校の武道教官も兼務しておられたので、私は先生のお供をして、陸軍戸山学校にも稽古に行ったのである。

陸軍戸山学校では、将校学生と、下士官学生が、剣術、銃剣術、その他の体育を研修していたが、わけても下士官学生の銃剣術は、朝稽古、間稽古(まげいこ)(昼休み間の稽古)、午後の稽古等、数時間にわたって実施され、壮烈をきわめ、その稽古量は、ゆうに私の数倍はやっていることは確かであった。

或る日、大島先生の指示で、その猛稽古をつんでいる下士官学生中の、選ばれた数名の猛者連中を相手に、私は試合を命ぜられた。

陸軍戸山学校の試合は、実戦の場合を想定して、総べて一本勝負である。その結果、私は好運にも、辛くも全勝することができた。そして銃剣術五段を允許されたのである。

その時私は、「成り上がり者の私のような者が、銃剣術五段を允許されるようでは、剣道は十段を允許されてもよい筈である」と、呵呵大笑したものである。

古武道に於いては、「上手は武器を選ばず」といわれているが、決して上手でもない私如き一介の武骨者が、はからずもその時、全勝することが出来たのは、いわば古武道立身流の必勝の原理の、活用の結果のいたすところと考えざるを得ないのである。

後年、支那事変がはじまって、やがて第二次世界大戦となり、その真最中、私もアジア全域と南方方面にわたり、西に南に、各地を転戦するにいたったが、当時、日本軍は、まだ破竹の勢いの、連戦連勝の時代で、米英軍は支那軍より遙かに弱いというような、行き過ぎた驕慢な風潮が、公然と横行していた頃でもあった。

たまたま南方作戦中、攻撃前進中に、待ち構えた米軍の重砲、野砲の一斉集中射撃にさらされたことがあった。幸いにも、最初の一斉射撃の砲弾は、いずれも数百メートルの前方に落下して、人的被害は皆無であった。間もなく修正されて、第二次斉射の始まることは必定である。そのあまりにも物凄い目前の砲爆を見て、多くの部隊は、その危害予防を考慮して、余儀なく一時、後退転進したのである。

私はこの時、咄嗟に判断して、この状況下に於いては、却って前進する方が安全だと察知して、急遽今しがた砲弾の落下した地点まで前進して、その弾痕に入り、一応、装具をはずして休憩していたところ、果たせるかな、米軍の第二次斉射が開始され、今しがた後退退避したばかりの友軍の真直中に落下しはじめ、砂塵爆煙、濛々として咫尺を弁ぜず、黙視しがたい状態であった。私達一同は、弾痕の中で休憩しながら、その実況を眺めつつ、「前に進んでよかったなあ。あの真向から集中射撃を受けているのは何中隊か」などと話合っていた。

咄嗟の瞬間的な状況判断と、その場の適正な処置。これは如何なる場合を問わず、古武道立身流の心法に於いて、最も重視されているところであって、この場合も、米軍の砲撃被害を無事に避けることが出来たのは、言うなれば古武道立身流の、必勝の原理(前号参照)に基づくものであったと今もって思われてならない。

但しその時の、米軍砲兵の練度の高かったことも改めて認識した。将来とも、どうしてなかなか悔りがたいものがあることを痛切に予感した次第である。

さて前号冒頭に記した通り、古武道立身流は、居合、剣術を表芸とする総合武術であるけれども、その中でも俰(やわら)(柔術)は相当重視されている。

それは古い源平時代から、甲冑の著しい発達にともない、戦場に於いては太刀討ちだけでは、容易に勝負がつかなくなって、必然的に鎧組討(よろいくみうち)が行なわれるようになったからである。

立身流俰の形(やわらのかた)は四十五本あって、その構成は他流の柔術と大体同じで、投業、当身業(身体の致命部を撃突して痛める業)、締業(首又は胴を締めて痛める業)を主体とし、それに各種の活法(かっぽう)(気絶した者を蘇生させる法)を加えたものであるが、立身流俰の特長は、逆業が特に発達している事である。そしてその逆業は肘関節はもとより、手首、足、その他全身の関節に及んでいる。

又、当身業は比較的数が少ない。これは前記の通り、甲冑の著しい発達にともない、戦場に於ける鎧組討では、当身業の効力がおのずから、ある程度の制約をうけるからである。この点、素肌闘技を主体とした空手、あるいは中国拳法、ボクシング等とは、全く正反対の立場におかれるように思われる。素肌では当身業の効力は絶大である事は言うまでもない。

逆業は体力には関係なく、平時に於いても、戦場鎧討組の場合でも、その効力は絶大で、熟練すれば一瞬にして敵を制することが可能である。

(以下次号)

立身流に於る「・・・圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理・・・」(立身流變働之巻)

立身流第22代宗家 加藤紘
平成24年度立身流秋合宿資料
平成24年10月20-21日
[平成24年9月10日掲載/平成26年6月16日改訂(禁転載)]

第一、はじめに

古人はあらゆることを考究実践のうえ体系を打ち立てています。背景もない現代人の軽薄な思いつきや思い込みとは次元が違います。立身流について言えば、武士への武道指導者、専門家、実務家、研究者として500年来の思索と実践の蓄積があります。この500年の間に全てがなしつくされています。

例えば、立身流には次のような道歌があります。

  • 先々の先こそ阿連ば後の先も 後の先としてせんせんの勝 [立身流立合目録之巻]

逸見宗助源信髙が本人の字で、本人の制作で「以先戒為寶」(せんのいましめをもってたからとなす)と扁額に記した、その戒の歌です(加藤高論稿「以先戒為寶」参照)。

武道における「先」は勿論「後の先」とか「先先の先」という語句も古くからあり、代々、研究に研究を重ねられて現在にいたっているのです。決して、現代武道に始まるものではありません。又、これらの語は一部の武技だけでの用語ではなく、武道全般に関わる言葉です。

「手(之)内」(てのうち)という言葉もそのひとつです。

第二、「手(之)内」(てのうち)

1、堅(ひきしまってつよい)と緩(ひきしまってない)

立身流直(ちょく)之巻は、「十一ヶ条三十三段之分」を中心に構成されていますが、その第八条は次のようになっています。

   手     内

堅     諸     緩

この条を含む直之巻の内容は、立身新流 序之軸にも記されています。新流は1590年代に分流し、江戸時代以降本流との交流はありませんでしたから、これだけでもその以前から「手内」という語があったことがわかります。

手之内には、堅い(ひきしまってつよい)のと、緩い(ひきしまってない)のと、堅くも緩くもないのとがある。どれが良くてどれが悪いというものではありません。しかし、堅いだけではいけない、緩いだけでもいけない。堅くなければいけない場合もあり、緩くなければいけないときもある。しかも手指は常に柔らかくしなやかでなくてはいけません。

特に難しいのは、緩でも堅でもない手之内から緩や堅へ、緩から堅へ、堅から緩へ、そして緩でも堅でもない手之内へ、と、一挙動のうちに、場合によっては何回も、瞬時に、なだらかに、変化しなければならないことです。「諸」とは、この自由自在な、しかも微妙な、変化を意味します。

手之内については、刀術、特に剣術で主に研究されてきました。剣術では敵の刀等を我刀で制御しつつ斬撃打突する場合等が多く、そのためには、左手と右手の手之内の相違などを含め、剣先や鎬の活用法をはじめとする精妙さが特に必要とされるからです。刀術の手之内が他の武技に応用されます。

2、身のこなれ

この動きを可能にするものは何か。

それが立身流にいう「身のこなれ」です。

手之内は、体全体の「こなれ」を前提としたうえで、手、指で握る際のこなれの現れ方です。手で武器を持つ、手を武器とする、手を守る、等、種々の場合における特殊情況に応じられるのは、「こなれ」た身体全体のおかげです。

「身のこなれ」は、立身流變働之巻では、「手本柔」と表現されています。

第三、「・・・まるいぬきは すなわち みずからの てのもと しなやかに たのうつところ つよきの ことわり なり。・・・」(たつみりゅう へんどうのまき)

1、柔(しなやか)と固(まわりがかたい)

手本(手之本)とは、手元からはじまる身体全体のことです。自分の手、手元は勿論、身体まで柔(やわ)らかくしなやかにすれば、斬撃打突等を強くできる。自分の手之本が柔(しな)やかでなければ、強く冴えのある斬撃打突等はできない。常に凝り固まらず、力まずに柔やかで、手之本が柔らかい。こなれた身、それが武道の身体です。

「柔(しなやかなこと)」の対語は「固(まわりがかたいこと)」です。

「緩(ひきしまらないこと)」の対語は「堅(ひきしまってつよいこと)」です。

「柔」と「緩」は異なります。「固」と「堅」は異なります。

手之内に関していえば、手をふくむ身体全体が常に固まらず、柔(しなや)かな状態を獲得できて初めて「堅」も「緩」も自在となります。

固いのはいけません。ところが、ほとんど全ての人が、特に右手が、程度の差こそあれ、固いのです。柄を握った右手の凝り固まっているのが、見ただけでわかる方がよくいます。特に、古武道修行者や居合を稽古する人に右手のゴチゴチの人がめだちます。立身流門も例外ではありません。これでは刀の操作もままなりません。

右手を含む「こなれた身」ができて、はじめて「我体自由自在」(立身流秘伝之書)が可能になります。

2、身のこなれと向(むこう)、圓(まるい)

そのような身体が武道の必須要件として要求されるのですが、特に立身流の圓抜で顕著に必要とされるのです。見た目、格好だけできても圓ではありません。

他方、向は手本(身体全体)の勁(つよ)さ、明確さを志向しているといえます。

圓、そして向の正しい修練を重ねるのが身体のこなれの質を高めていく近道です。

  • 日々夜々に向圓を抜ならば 心のままに太刀やふられん [立身流理談之巻]

向圓は立身流の基本中の基本であり、かつ秘事です。

3、身のこなれの質と程度

「身のこなれ」の質と程度は一見してわかるものです。流派の異同、武道種目の異同を問いません。静止していてもですが、動作に顕著です。例えば、立身流での歩みや走りの一歩目は、左足からが原則ですが、その一歩にすべてが示されます(拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」の第五参照)。

4、身のこなれの現れ

「身のこなれ」は気品、品格にも通じます。

「形は人によって良くなる。良い形も人によって悪くなる。要は人だ。流儀の良し悪しも人によって決まってくる。」とは、先代宗家父加藤高の言です。一見難しいことを見事にこなしていたり、社会的評価が高く著名な先生方について、先代宗家加藤高は、間合などの問題点のほか「身体が、本当でない。まだ本物でない」と内々評することがよくありました。「実戦だったら・・・」の例え話つきです。

他方、中山博道先生の杖(立身流の半棒に対応する)での一突につき「その、真直ぐにすっと伸びるすばらしさ、美しさは表現し難いものだった」と、しばしば口にしていました。

逸見宗助は萬延2年(1861年)正月18日に、まず千葉栄次郎の下での稽古に入りましたが(後、桃井春蔵門)、坂本龍馬と接触があり、「龍馬の剣は、大きく、のびのびした、立派な稽古であった。」と語っていました。

俰の、電返(いなずまがえし)之事の稽古で父は、「電の如く、電光石火、敵の懐にとびこむのが要諦。国士舘の柔道の同僚で巴投の見事な者がいた」とのことでした。電返は柔道の巴投に対応します。ただ、初めから組んではいないことや、キンを中(あ)てたり、受身をとれないよう頭から敵を落とすなどの違いがあります(拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」の第四、構の1、及び2、参照)。

戦後剣道が解禁された頃、父が持田盛二先生と日本剣道形を撃った際、質問する父に対し、持田先生は「あなたぐらいになれば、自分の解釈にしたがうのが一番良く、それで十分です。」と述べられました(写真)。

持田盛二と加藤高の演武 /於 佐倉第二高等学校講堂(右が加藤高)

持田盛二と加藤高の演武 /於 佐倉第二高等学校講堂(右が加藤高) [立身流所有]

国士舘での父の後輩、二天一流今井正之先生については「今井は良いから真似するといい」と教えられました。

一突、一振、一足の中に全てがあり、全てが示されます。

第四、「手之本柔(しなやか)ニ」なるための稽古

1、桁打(けたうち)、旋打(まわしうち)、廻打(まわりうち)と切返し

かつて立身流では、初心者には、三年間は、桁打(すなわち、向)、旋打(すなわち、圓)、廻打(すなわち、向と圓)しか許されませんでした。袋撓(ふくろじない)を用います。

戦前、先代宗家加藤高が在学した国士舘専門学校や、武道専門学校でも、新入生は一年間、稽古は切返しだけでした。今の高校三年生くらいの、それまで鍛えに鍛えられてきた猛者たちが、です。切返しは、立身流の桁打、旋打、廻打に対応します。

「みんな、死ぬ思いの稽古を繰り返したからな」との父の述懐でした。在学中の四年間のほとんどは基本稽古に費やされたのです。

これはすべて、「手之本柔(しなやか)二」し、こなれた身体を創り、同時に、技の基本を身につけさせるためでした。

武道の習得には、このようにした方が結局ははやいのです。というよりも、こうしなければ武道を本当には習得できません。基本が習得され、その結果どのような場面にも対応できる応用力が備わっている、それが専門家です。

但し、正しい桁打、旋打、廻打、切り返しでなければ、取り返しのつかないことになります。

2、稽古方法

「手本柔(しなやか)」になるには、疲れに疲れ、力を入れようとしても入れられない状況まで廻打等を稽古し、その情況下で更に、師匠の指導の下、正しい廻打等を繰り返すのが一番です。

当初は、ゆっくり、右手は勿論全身の力を抜き、大きく、のびやかに、真直ぐに、無理のない、動きでです。

これを何年かかけて、速く、右手は勿論全身の力を抜き、大きく、のびやかに、真直ぐに、無理のない動きにしてゆき、さらにこれらを繰り返します。上達しても、稽古の最初と最後に行います。可能な限りゆっくりした動きから、可能な限り速い動きを繰り返します。

数を重ねていくと、次の歌が肌でわかるようになります。

  • 遅くなく疾(はや)くはあらじ重くなく かるきことをばあしきとぞしれ [立身流理談之巻]

このようにして、どのような事態にも対応し得る、こなれた身がつくられてゆきます。

本当の速度や冴えや鋭さや強さや美しさや品格はこうして身につきます。立身流や、戦前の武道家養成校はこれを実践したのです。

疲れ果てるまでの時間と機会がないばあいは、疲れ果てたとの想定の下で稽古します。

数をかけないで先へ進もうとする(速くしようとする、強くしようとする、冴えを出そうとする、等)と、崩れ、拗(こじ)れます。

3、子供の稽古と大人の稽古

子供時代からの稽古が有益なのは、単に稽古期間を長くとれるからではありません。子供の柔らかい身体と素直な心の下、身体の柔やかさとその感覚を維持しつつ、筋力をつけ、正しい技と力を身につけながら、大人になる迄たっぷり数と時間をかけて熟成し、柔やかにこなれた身体を創りあげる稽古ができるからです。子供にだけ可能な、大人には不可能な、質の高い稽古ができるのです。

その子供には無理な重い武器(刀等)を持たせたり、速く振らせようとしたり、強く打たせようとしたり、意図的にメリハリをつけさせたりしてはいけません。折角の子供の資質をそぎ取り、悪癖をつけさせるだけです。

大人はまず身体をほぐして柔らかくすることから始めなければなりません(その意味では女性の方が武道に入りやすい、と言えるでしょう)。そのうえで、自分の筋力を生かしながらも柔やかさを得る方法を探り、正しい技を身につけ、なおも筋力等の強さを身につけ、身のこなれをもとめていかねばなりません。

4、初心者の稽古

初心者は、武器を手にする場合は成るべく軽いものにする。軽いものを重く正しくのびやかに振ります。それを続けていけば重いものをも軽く正しくのびやかに振れるようになります。身体がこなれないうちは重い武器を手に稽古しないことです。袋撓(割竹の受方用でなく丸竹の仕方用を選ぶこと)が有効です。

立身流刀術の動きは、重く、長い刀にも適しています。抜打に斬る瞬間には既に両手で柄を握っているのが原則ですし、勿論、刀の重さ、長さ、反り、刃筋、鎬の存在等を生かし、これらに逆らわない自然な動きだからです。ちなみに、私の居合刀(真刀)は刃渡り2尺6寸3分、鞘を払った重量1.4キロです。息子の敦のそれは、2尺5寸5分、1.6キロです。敦の刀は、台湾に持参した全ての刀剣を残して戦後引き揚げて以降の、先代宗家加藤高の愛刀でした。

しかし、身のこなれと技が相当程度達成され、かつ、正しい稽古を続けるならば悪影響はない、と判断されるまでは、重い刀、長い刀は避けねばなりません。手之内等には思いもいたらず、刀を反りのある鉄棒と同視するような、抜いて振り回すだけの、不器用なだけの稽古になってしまいます。器用なだけというのはいけませんし、不器用なだけというのもいけません。

  • 不器用も器用も鈍も発明も 終りの末ハみちハ一寿(す)じ [立身流立合目録之巻]

身体がこなれないうちは、力の要る技(場合により、張、巻落など)の稽古をしてはならない、ということにもなります。

5、数抜(かずぬき)

立身流の数抜(拙稿「福澤先生と立身新流居合」参照)の数の多いものは、原則、相当に身のこなれた者がすべきです。その主眼は、身のこなれを向上させると共に、向圓の居合の表(おもて)の立合を、刀を用いて正しく身にしみ込ませ、矯正し、向上させ続けることにあります。しかし、個癖(こへき)を身につけてしまうことにもなりかねません。特に見てくれる人のいない一人抜は要注意です。

  • 不器用も器用もいらず数抜を 年を積りてする人ぞよき [立身流歌]
  • 怠らず数を抜いても工夫をも せずば稽古のいかで上がらむ [立身流歌]

福澤諭吉はこれらの歌に従い、数抜を続けていました。(拙稿「福澤先生と立身新流居合」参照)

6、個癖と個人的特性

  • あまり身に過ぎたる技を好まずに 進み退くことを覚えよ [立身流立合目録之巻]

色々な形の所作を覚えて、いくら数を重ねても、格好だけで、あるべき形から離れるだけ、理想の方向へ向かわず、究極の目標とは方角違い、ということがよくあります。ただ手なれていて小さく迅いだけでは、また、ただ力まかせに強いだけでは大成しません。そのような稽古を続けていても固癖に陥るだけです。武道は対人関係から始まるのでして、只物理的に速かったり強かったりすればいいものではありません。

そして、修復しがたい個癖におちいらないためには、よい師匠が必要です(拙稿『立身流に於る、師、弟子、行儀と剣道の「一本」』参照)。個性(個人的特性)と個癖は異なります。自分では個性だと思っていても、そのほとんどは個癖にすぎません。一人稽古だけを続ける場合は特に要注意です。

すべきでない稽古や運動を重ねて個癖が身についてしまった時は最初に戻らなければなりません。ところが、それが困難なのです。拗らせてしまった時はなおさらです。

矯正には、素直さを取り戻した上で、尋常でない覚悟と努力が必要です。しかし、個癖を正しいものだと、個癖をすばらしい個性だと、身体と意識下に刷り込まれてしまっています。そのため、説明を受けて仮に頭では一応理解でき、その場では一旦矯正されたとしても、身体が納得しません。潜在意識も変化せず、従って、正しいものを見ても、それを正しいものと真に認識できないのです。

武道では、自分の体得した質、量の範囲でしか理解できず、正しい目標も設定できません。

7、最高のほめ言葉

「そのまま数を重ねればいい」という言葉は、先代宗家加藤高の、その時点毎の最高のほめ言葉でした。

第五、「心目體用一致」(立身流俰極意之巻)における「體用(たいよう)

「用」は「はたらき」を意味します。すなわち、心用、目用、体用はすべて一致しなければならないという意味です。

「心」は、七戒の下、空の状態の心です。その「用(はたらき)」は、意識作用のない無念無想の下で環境への最適な対応の仕方を判断します。(拙稿「立身流について」及び「立身流に於る『心の術』」参照)

「目」は、間合など直接認識できるもののほか、その背後にあるものに感応します。その「用(はたらき)」は、他の感覚器官と併せて環境を的確に把握します。

「體」は、こなれています。その「用(はたらき、すなわち技)」は、環境変化への対応を実現します。

「一致」は「一体」と同義です。

心を軸として、環境とその変化の把握からこれへの対応行動が一瞬でなしうる、その要件のひとつが、身のこなれです。

  • 心こそ両輪軸とおなじなれ とまるものなら廻るまじきぞ [立身流理談之巻]

武道では、武道の心、目、體を練りあげ、その各々のはたらきが理(曲尺: かね)にかない、しかもその全ての一致(曲尺合: かねあい)が求められます。

立身流三四五曲尺合之巻(たつみりゅう さんしご かねあいのまき 立身流曲尺之巻とも標される)はここから始まり、ピタゴラスの定理なども考察しつつ、天、地,人、自然、生死へと思索を深めてゆきます。

立身流は「動く禅」とも称されます。

第六、身のこなれ、手之内、の形への現れ方

これについては別稿の「『手本柔』」(立身流變働之巻)の立身流刀術形への現れ」に記します。

個々の刀術の形(表之形<居合・剣術>、陰之形、五合之形、五合之形詰合等)への現れとともに、刀術全体を通じての注意点例(桁打・旋打・廻打の種類・内容、一刀・二刀・抜刀での手之内、剣先の厳しさ、刃筋の正しさ、擁刀、鎬の用法、抜刀の際の鞘の戻し、残心等)につき述べ、「立身流刀術極意集」(立身流第11代宗家逸見柳芳筆)や「立身流之秘」(立身流第17代宗家逸見忠蔵筆 安政5年戌午(1858年)10月)の一部にもふれます。

第七、武道に於る「必勝の原理」

流祖立身三京が濃州妻山大明神に参籠し、37日目の暁、夢のうちに開眼して会得した武道全体に通ずる必勝の原理は、向、圓の形を介して授けられました。

本稿で述べたところはこの原理の表れのほんの一端です。

形の上では、向、圓がそれぞれ独自に変化するばかりでなく、向と圓あるいは向の変化と圓の変化が無限に組み合わされていきます。

俰でいうと、向、圓の体系が俰の居組、特にその初の3本の右位、首位、胸位(胸痛)となり(なかでも、1本目の右位の重要性がきわだちます)、中(あて)、逆(ぎゃく)、絞(しめ)、解(ほどき)等が加わり、立合及び組合(甲冑技)を含む全45カ条と、受身や活法を含む多数の口伝(くでん)につらなっていくことになります。

他方、向と圓が統合され、昇華したのが「一心圓光剣」(立身流免之巻。立身新流免之巻には「一心圓明剣」と表記される)です。

第八、術と道

今までの記述で私は「武道」の語を使ってきました。

私は、武術すなわち武道、武道すなわち武術、と認識しています。古武術すなわち古武道、古武道すなわち古武術です。

術すなわち道、道すなわち術です。

立身流は、世間的には古武術、ないし古武道だとされるかもしれませんが、その内容は、単に武道という語を使ってもいいものです。

【参考】諸橋轍次 大漢和辞典(修訂版) 巻十 153頁

術・・・㊀みち。㋑とほりみち。邑中の通路。・・・㋺心のよるところ。心術。・・・㋩のり。おきて。法則。・・・㋥てだて。手段。・・・㊁わざ。㋑学問技芸。・・・

第九、道歌

< >内は、関係する特に重要な事項を示します。

  • いかほどに太刀はするどに振るとても 手の内さとり備へく寿す奈 [立身流立合目録之巻]

<剣先の厳しさ>

  • 我身なる手元の非をば知らずして 敵を切らんとするぞはかなき [立身流立合目録之巻]

<手之内の基本稽古>

  • 敵の打太刀の切先引しめて たぐり行くなる心なれかし [立身流立合目録之巻]

<剣術・表之形 陰之形>

  • 本の身は行くも留るも飛(ひく、退く)は猶 心にまかせ叶ふ身と知れ [立身流直之巻]

<剣術・五合之形>

第十、「立身流秘伝之書」(第17代宗家逸見忠蔵編)中、「剣術抜合理談」(明和元年甲申(1764年)晩秋 一鏡堂源水跋(いっきょうどう みなもとの すいばつ・第11代宗家逸見柳芳)筆)より三か所引用(読下し)

一、「夫(そ)レ太刀ハ其ノ人ノ心ノ如ク動クト云(い)ヘリ。假初(かりそめ)ニモ敵ヲ欺クコト莫(ナカ)レト云フ。・・・柄(つか)鞘(さや)手付(てつけ)ニ習ヒ有リ。強ニ非ズ、弱ニ非ズ。是(こ)レ手之内ノ陰陽也。弱ノ中ニ強有リ、又、強ノ中ニ弱有リ。是ヲ第一ノ習ヒト為ス也。弓矢剣鎗、共ニ皆等シ。陰中陽、陽中陰也。諸流共ニ同ジク之ヲ秘ス。卵合セノ場也。卵ハ強ク握ル時ハ潰レテ失有リ。又、豫メ弱ク捉エテ打落サル時ハ破レテ失有リ。故ニ亡ビテ夫(そ)レ止ム事ヲ得ズ。然ラバ則チ柄ハ惟(これ)、卵ニ添テ握ルガ如シ。弓鎗ノ握モ同ジ。弣(ゆづか)ヲ強ク握レバ弓(ゆ)ガエリナシ。鎗モ左ノ手強雄ノ時ハ突ク事カタシ。是レ卵ヲ握ルガゴトシ。・・・」

二、「・・・右ノ手ノ力強ク左手ノ力弱キハ人ノ常也。力強クシテ手足堅ク氷ノゴトク成ルトキ用ヲ闕(か)ク也。身體ハ水ノ如ク水ハ方圓ノ器ニ随フ。抜ク者ハ敵ニ因リ轉化(てんげ)ス。・・・」

三、「ソレ兵ハ詐(いつわり)ヲ厭(いと)ワズト言ヘドモ、剣術ノ修業ヲ専ニスル者、之ヲ好ム所ニ非ズ。武ヲ用フル者ハ威ヲ先ンズ、威ハ変ラズ於(に)在リ。・・・兵法ハ偽ヲ嫌フ。偽ヲ以テ勝ツ事ハ勝ニ非ズト云リ。敵ヲ唆(さ、そそのかす)リ欺キ打ツ事莫(なか)レ。夫レ人ノ氣ニ虚実有リ。敵ニ向ヒテ打ヲ發シ欲スル時ニ吾(わ)ガ見込タル所ヲ打外サヌ様ニ打ツコト肝要也。打勝ト雖(いえど)モ猶(なお)、打チ始メノゴトシ。突キモ又同ジ。打ハ手ヲ以テ撃ッテ、手ニテ撃ツニ非ズ、躰(たい)ヲ以テ打ツ也。又躰ニテモ打ツニ非ズ、呼吸ヲ以テ打ツ也。是(こ)レ皆、体用一致ノ所也。突ク物モ等シ。弓射ル者モ此レニ同ジ。手ニテ彎(ひ)キテ射ルニアラズ躰ニテ張ッテ射ル也。躰ニテ張ッテ発スニアラズ呼吸ニテ射テ放ツ也。太刀突モ鎗ニテ突クモ同ジ事也。・・・太刀ニ打在リ,打ノ中ニ突有。鎗ニ突アリ、突ノ中ニ弾(はじき)アリ。・・・目付三段九ヶノ内、身体ヲ打ツ所ハ只一ヶ所ニ止マル。此ノ打ヲ打損ゼヌ様ニ相討(あいうち)ニ打ツ可(べ)シ。是、直(ちょく)ノ打也。唆シ打タント欲シ、打タ不(ず)シテ敵ノ氣ヲ欺ク、是、偽ノ打也。・・・心、凝(こ)リ固リ、則(すなわち)、業(わざ)モ固リ、手足共ニ岩木ノゴトクニ凝リテ身体自由ニ成ラ不(ず)、故ニ利ヲ得ル事甚(はなはだ)難(かた)シ。心ハ両輪軸ノ如シ。留ル時ハ旋(まわら)不。・・・」

第十一、「立身流聞書」(第21代宗家加藤高筆)より三か所引用

「一、・・・柄の握りは刀の死活に影響するところ極めて大なるを以て、手のかけ様は廣からず、狭からず、力を以て強く握らず、柔かく、肚(はら)にて握る心持ち肝要なり。

手の裡の心持は、両手首を軽く折り、左右の小指及び無名指を絞り込み、中指の基部を締め、食指は軽く屈め、拇指の基部にて柄の上より僅か押す心持にて柄を握ること(所謂、茶巾を絞る要領にてなす)。而して斬撃する時は、その斬りつけたる瞬間両手の力をひとしく十分握りしめておこなひ、斬撃の後、刀を復する時、又は刀を構えたる時は、手の裡やわらかに、力を入れる事なく、所謂左手は傘をさしたる心、右手は卵を握りたる心にて柄をとる事。

柄の握り様は鍔(つば)に拳の觸(ふ)れざる様、縁金(ふちがね)の部を避けてかけ、・・・左手は柄頭の金具を握りこまず(小指を金具にかけぬ)、即ち八寸くらいの柄に於いては小指の基部関節の外部が柄表の柄糸の巻き納めの結ひ節に小指先は柄裏の柄糸巻き留めの結び節にかけて握るを最も適当とす(彼の左小指の半ばを柄頭にかけて握る時は金具ゆるみて柄を損傷し、手の作用十分なり難し)。」

「一、居合は剣道に伴ひ之に並行して発達し来れる刀法にして、元より剣道を離れて居合なく、居合を離れて剣道なく、両者全く一体不離の関係たり。・・・」

第十二、「立身流秘伝之書」(第17代宗家逸見忠蔵編)中、「立身流戦場動幷着具之心得」(たつみりゅうせんじょうばたらき ならびに ちゃくぐのこころえ) (安政5年戊午(1858年)9月吉辰 逸見忠蔵筆)より三か所引用

「陣大小事・・・」

刀長短ハソノ人具足(ぐそく)ヲ着テ能(よく)振ル程ヲ吉(よし)ト言 平日ト違 小手ヲ差テ抜兼ルモノナリ・・・」

「持鎗之事・・・」

鎗ノ柄ハ二間程迠(まで)ハ好ミニ依ベキ也 長キハ余リ好マ不ル事也。柄ヲカンナ(鉋)目ニ削タルガ吉。塗柄アシ・・・」

鎗合之事

敵味方歩立(かちだち)ニテ鎗ヲ合スル時ハ・・・トカク胸板刀諸臑(すね)ヲナグル 則(のっとれ)バ必ス敵タヲルゝ物ナリ・・・」

第十三、「立身流入堂訓」(昭和62年1月27日 第21代宗家加藤高 全十ヶ条)より5ヶ条引用

第一条 立身流を学ぶ者は、流租神伝以来、歴代先師が、尊き実地試練の苦業を経て完成されし形、その他、古来より伝承されし当流の内容に聊かも私見を加え、私意を挟み、之を改変すべからず。

第二条 常に向上の念を失わず、先達者に就いて、絶えず個癖の矯正に心がけ、正しき立身流の形及び理合並びに慣行知識の修得と伝承に心がけよ。

第三条 個癖と個人的特性とを混同する勿れ。

第四条 立身流修業中、不知不識の間に、往々にして或る種の不正過誤に陷ること有り。拗れざるうちに宗家の指導を受けよ。

第九条 立身流古文書類の研究解明は必ず実技修得後に於いて、実技に照らしてなすこと。実技と理合の対応なき研究解讀は、判断を誤る場合少なからず。注意すべし。

以上

註 印は朱