日本伝統武道の流名・呼称・用字 ~立身流を例として

立身流第22代宗家 加藤 紘
[令和元年(2019年)12月1日 掲載/令和3年(2021年)1月19日改訂(禁転載)]

第一、立身流の流名は「立身流(たつみりゅう)」です。

立身流傳書十五巻の各巻物のそれぞれの名称は、拙稿「立身流傳書と允許」に示したとおりです。
そこでの例えば「立身流序之巻」、「立身流立合(たちあい)目録之巻」、「立身流居合(いあい)目録之巻」、「立身流俰(やわら)目録之巻」、「立身流直(ちょく)之巻」、「立身流俰極意之巻」、「立身流極意之巻」などの名称を通覧してください。
すぐお分かりでしょうが、立身流の流名は、巻名のすべてに共通して示されている「立身流(たつみりゅう)」です。
「立身流立合(術)」という流名はありません。「立身流居合(術)」という流名や「立身流俰(術)」という流名でもありません。
「立合」とか、「居合(術)」とか、「俰」という語は、立身流という流派の中での特定の一分野、特に形(「型」の字は用いません。拙稿「日本伝統武道に於る形と型~立身流を例として」を参照して下さい。)の上での術技の一分野を指し示すものです。
「立身流秘伝之書」、「立身流之秘」その他、立身流関係古文書でも「立身流」と記載されます。

第二、立身流(たつみりゅう)に付加される各種名称

流名の「立身流」に「藝術」「兵法」「居合」「剣術」「俰」その他の語が付加される場合があります。以下、それらの語およびその意味するところを探ってみます。

一、立身流の一分野を示す場合。

①「立身流居合(術)」
 立身流の居合には、立合(立った姿勢から始まる居合)と居組(正座から始まる居合)があります。組居合などの外は原則として独演形でありかつ敵の反撃を想定しません。「立身流居合目録之巻」での「居合」はこのような意味です。

②「立身流剣術」
 立身流での「剣術」の語は、後述する「刀術」から、上記①の居合部門を除いたものを指し示します。太刀(大刀)と小太刀があります。立身流では、太刀対太刀の形を剣術表(之)形 (おもてのかた) といい、太刀対小太刀の形を剣術陰(之)形 (かげのかた) といいます。五合之形(ごごうのかた)は双方を含みます。
なお、短刀、鉄扇、四寸鉄刀(しゅりけん)などはこれらを手に持った時の間合いの関係から俰に含まれます。
「立身流立合目録之巻」での「立合」は上記の「剣術」の意味です。
ところが、そもそも立身流の剣術の形には居合対居合や剣術対居合(これらでの「居合」は抜刀を意味します)の形も組み込まれています。独演系ではない居合が含まれているわけです。立身流の伝書に「立身流剣術目録之巻」というものがなく、「立身流立合目録之巻」及び「立身流居合目録之巻」であるのはこのような意味合いでしょう。
他方、歴史的には「剣術」の語で立身流全体の術技や、立身流だけでなく他流をも含めた武術全般を示すこともあります。
立身流での「立合(たちあい)」の語は、最広義では、立った姿勢での刀術(後述)と俰の立合を意味します。つまるところは立った姿勢での武技全般を示すともいえます。
その内の「刀術」は刀を使う武術、すなわち剣術と居合を意味しますから、刀術での「立合」は、一般に使われる意味での剣術(小太刀を含む)と、立った姿勢で敵が受方または仕方として存在する形である抜刀(小太刀を含む)と、立った姿勢から始まる独演系の居合とを示すことになります。

③「立身流小太刀(こだち)
 立身流剣術および居合のうちの小太刀です。小太刀対太刀の形が立身流剣術陰(之)形にまとめられています。他に鎗術(そうじゅつ)の小太刀合(こだちあわせ)その他があります。五合之形詰合や傳技の中などには小太刀の居合があります。

④「立身流俰」
 技の大要は立身流俰目録之巻にまとめられています。「居組」と「立合」に大きく分類される体系は居合と同じです。これに甲冑着用の技(素肌にも応用)である「組合」と口伝二ヶ条、更に心得を記した漢文とで立身流俰目録之巻が成立っています。
短刀、鉄扇、四寸鉄刀などが含まれることは前述しました。

⑤「立身流柔(やわら)」、「立身流柔術(じゅうじゅつ)
 第12代宗家逸見宗八(満信)などについての佐倉藩保受録等での記載に示される用語です。 
立身流術技の一分野の「俰」を意味します。

⑥「立身流鎗(術)(やり・そうじゅつ)
 鑓、槍、などと記される場合もあります。
⑦「立身流長刀(なぎなた)
⑧「立身流棒」
⑨「立身流半棒
(はんぼう)
 半棒は杖(じょう)とも記されます。
⑩「立身流四寸鉄刀(しゅりけん)
その他、例えば甲冑についての「立身流着具之次第(ちゃくぐのしだい)」など、立身流の名を冠した流内での種々の分野を示すその他名称があります。

二、立身流全体を、又は立身流のうち限定した複数の分野を意味する語。

これらは付加語としてだけでなく、立身流そのものを示す独立した語としても使われる場合があります。
①「兵法(へいほう、ひょうほう)
 立身流秘伝之書など古文書の随所にあらわれる語です。
この語のみで立身流を意味する場合と、他流を含めた武術全般を意味する場合があります。後記「藝(術)」とほぼ同じ使われ方です。
「立身流兵法」という語で立身流を意味する用法もあります。
「兵法」の読み方としては両方ありますが、「へいほう」が古くから本来の呼称です。
②「抜刀捕手(ばっとうほしゅ)
 第10代宗家糟谷団九郎についての保受録での記載に記されます。
③「居合柔術縄甲冑勝之業(じょうかっちゅうかちわざ)」  
 第13代宗家半澤喜兵衛や第16代宗家逸見宗八(満明)、第17代宗家逸見忠蔵の項の保受録などの記載に出てきます。
④「藝」「藝術」  
 立身流秘伝之書のほか、第14代宗家逸見新九郎(宗八満直)や第17代宗家逸見忠蔵の項の保受録などの記載にあります。前記「兵法」とほぼ同じ使われ方です。
⑤「刀術」 
 刀(太刀と小太刀)を使う武術、すなわち剣術と居合を意味します  
第11代宗家逸見柳芳筆の「立身流刀術極意集」が残されており、第17代宗家逸見忠蔵や半澤駒太郎(第18第宗家半澤成恒の幼名)の項の保受録や分限帳などの記載にも出てきます。
天保10年には、佐倉藩校成徳書院外附属演武場の取建により藩の刀術所が設置され、逸見忠蔵らが師範(刀術師範)となっています(分限帳、佐倉市史 巻二969ページ)。
⑥「剣術」
 前述しました。

第三、立身流名の変化した俗称など

一、誤った俗称

①立身流(りっしんりゅう)
 「増補大改訂 武芸流派大事典」(編者 綿谷雪 山田忠史、昭和53年12月10日発行。以下、大事典という)に「タツミと読む。」とあるとおりです。
国語(日本語)では、漢字が同じなら読みが変化し、逆に、読みが同じなら漢字が変化してしまうことがよくあります。「りっしんりゅう」は、この前の例です。後の例としては、立身新流 福澤諭吉の師が中村庄米とも中村庄兵衛とも記されたりします。

②立目流(たつめりゅう)
 佐倉藩保受録の第10代宗家粕谷段九郎の項に「立目流」の語が記されています。
立身流の「身」の発音が「み」から東北弁の「め」にかわり、「め」が「目」と記されたもので、誤記です。
拙稿「立身流傳書・古文書等での東北弁表記~「手舞足蹈處皆一物」等に関連して」を参照して下さい。

③立心流 (りっしんりゅう)
 「剣術教範詳解」(陸軍戸山学校剣術科著 昭和十年十二月二十日発行 昭和十四年二月十五日四版発行)に記された誤記です。立身流を「りっしんりゅう」と読み間違えた上での当字(あてじ)でしょう。
大事典では「立身流(たつみりゅう)の俗用」とされています。

④立見流(たつみりゅう)
 佐倉藩保受録の第13代宗家半澤喜兵衛の項に「立見流居合柔術」の記載がみえますが誤記です。
但し、現実に存在した「立見流」もあります。忍(おし)藩の立見流についての後記を参照して下さい。

二、必ずしも誤りとは言いきれない呼称

①立身三京流(たつみさんきょうりゅう)
 大事典では「立身流のこと。」とされています。使用例としては、立身流第19代宗家加藤久の弟子の塚本清著「あヽ皇軍最期の日―陸軍大将田中静壱伝」(日本出版協同1953年12月20日発行)の奥書の著者略歴にみられます。
②立見流 (たつみりゅう)
 忍藩では「立身流」の表記が「立見流」に変化してしまいました。忍藩での立身流は「立見流」です。拙稿「立身流の分流」を参照してください。

第四、他組織での立身流の呼称

一、日本古武道協会(以下、協会という)での呼称

1978年(昭和53年)2月19日に日本武道館内に発足した協会では、流名呼称に「〇〇流△△術」というような表記方法がとられ、この表記方法が日本古武道振興会でも採用され、現在は一般社会的に日本武道の流名の正式な呼称はこのようなものであると認識されるようになっています。しかし例外はあるにしても、この認識は誤りです。「立身流は「立身流兵法」が正式呼称であって「兵法」だから総合武道なのだ」と言う方がいますがこれも誤りです。立身流は立身流です。
手元にある日本武道館(及び協会)主催の日本古武道演武大会のプログラムでも第4回1981年(昭和56年)の頃までは「立身流(剣術)」となっていて流名とその大会での演武内容を併記している様が明確です。第7回1984年(昭和59年)には「立身流 居合術」となっています。
ところがその第7回大会頃から、目次や伝承地を日本地図に示す際に「立身流居合術」等と記載されるようになったことから混同が始まったようです。
特に協会事務局長を永年勤められた花輪六太郎先生が実質取りまとめられて1989年(平成元年)8月1日に発行された「 日本古武道総覧」(編者 日本古武道協会 発行所 (株)島津書房)が古武道流派を「柔術・体術」「剣術」「居合術・抜刀術」等々に振り分けた体裁をとったのが一つの契機と思われます。この本で立身流は居合術に分類されました。本文では「立身流(居合・剣術・俰・鎗術・棒術・半棒・長刀・捕縄・四寸鉄刀)」となっています。
そしてその頃以降、一般にわかりやすいように分類区分けした表示を流名に付加する様求められることとなりました。
立身流は総合武道のまま維持されていますからその一部のみを特記した流名を付するわけにいかず、苦慮した結果、一般への説明を念頭においた「武術」との表記を一時したのですが、さらに歴史的事実に即して「兵法」として現在に至っています。

二、日本古武道振興会(以下、振興会という)での呼称

1、「日本古武道振興会概要(自昭和十年二月 至昭和十四年十二月)」(平成二年七月一日発行 日本古武道振興会創立五十五年記念誌156頁以下に立身流第21代宗家加藤高の提供による資料2として転載)は振興会の発会から1939年(昭和14年)迄の事跡が詳細に記されています。そこでの記載は全て「○○流」のみであって例外はありません。立身流も「立身流」との記載です。

2、立身流の現在の表記は、振興会でも一時期使われた「立身流兵法」ではなく「立身流」とされています。その件についての申請書に経緯を述べましたので、その全文を転記します。

申 請 書

平成29年4月5日

日本古武道振興会御中

立身流第22代宗家 加藤 紘

第1 申請の趣旨
   日本古武道振興会に於る立身流についての表記を
   「立身流兵法」
   から
   「立身流」
   へ訂正なさるべく申請いたします。
第2 申請の理由
 当流の名称は本来「立身流」のみであったところ、昭和54年2月17日設立の日本古武道協会に於て、当時の花輪六太郎事務局長が一般の方々にわかりやすくするため、各流儀名の下に種目を表示した上で流儀名を示す方法をとりました。例えば〇〇流剣術とか××流柔術とかという具合です。
 立身流は総合武道のため上記の例のような表記はし難く、古来使われた表記方法の一つの「兵法」を加える形とし、立身流兵法としました。
 平成2年7月の日本古武道振興会創立55周年記念日本古武道大会の際に作成された記念誌に於いて、編集を担当された齋藤聰先生が、流儀の表記方法を古武道協会と同一にする方向をとり、以降立身流は「立身流兵法」と日本古武道振興会に於いても表記されております。
 以上の次第で、この度当流儀の表記方法を歴史的に真正なものに回復致したく申請するものであります。

以上

3、なお、振興会設立の経緯および時につきふれます。全て松本学先生の主導の下に行われています。
「松本学日記」(編者―伊藤 隆・広瀬順晧 1995年2月20日山川出版社発行)及び前出「日本古武道振興会概要」によると、1935年(昭和10年)1月21日に会設立の話が始まり、2月3日の第一回発起人会で会設立が決し、2月22日の相談、3月3日の第二回の発起人会を経て、3月16日の委員会で4月1日の発会と日比谷公会堂での諸流流祖祭および奉納形大会の催行が決定、昭和10年4月1日に予定通り日本古武道振興会が発会しました。

三、千葉県及び佐倉市による指定無形文化財での名称流儀名は「立身流」です。

前出拙稿「日本伝統武道に於る形と型~立身流を例として」を参照して下さい。

第五、例外

一、日本武道の中でも、空手などの沖縄武術(琉球武術)は独自の発展を遂げており、本来流名はありません。
「空手道一路」(松濤 船越義珍著 昭和31年10月1日産業経済新聞社発行)61頁には次のようにあります。
「…空手には、改まった流儀というようなものはあるべき筈がない。…この際は全てを「空手道」と呼称した方が、将来の発展のために適切…。よく私達の同門のことを、「松濤館流」などという文字を使って呼んでいるのを聞くが、…私としてはどうも頷けないのである。」

二、日本武道の傳書古文書に「〇〇流兵法」というような形式の表題がつけられたものが存在します。その呼称の意義についてはそれぞれの流派内の研究によるものでしょう。

第六、1930年(昭和5年)当時の流名表記

ここに1930年(昭和5年)11月3日及び4日にかけて行われた「明治神宮鎮座10年祭奉納武道形大会順序」の写しがあるので掲載します。
ここでの記載は、演武順序、武道名、流派名、演武者氏名、府縣名ですが、流派名は例外なくすべて〇〇流の形式です。
立身流は勿論「立身流」です。
義珍先生に関しては、第一會場第一日之部で演武順序が「17」、武道名が「唐手術」、流派名が「昭霊流少林流」、演武者氏名が「富名越義珍」、府縣名が「東京府」となっています。
なお、第一會場第二日之部の演武順序「17」で武道名が同じ「唐手術」となっている演武者氏名「新里仁安」の府縣名は「沖繩縣」ですが、流派名は空欄となっています。また、演武順序「36」小西康裕先生の武道名は「唐手拳法」とされており、流派名はやはり空欄となっています。

第七、提言

戦後の古武道の復旧回復成長期に、一般向けの説明広報を意識し、わかりやすく流儀名と演武内容を一体表記した流名呼称を画一的に使用したことはそれなりに意義あるものでした。
しかし、古流流儀名はその内容技とともにその古流流儀の存立自体を意味する重要なものです。その流名自体が歴史的文化的意義を持ちます。現代になって変えるべきものではなく、本来的に変えてはならないものです。
今は既に流名とその実技内容との対応関係はある程度浸透したものと感じられます。インタ―ネットが普及しその確認作業も簡単にできます。
今後は歴史的に真正な名称に回帰すべきです。たかだかこの40年来の間に、○○流△△術というような呼称が正しいと古武道関係者の間にさえ認識されるようになってきました。このような誤解が定着することは避けなければならないと考えます。少なくも明治時代初期の呼称に戻すべきです。
そもそも○○流は〇〇流であって〇〇△△術流ではないのですから用語上も当然でしょう。
必要ならばその都度、その演武会での演武の種目内容を流名とは別に示せばいいのです。
ただここで一つ注意すべきは、ある流儀の歴史的名称は必ずしも単一ではなく、時代により、或いは人により、様々に変化している場合があることです。
現代でも変化させざるを得ない場合があるでしょう。

以上

立身流古文書に於る 不合理的表現の合理性

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和元年(2019年)7月1日
[令和元年7月11日掲載/令和2年12月27日改訂(禁転載)]

第一、はじめに

 立身流は1500年代の初頭、永正年間に創始された古い流派です。その傳書や古文書、歴代の研究などは、それぞれの時代の感覚や常識を背景に、その時々の先端知識を反映させています。 そして、その時々の研究成果の表現方法は、それぞれの時代のいわゆる時代的制約の下にあります。
 そのため、現代人が一読しただけでは、現代知識や現代感覚上ありえないだろうと即断しかねない記述もあります。
 しかし、その即断は現代人の浅はかな思いつきです。
 古人はあらゆることを合理的に考え、実践し、体系づけています。とくに勝敗という明快な結果をきたす武術武道においては、その利合(理合)を徹底的に追究せざるをえません。その追究方法はその時代時代の下での合理的知識感覚手法によります。
 例えば理数関係を見ても、立身流三四五曲尺之巻の解釈理解にピタゴラスの定理が応用されてその図が示されていたり、距離測定に数学の相似形が利用されたり、松明や火薬の原料、薬の化学的調合法が事細かに記されていたりしています。
 武道武術に、たまたまの勝ということがあっても摩訶不思議で理解不能な勝というものはありません。「曰く言い難し」というような技はありません。摩訶不思議にみえる勝があっても、それは心法を含めた意味での技(業)によるものであり、正確な技の錬度の違いによるものです。その技(業)は、つきつめれば単純なものですが、それは鍛錬しなければわからず、見えず、できません。これが武術武道の技(業)です。摩訶不思議で人が理解できない技(業)というものはありません。
 立身流に於て「理」は「利」であり、「理合」と「利合」は漢字でのニュアンスの違いはありますが意味は同一です。 現実的合理的に利合(理合)をつきつめた結果の合理的な内容を説明するとき、古人はその表現方法を時代的制約の下に置かざるをえず、一見不合理にみえるだけです。 我々は、武道関係の古文書等で、一見あり得ないような表現、一見矛盾するような表現に遭遇した場合には、その表現で何が意味されようとしているのかを慎重に探らなければなりません。単なる迷信と簡単に片付けてしまってはいけません。 他方、無理に理屈をつけ、未熟で浅はかな現代的思いつきをこねくり回して仕立て上げた「理論」をとうとうと述べる方がいらっしゃいますが、それも論外です。
  以下では立身流関係文書で一見不合理とみえる表現の具体例をいくつかみてみます。
 なお、私の論考自体、時代的制約のもとにあるものです。

世磐広し折によりても替るへし 我知る計りよしと思ふな [立身流理談之巻]

第二、立身流傳書や古文書での具体例

1、「夢の裡に体得」
 立身流の古文書や関係傳書によると、流祖立身三京は必勝の事理を求めて濃州妻山大明神に祈念して37日目の暁、夢の裡に分明し向圓の秘術を得た、とされます。後に第7代宗家大石千助も同様に参籠修行しています。 流祖の前に妻山大明神そのものが現れたわけではありませんが、いわゆる神傳流儀のひとつです。
 これを「こんなことはありえない」と切捨ててしまう人がますが、それは誤りです。仮に、妻山大明神そのものが現れた記述があったとしても誤りではありません。 これは現実そのものを意味します。自らを精神的心理的身体的に長期間に亘りぎりぎりまで追いつめて術理を求めた結果、幻覚をも含めた現実の瞑想状態下で、精神的心理的身体的に開眼したのです。 心法も技法も、疲れ果てた状態下で更に求め続けなければ本物は得られません(拙稿「立身流に於る「…圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理…」」参照)が、その結果の、神の啓示の形をとった一種の宗教体験とも言えるかもしれません。 立身流第18代宗家半澤成恒先生の立身流への絶対的態度や信頼の思いは信仰そのものでした。

2、立身流立合目録之巻の「陰 五个 有口伝」(拙稿「立身流傳書と允許」参照)の中から挙げてみます。拙稿「立身流に於る精神統一法」で既に触れたものもあります。

(1)その第一項は「小用」あるいは「小スイ」といわれるものです。 これは体験的にも多くの人に理解しやすいでしょう。 その内容は拙稿「立身流に於る精神統一法」「立身流立合目録之巻陰五个口傳より(その1)」に記しました。「山坂登リ下リノトキ」を一例とするので「山坂」とも称されます。

(2)その第二項に「サムケ」というものがあります。
 「陰五个口伝之分」(逸見柳芳書「立身流刀術極意集」)によると、これは 「敵人我ヲ討タント道筋伏勢有之時ハ裾ヨリサムケ立狐狸之為ニサムケ立ル 類ハエリモトヨリ立也若主用ニテ不得止事時ハ其心得ニテ通ル事私用ニテハ 通ル不可也可心得(てきびと われをうたんと みちすじ ふせぜい これ あるときは すそより さむけだつ。こりのために さむけたつる たぐい は えりもとより たつなり。もし しゅようにて やむことをえざるときは そのこころえにて とおること。しようにては とおるべからざるなり。こころうべし。)となっています。
 これを「狐狸」の語が使われているからと言って、即「迷言」などと言っ てはいけません。着物の裾から寒気立ってくるのは、我が五感で身を低くし ている伏勢の気配を感ずるのだから実害がある。しかし、襟元からぞくぞく するのは狐狸の所為、すなわち気のせいで実害はないから放っておけばよい、 ということなのです。
 頭上からの攻撃の可能性がある場合については、拙稿「立身流に於る下緒 の取扱」に記した「立身流立合目録之巻 外 門戸出入之事」の項を参照し て下さい。

(3)その第四項は「アワ」といわれます。
 「…小便アワ立様アワ無之時凶也アワ多クトモ凶我影移逆ナレハ凶也(…しょうべん あわだちよう あわ これなきときは きょうなり。あわ おおくともきょうなるは わがかげ うつる さかさなれば きょうなり)」(立身流刀術極意集)
 私のような田舎育ちの者には当たり前のことですが、屋外の堅い普通の土への小便は泡立ちます。すなわち、これは当たり前のことを言っています。「泡がたった、だから大丈夫だよ」と心を落着かせているのです。
 さらに念を入れて「太陽光で地面にうつる自分の影が逆さに見えるようでは、逆上して正気を失っているから、うまくいく筈がありませんよ。落着きなさい。」というのです。自分の影が逆さに見えるなどということは通常ありません。ですからこれも、「だから、安全無事ですよ」と気持を安心安定させているのです。

3、立身流居合目録之巻の「陰 五个 有口伝」の中から挙げます。
(1)その第二項は「呼吸」といわれるものです。拙稿「立身流に於る精神統一法」に説明しました。 そこに揚げた文章の前の部分は、「刀術極意集」によれば次のとおりです。
 「戦場平日共気付用心無之時戦ツカレ目マイ立クラミスル時刀ヲ杖ニツキ腰ヲ掛(せんじょう へいじつ とも、 きつけ(薬)のようじん これなきとき、たたかいつかれ めまいたちくらみするとき、かたなをつえにつき こしをかけ、)」となっています。その後に、「「目ヲトチ(閉じ)ホウ(頬)ヲナデナガラ呼吸ヲ一ツツヽカゾヘル也。自然ト心気治也(シンキヲサマルナリ)」と続きます。

(2)その第四は「錫杖(しゃくじょう)」といわれます。
 逸見忠蔵筆「立身流之秘」によると、「深山奥山…錫杖ヲツカイ入ルへシ…(みやま おくやま …しゃくじょう を つかい いるべし…)」となっています。
 錫杖から出る音で人間の存在を知らせ、猛獣や毒蛇を寄せつけないわけです。ひいては「ノフスマト云者有是ハコフモリノ大キナル有ノ如シ…(のぶすま と いうものあり。これは こうもり の おおきなる あるのごとし)」の「のぶすま」(立身流秘傳之書)や、さらには「変化(へんげ)」(立身流之秘)を寄せ付けずに獣害などを避けることができます。
 それでも害獣に襲われた場合は、その害獣の「面目鼻ノ間ニツキ息ヲ留ル(面や目と鼻のあいだを錫杖で突いて息の根をとめる)」わけです。
 錫杖から出る音が悪霊を追払う力があるとされるのは、このような意味あいでしょう。

(3)その第五は「息」といわれます。
 「門出スル時息キヲカク事其ノ息キ鼻之内ニ入レハアシ」(立身流之秘)
 寒い朝など吐息が白くなります。立身流第9代宗家竹河九兵衛から第18代宗家半澤成恒の明治まで、永きにわたり立身流と縁の深かった山形(拙稿「千葉の立身流」参照)の冬には殊更でしょう。
 家を出る時、白い吐息が鼻の内に逆流するときは、良いことがない、というのです。
 空気には流れがありますから通常このようなことはありえず、だから「平穏で大丈夫ですよ」と気持を安定させ、安心させているのです。

4、このようにみてきますと、立身流立合目録之巻と居合目録之巻の2巻で口伝とされるうちの上記した部分は、どれも気の動顚を防ぎ、心を安定させ、平常心を保つための記載です。武道武術にとって心・気持の制御がいかに大切か、目録の段階から示され、先ずは簡単なその方法が示されているのです。
 そしてこれらが、「立身流に於る「心の術」」「立身流に於る精神統一法」(いずれも拙稿)に連なっていくことになります。

第三、東北弁表記の影響

 立身流は山形と縁が深く、そのため東北弁表記、例えば「イ」と「エ」の混同による誤解や誤記が文書等にみられることがあります。
 これについては、別稿「立身流古文書等での東北弁表記」に記します。

以上

2019年7月11日 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部

千葉の立身流

立身流第22代宗家 加藤 紘
初出 一般財団法人千葉県剣道連盟
居合道部設立40周年記念誌「サムライたちの居合道」
平成30年4月発行
[平成30年6月23日掲載/平成30年7月9日改訂(禁転載)]

千葉県剣道連盟居合道部の設立前後、私は父の高の運転手役として、千葉市稲毛の志道(しぢ)吉次先生宅へ何度か伺った。
その志道先生のお誘いもあり、無段無級だった私は、受審の上での特認可能な最高段位の3段を昭和51年(1976年)3月30日付で授与された。審査での演武内容は古流、すなわち立身流の形だけであった。その後の昇段のない私にとって、この3段は非常に大切なものである。

立身流は千葉の流派といわれる。
確かに、戦前戦後を通じ、千葉県内に根を下ろした流派としては立身流が主であったと思われる。
その故もあってか、居合道部設立前から四街道の福永優先生他の流派の異なる方々が定期的に父の許を訪れ、居合道研究会を催していた。
大正2年(1913年)7月25日生まれの父は、昭和12年(1937年)5月の京都大会(武徳祭)で居合術錬士を許された。当時は居合道の名称ではなく、又居合術に段位はなかった。父は昭和20年(1945年)3月12日に達士(当時教士の称号が変更されていた)となり、そのまま段位を取得することなく、後、居合道無段範士となった。
この昭和12年武徳祭での居合術演武者は、範士が無想神傳流を称された中山博道先生お一人、教士が23名で千葉県からは私の祖父の立身流 加藤久のみ。錬士が76名で千葉県からは久の弟子である成田の立身流 加勢胖(かせゆたか)のみ。無称号者は132名中千葉県からは3名で、その一人がこの大会で錬士となる父であった。他の2名の先生方は、大森流の瓜生勘之丞先生と長谷川流の鈴木喜代司先生である。

立身流は佐倉藩で教授された刀術(居合と剣術)を含む総合武術である。他に俰(やわら)、鎗(やり)、長刀(なぎなた)、棒、半棒、四寸鉄刀(しゅりけん)などがあり、歴代允許され続けた傳書15巻の外、多数の古文書類等が相伝されている。
立身流が佐倉(現在の千葉市の相当部分は佐倉藩領であった)に根付いたのは1749年に第12代宗家の逸見宗八が佐倉藩主 堀田正亮に召抱えられてからである。実はその前1714年に第10代宗家 糟谷団九郎が当時山形藩主であった堀田正虎に出仕したが致仕(ちし)している。

立身流は山形と縁が深い。第11代宗家 逸見柳芳は「出羽ノ人」と明記されている。
立身流と堀田藩とは、堀田正俊が群馬県安中城主となった1667年ころ第8代宗家 山口七郎左衛門との間で縁が生じた。第9代宗家の竹河九兵衛は、1700年に安中から山形に転封された前記 堀田正虎と行動を共にしたとされる。
山形には明治まで佐倉藩の分領があり、山形市内に柏倉陣屋がおかれ、陣屋には刀術所が設置されていた。その稽古場で立身流が修業されていた。
立身流創流後の出生の林崎甚助に発祥する流れも同様に山形と縁が深い。この二つの流れは山形において交流があった様である。
立身流の道歌数は二百首を超えるが、その中に十数首程、林崎甚助系の流儀の道歌と表現の似る歌が散見される。

山形は立身流の分流の発生にも関係がある。
立身流の分流は、立身新流の福澤諭吉で有名な奥平家の中津藩、松平家の忍(おし)藩、酒井家の出羽松山藩その他に伝わったが、いずれも山形に領地を有したことのある藩である。それらの藩から他藩へ更に分流が派生している。中津藩とは、立身流第8代宗家 山口七郎左衛門も居住した群馬県での関係もあるようである。
立身流は永正年間(1504年~1521年)の、一説には1517年(他に、1509年、1515年、1518年とも伝承される)の創流と伝えられる。とすると本年で丁度500年である。
古文書によると、流祖 立身三京は濃州(岐阜県) 妻山大明神(つまやまだいみょうじん)に祈念して37日目の暁、夢の裡に分明を得た。後、第7代宗家 大石千助も流祖にならいここに参籠した。

立身三京は伊豫(愛媛県)出身であって、同じ出身の稲葉一鐡の別名だとの説があるが、年代的に比定すると三京は更に昔の人である。
ここに昭和5年(1930年)5月5日 大日本雄辯会講談社発行の「昭和天覧試合附録 武道寶鑑」がある。その巻頭に「日本武道家分布図」として日本地図が示されている。そこには、四国に青字で「立身三京(立身流)」と記されている。「青文字ハ柔道家」である。「仙臺」付近には赤字(剣道家)で「林崎甚助重信(抜刀流)」との記載があるが、長谷川英信などの名は見当たらない。ちなみに地図の裏面の傳系図には田宮流が示されている。

千葉の立身流は、山形の立身流であり、群馬の立身流であり、岐阜の立身流であり、そして四国愛媛の立身流でもあった。

平成29年10月筆

2018年6月23日 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部

立身流之形第二巻発刊によせて

立身流第22代宗家 加藤 紘
[平成30年4月14日掲載]

この程、立身流之形第二巻を発刊することができました。
平成9年(1997年)に父の高(たかし)と共著で上辞した立身流之形第一巻と併せると、立身流の枢要部分の風景を垣間見ることができます。
そこで、上記各巻の序文、あとがき及び目次の項目、並びに第三巻以降に予定される目次の項目を記し、立身流の全体像を漠然とですが示してみます。

第一、立身流之形第一巻(既刊)

1、序文       加藤 高

立身流の修練では、刀法の徹底鍛錬により体得した術理が、一にして二ならず、そのまま直ちに他のあらゆる武器に活用される。特に死生の間に対処する無我の境地、所謂「閑なる心の強み」は、至大至剛至玄至妙なる各種武術の精髄であって、共通一貫した心法であり、奥義としての必勝の原理である。立身流が「動く禅」と称される所以である。尚、この心法は単に勝負の時にのみに限らず、処世万般に廣く有益に活用して、世の為、人の為に大いに貢献すべき事が強調されている。
立身流の形の一大特徴をなすものに、単純樸質性がある。即ち、時代が進むにつれて次第に複雑多様化して来る様々な要素形態を濃縮圧縮し、雑多を純一にして凝集させたもので、決してただの単純化ではない。従って、単純樸質のうちに複雑絢爛にして深奥な内容が感受されるのである。
立身流全般の玄妙な術理の解説は、筆舌に及び難く極めて至難であるが、此のたびは有志の強い要望にほだされて、あえて成文化した次第である。素より不備な箇所が多々あるが、何分御諒承下さい。

2、目次

第一部 立身流概説
 総合武術としての立身流
 立身流の歴代宗家
 警視庁における立身流
 立身流傳系図
第二部 立身流之形(Ⅰ)
(一)居合
 立合表(たちあいおもて)(序)
 立合表(破)
 立合表(急)
 居組表(いぐみおもて)(序)
 居組表(破)
 居組表(急)
(二)剣術
 表(序)
 表(破)
 表(急)
 (注)本書では、剣術表之形の破および急の記載において、7本目の提刀(ていとう)向(むこう)および8本目の提刀圓(まるい)の、いずれも居合対居合である2本の形が欠落している。
 陰(小太刀)
 五合之形(ごごうのかた)
 五合之形詰合(ごごうのかたつめあい)
(三)鎗術(そうじゅつ)
 鎗合(やりあわせ)
 太刀合(たちあわせ)(鎗勝身(やりかちみ))
 太刀合(太刀勝身)
 小太刀合(こだちあわせ)
(四)棒
(五)半棒(はんぼう)
(六)長刀(なぎなた)

3、あとがき     加藤 紘

立身流の各種形につきましては、従来、一部分毎のまとめやビデオ化がなされて参りました。
我々としましては、稽古の指針となるまとまった解説書の必要性を痛感していたのですが、この程、千葉県教育委員会及び佐倉市教育委員会の補助金を受け、立身流演武大会の開催及び、形の説明を中心とする概説書の第一部を発表する機会を得ました。厚く御礼申し上げます。
本書には、流祖以来二一代の正系と無数の門流の人々の、命をかけた研究実践の成果中、ほんの一部が示されているにすぎません。
また、古流武術の形の文章表現には多くの困難が伴い、成文化自体が誤解を生ぜしめる一因をなす面があります。
動作の面に限ってみても、これを文章化する難しさばかりでなく、一つの形が千変万化の動きを内包する為、どれを基本としどれを応用とするか、どのような想定下のものをとりあげるか、などの問題が加わります。
例えば、間合という重要な曲尺(かね)に従う結果、具体的状況に応じて異なった動きが要求されます。その間合も、各人の体格や身体的特徴、その時々の武具等によって異なります。間合のあり方そのものも、修行の進むに従って異なってきます。
ある場合にはそれがよくても、他の場合にはもっとよい動きがあり、あるいは、そういう動きをしてはいけないということもあります。
しかも、立身流の形は、教育体系の一環をなしています。基本を教える場合の動き、教えを受ける側の動き、実戦を想定した動き、応用の動きなど、これらを対比すると一見しただけでは矛盾するように見える場合があります。
与えられた時日が限られていた故もあり、本書がこのような困難を克服したものとはとても言い切れません。
更に、修行の第一の目標は、すべての場合に通ずる原理原則を体得し、行動できる(曲尺合(かねあい))ようにすることにあると言えますが、これはあくまでも実地の稽古鍛錬によらなければ得られないことが銘記されねばなりません。
続巻では、他の形や基本鍛錬の方法等についても触れる予定です。
本書は、大木邦明氏をはじめとする流門の鈴木富雄、齊藤勝、山田市郎、樫村典久、藤崎吉範、菅家啓一、キーリー・リアム、江尻裕介、図司行克、金丸拓也の各氏、津田亘彦氏の調査研究協力の集大成といえるものであり、特に編集を担当した山田市郎氏の力に与ること大であったことを付記させていただきます。

平成九年八月

第二、立身流之形第二巻(新刊)

1、序文        加藤 紘

立身流之形第一巻を平成九年十二月十四日に発刊(平成二十一年十月十一日復刻)し二十年が経ちました。
第一巻での序は亡父・加藤高の文でしたが、この第二巻は立身流第二十二代宗家を継いだ私が記すことになりました。
この間、第一巻の内容や表現を更に的確にする改訂版制作を強く要望されてきました。しかし、この度、それ以上に喫緊である俰(やわら)その他の武技の要訣を成文化する機会を得たものです。第一巻に比して写真を多用しました。
形の意味内容を理解するには傳書の記載の理解が不可欠です。
幸い私は傳書の内容を見据えた「宗家論考」を書き溜め、立身流ホームページ上で公表してきました。
「宗家論考」には、父・高の文章、祖父・久の文章も掲載しました。
本書には第一部の形の解説に併せ、第二部としてこの「宗家論考」を収載いたしました。
このような構成で立身流の実相が流門以外の方々にも理解されるよう企図した次第です。

立身流の文化的側面に興味をお持ちの方々には本書の第二部からお読みいただければと存じます。

2、目次

第一部 立身流之形(Ⅱ)
(一)居合
 立合陰(初伝(しょでん))
 立合陰(本伝(ほんでん))
 立合陰(別伝(べつでん))
 居組陰(初伝)
 居組陰(本伝)
 居組陰(別伝)

(二)剣術
 二刀之形(にとうのかた)
 二刀詰(にとうづめ)

(三)俰(やわら)
 第一 俰の体系
 第二 俰の原則
 第三 受身
 第四 締(しめ)(絞を含む)
 第五 解(ほどき)
 第六 連行法
 第七 俰の形
  居組六个(か)条
   第一条  右位(うい)
   第二条  首位(しゅい)
   第三条  胸位(きょうい)
   第四条  寄壁(よりかべ)
   第五条  自故(じこ)
   第六条  額倒(かくとう)
  立合六个条
   第七条  靱付(うつぼづけ)
   第八条  引捨(ひきすて)
   第九条  片羽返(かたはがえし)
   第十条  後倒(うしろだおし)
   第十一条  髪旡(はっき)
   第十二条  髪ゆう(はつゆう,ゆうはロ編に尤)
  陰(かげ) 中(あて) 八个(はっか)
  立合外(そと)十七个条
   第十三条  小尻返(こじりがえし)之事(のこと)
   第十四条  電返(いなずまがえし)之事
   第十五条  折止(おりどめ)之事
   第十六条  袖詰(そでづめ)之事
   第十七条  大小詰(だいしょうづめ)之事
   第十八条  無妙(むみょう)之事
   第十九条  後詰(うしろづめ)之事
   第二十条  大杉倒(おおすぎだおし)之事
   第二十一条 小手折(こており)之事
   第二十二条 七里引(しちりびき)之事
   第二十三条 晒(さらし)之事
   第二十四条 左添(ひだりぞえ)之事
   第二十五条 上帯附(うわおびづけ)之事
   第二十六条 小具足(こぐそく)之事
   第二十七条 風呂詰(ふろづめ)之事
   第二十八条 挟詰(はさみづめ)之事
   第二十九条 佛倒(ほとけだおし)之事
  組合十六个条
   第三十条  四移(よつうつし)之事
   第三十一条 眩髪(くらがみ)之事
   第三十二条 八勝(はっしょう)之事
   第三十三条 射足(いあし)之事
   第三十四条 取返(とりかえし)之事
   第三十五条 横身(よこみ)之事
   第三十六条 手續(てつづき)之事
   第三十七条 形清(かたすまし)之事
   第三十八条 三形詰(みかたづめ)之事
   第三十九条 居鋪(おりしき)之事
   第四十条  身流(みながれ)之事
   第四十一条 乱合(みだれあい)之事
  (参考)短刀突様之事
   第四十二条 エラ取(どり)之事
   第四十三条 身構(みがまえ)之事
   第四十四条 鎧詰(よろいづめ)之事
   第四十五条 為状所被詰(ふしたるところつめらるる)事
  口伝 勝身(かちみ)之事
 第八 活法(かつぽう)

(四)傳技(でんぎ)(抜粋)
 妙剣(みょうけん)
 短刀 右
 短刀 左
 一圓相(いちえんそう) 右
 一圓相 左
 斬切(ざんせつ)
 合車(がっしゃ)
 一心圓光剣(いっしんえんこうけん)
 月之太刀
 日之太刀

第二部 宗家論考(第一輯(しゅう))
立身流之形第二部発刊時までに立身流ホームページに宗家論考として発表した三十編を、整理して載せたものである。

3、あとがき     加藤 紘

序文に述べたとおり、形の理解には傳書研究が不可欠です。逆に傳書の記載内容の理解には形の習得が不可欠であるのも立身流入堂訓に示されるとおりです。
すなわち、傳書の階梯と形の質及び数等の階梯は一致しなければなりません。
例えば、一心圓光剣は免之巻を傳授された者がさらに修行すべき課題として与えられ許された形であって、免之巻を授与されていない者が稽古すべき形ではありません。無資格者の稽古や演武は有害でしかありません。
他方、全くの初心者の段階で初めて指導される桁打(けたうち)、旋打(まわしうち)が向(むこう)圓(まるい)の形(かた)となり、極意之巻の月之太刀、日之太刀となります。
流門は「修業ノ道程ハ無限」(立身流入堂訓)の言葉を折ある毎に「心にあてて尋ね」(立身流道歌)てみてください。
形を離れても五百年の思索を重ねた立身流の歴史的、芸術的、科学的、文化的な価値は揺るぎません。
本書がそのような意味で多くの方々の立身流への理解を得る一助となればと願っています。
本書での演武写真には、立身流上傳 山﨑恒弥氏、流門 関根秀人氏の協力を得ました。息子の加藤敦 次期宗家には演武写真の外、多くの助言を得ました。
立身流皆伝 山田市郎師範には、第一巻に続き本書においても、内容、構成、表現、編集、企画、装丁、製本のすべてに渡り多大な尽力を得ました。山田師範なくして本書の完成は不可能でした。
また、立身流奥傳 八角敏正氏の平成十五年度国際武道大学大学院修士論文「下総佐倉藩校の武術―刀術 立身流を中心として―」に負う部分があることを付記させていただきます。
本書は「公益信託佐倉街づくり文化振興臼井基金」の多額の助成金の下、刊行することができました。厚く御礼申し上げます。

平成三十年一月

第三、立身流之形第三巻以下(未完)

予定内容

一、提刀(ていとう)
  形試合(かたしあい)
  組居合(くみいあい)
  四寸鉄刀(しゅりけん) 萬力(まんりき)四ツツメ ハヤバラシ
  外(と)のもの
  口傳(くでん)之分
二、数抜(かずぬき)
  着具之次第(ちゃくぐのしだい)
  騎士勝負
  首見参(くびけんざん)
  様(ためし)
三、用具(斬柄(きりづか) 斬台(きりだい) 振棒(ふりぼう) 袋竹刀(ふくろじない) など)
四、傳技(でんぎ)(勢眼詰(せいがんづめ) など)
五、傳書
  古文書(こもんじょ)
六、その他

以上

2018年4月14日 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部

立身流傳書と允許

立身流第22代宗家 加藤 紘
[平成29年4月29日掲載]

第一、傳書の公開

一、問題の所在
本稿は立身流傳書十五巻およびその允許(いんきょ)に関するものである。
その傳書は過去の遺産遺物ではない。
500年の昔から受け継がれ、現に修業され行われている立身流での、伝承通りに私が允許され、伝承通りに私が允許している傳書類である。
従って、傳書の取扱、特に記載や内容を本稿のような場で公開するについても、本来ならば、伝承された通りに取り扱うべきことになる。

二、本来の取扱
後記第三、三、「傳書允許の階梯(かいてい)」に説明するとおり、傳書は、立身流の修行が進み、その内容を知る能力資格を宗家より認められた者のみに授けられる。従って、原則、内容については他に教えてはならず、記載については他見無用である。いわんや公表など許されるものでない。
立身流俰目録之巻に後記するとおり、目録でさえそのような扱いであった。
しかしながら、例えば流儀間の交流研究など、「みだりに」(立身流俰目録之巻。後述)といえない場合としての例外もあった。

三、現時点での公表の弊害
私の知る終戦後の例に則してみると、次の二つが主であろう。
(1)傳書の記載について、立身流の実技実態に基づかない誤った解釈やその流布。一例を註2第一に記述した。
(2)立身流傳書の記載の転用や模倣による悪用。はなはだしい場合は流名を僭称されかねない事態もあった。

四、現今の取扱
このような弊害を避けるには、傳系の記載を含め、最新の、現に生きている傳書、すなわち私が允許され、私(又は父)が允許した傳書自体の公開をしないことから始めるのが有効と思われる。伝承通りということである。
そこで立身流では現在でも「傳書他見無用」が傳書を授与される者の心得の一である。
但し、展示その他などで、宗家が許す場合は別論である。ただ、公開される場合も、原則、目録までである。
昭和53年2月19日に日本武道館で開催された第1回全日本古武道演武大会の際は、日本武道館の要請により、目録を含む立身流の伝書類などがブースに展示された。

五、本稿での取扱
しかし、前記弊害が生ずる可能性が少ない状況でならば、ある面では傳書の公表は非常に有益である。
そこで私は先達にならい、宗家論考の記述等では傳書そのものの全体を表示することはせず、立身流傳書の内容を示したうえで、その根拠となる傳書や古文書の該当箇所の表示のみを引用する方法をとってきた。
本論考も同様である。

第二、傳書

一、傳書
立身流には歴代の研究書や下書、メモ、備忘録、先人が受領した傳書やこれへの書込など古文書(こもんじょ)が多いが、これらは私が允許された「傳書」ではない。私にとって一番大切なのは、流祖神妻山大明神(つまやまだいみょうじん)・流祖立身三京(たつみさんきょう)以下歴代名の後に先代から私宛の旨が記され、その名の全てが朱線で繋(つな)がれた(後述第二、二参照)うえ、師である先代から手渡しで授けられて允許された「傳書」十五巻である。それが傳授を示し、生きた伝承を示すものである。

二、相傳古文書、取得古文書
しかし、立身流傳書の記載が立身流の全てではなく、そこには歴史的に蓄積された最重要事項の要点の一部が示されているにすぎない。代々受け継がれてきた他の古文書類に各種形をはじめ立身流の内容(註1参照)や研究成果の欠くべからざる記載が多く、それらが貴重であることは傳書と変わらない。傳書の記載の理解にも不可欠である。これに口傳(くでん)が加わってはじめて理解が可能となる。口伝を記載した口伝書もある(註2参照)。
また、伝承されたものでなく他から得た史料(分流派のそれを含む)も参考資料として重要である。

第三、傳書允許の課程と傳書の内容形式

一、傳書と形(かた)
傳書允許前に、既に各種形のほとんどの修業がなされつつあり、相当程度に達した者だけが目録以降の傳書を允許される。刀術関係でみると最初の数年の桁打旋打廻打の稽古を当然経ていて、五合之形(ごごうのかた)までも一応は履修済である。
傳書には形の意味本質を示す記載はあっても形名や形の内容の記載は少ない。他方、傳書各巻に説かれる内容を体現する形が允許時に伝授される場合がある。
既に履修した内容の一部が示されている場合があるという点では傳書は各段階の終了証書でもあり、以後の修業の方向を示すものでもある。

二、傳書の内容と形状
立身流の傳書十五巻は単なる修了証書や資格授与証でなく、長文の内容が含まれている。印可状などに現今よく見受られる「多年の刻苦精進を尽くしたから、ここに免許を授ける」というような意味の短文を簡単に記すだけのものではない。
また、立身流の十五巻の巻物は、すべて、先代から次の代へ、新たに作成(允許者自身が受領した傳書に允許者名と花押(かおう)・押印・日付・允許される者の名などを付加して記す場合、或いはそれらを授ける旨の証書を作成する場合を含む)した傳書が与えられる。巻末には妻山大明神と初代以降22代の私までの歴代名がすべて記され、そこには朱墨(しゅぼく)による朱線で歴代伝授の過程が示される(前述第一、一参照)。朱線の引かれていない傳書は未完成の傳書である(註3参照)。
従って、その形状も、紙片いわゆる切紙(きりがみ)ではない。長い巻物である。軸(じく)には水晶や象牙の使われたものも多い。他の古文書と異なり、綴本(とじほん)や折本(おりほん)の形をとらない。
私が目録などを受領する際、父が受けた巻物と同じ紙を求めたが、その生産地はダムで水没したとのことで、既に入手不可能となっていた。

三、傳書允許の階梯(かいてい)
傳書允許は允許を受ける者の程度状況に応じ、同一人に対しては、永年の修業期間の間に、全十五巻を2回ないし5回に分けて与えられるのが旧藩時代からの例であった。階梯に拘らずに、一巻ごとにそのものに最適な巻をその都度与える場合もある。
一の軸に二巻以上の内容が記される合巻(ごうかん)の形をとる場合もある。その際も傳系の記載をも複数回するなど、内容の省略をすることは一切ない。
全巻を授けられて立身流の皆済(かいさい)(皆伝を意味する)となる。
かつての修業の密度の濃さは今と比較にならない。
幕末には佐倉藩の「一術免許ノ制」(註4参照)の関係上、門人藩士に公の資格を与えるため、早い段階で目録のみを允許することも多くなったと伝えられている。
他方、明治になり、目録を多数のものに与えた半澤成恒(はんざわ なりつね)先生は、その多くを破門することにもなった。
立身流傳書允許之儀は立身流の重要行事の一として今も執り行われている。現在は五段受領(入門より最短10年)者の修業の進んだ者から目録を与える。最初の目録の受領は早くて入門15年後位となろうか。

第四、立身流傳書十五巻の名称と内容

以下に各傳書の名称と記載事項の主項目や要約、および傳書には記載されないが傳書を与えられる際に同時に伝授される事項等につきふれる。

一、目録(もくろく) 五巻 主に技や心法の基本(すなわち極意である)につき述べている。

(1)立身流序之巻(たつみりゅうじょのまき)
武道修行者の心構や各種武術、剣の効用を論じ、立身流の優越性を説き記す。
立身流序之巻は立身流立合目録之巻との合巻(この合巻のみ傳系の記載は1回)とされるのが通常であった。

(2)立身流立合目録之巻(たつみりゅうたちあいもくろくのまき)
主に剣術を例とし、剣術につき表(おもて)の技の五个(か)、陰(かげ)五个、外(そと)二十五个併せて参拾五个條を中心に、道歌(どうか・みちうた)二十五首その他を記す。別傳之分として口傳がある。
形試合(かたしあい・形に則った試合。提刀(ていとう・納刀した刀を鞘ごと使う)を含む)十五本などを許される。

(3)立身流居合目録之巻(たつみりゅういあいもくろくのまき)
主に居合を例とし、技、心法、陰五个、外十三个、道歌二十三首その他を記す。
別傳之分として口傳があり、その中に杖(じょう・「半棒」と記される場合が多い)が含まれる。
形試合(提刀を含む)その他併せて二十二个条などを許される。
「居合」は「抜刀」と記される場合がある。

(4)立身流俰目録之巻(たつみりゅうやわらもくろくのまき)
主に俰を例とし、俰の居組(いぐみ)立合(たちあい)組合(くみあい)併せて四十五个條に、陰、及び口伝の二个條を加えて技につき記したうえ、「縦雖親子兄弟乱不可教之(たとい おやこきょうだいといえども みだりに これをおしうるべからず)」とする。更に「此術之心持」(このじゅつのこころもち)などにつきふれる。
允許時に「俰目録陰五个(か)口伝之分」を許される。四寸鉄刀(よんすんてっとう、しゅりけん)はその一である(但し、四寸鉄刀を用いた稽古は、第二十六條小具足之事などで既になされている)。
立身流俰目録之巻を允許されて初めて、活の入れ方が秘密裏に伝授される。他見を避け、濫用を許さない為といわれる。
「俰(やわら)」は、傳書外では「柔」「柔術」とも記される。

(5)立身流九字十字之巻(たつみりゅうくじじゅうじのまき)(「兵法九字之大事(へいほうくじのたいじ)」と記す巻物もある)
真言密教(しんごんみっきょう)系の九字十字につき記す。
未熟の段階での無益な闘争を諌めるなどのためか、免許(免之巻允許)の前に与えられる例もあったと伝えられる。現在の傳書允許においてはその例に従っている。

二、上傳(じょうでん) 四巻
次の奥傳(おうでん)と併せて秘伝免許とされる場合がある。
武道全般を対象として技法心法を考究する内容である。

(6)立身流直之巻(たつみりゅうちょくのまき)
十一條三十三段の記載に道歌二首、口傳が付加され、各目録の記載内容や口傳などを総括して記される。

(7)立身流變働之巻(たつみりゅうへんどうのまき)
立身流秘伝の業(わざ)を中心に変働無常(へんどう むじょう・へんどうして つねなし)因敵転化(いんてき てんげ・てきにより てんげす)を説き、各種武器武術やその協働、技の変化を記す。
二刀その他にもふれて記す。

(8)立身流理談之巻(たつみりゅうりだんのまき)
「寛延己巳(1749年)暮春下旬序」(かんえん きみ ぼしゅんげじゅん じょす)と付記された漢文と、三十六歌仙になぞらえた三十六首の道歌により、立身流の秘術を全体的に評論して記す。
立身流第11代宗家逸見柳芳(へんみ りゅうほう)が加えた巻と伝えられる。

(9)立身流別傳之巻(たつみりゅうべつでんのまき)
鎗(鑓・槍とも記される)、長刀(なぎなた)、棒(半棒を含む)などの各種武術や変化応用進展を示す。
妙剣(みょうけん)、短刀、一圓相(いちえんそう。立身流曲尺之巻でもふれられる)などを記す。

三、奥傳(おうでん) 三巻
武道全般の心法を述べ、更にその礎である人間、生死、世界、宇宙を考察する。
前述のとおり、本来は目録段階である立身流九字十字之巻を、この段階として授与することがあり、現在も奥傳として授与している。

(10)立身流眼光利之巻(たつみりゅうがんこうりのまき)
「無極而太極(むきょくにしてたいきょく)・・・」など無のはたらきについて記す。
斬切(ざんせつ)、合車(がっしゃ)、水月(すいげつ)の秘太刀を許される。

(11)立身流誠心之巻(たつみりゅうせいしんのまき)
人間の天禀(てんびん)を四つに分けて説き、「根元之気(こんげんのき)」「其象圓(そのかたちはえん)」「清中清(せいちゅうせい)」「修学之功(しゅうがくのこう)」等につき記す。

(12)立身流三四五曲尺合之巻(たつみりゅうさんしごかねあいのまき)
立身流曲尺之巻(たつみりゅうかねのまき)とも記される。
三四五の数尺になぞらえて、天地人、身・体・太刀などの調和を説き記し、無意無心無固無我などにふれて「天理之本然(てんりのほんねん)」を考察する。
立身流第11代宗家逸見柳芳が加えた巻と伝えられる。

四、免許 一巻

(13)立身流免之巻(たつみりゅうめんのまき)
抜刀(ばっとう・いあい)を例として立身流全体につき「・・・不残相傳畢(のこらず あいつたえおわんぬ)・・・」と証し、「・・・立師以教之亦何有恥之乎(しにたち もってこれをおしうるも また なんぞ これをはじることあらんや)・・・」と記して人の師となることを許す。道歌五首および一心圓光剣を記す。
允許された者は、現代でいう師範として人の師となる資格を与えられることになる。

五、皆済(かいさい) 二巻
立身流免之巻の補巻であって、奥(おく・おう)秘伝免許である。
形式の上でも、この二巻の授与により皆伝となる。

(14)立身流俰極意之巻(たつみりゅうやわらごくいのまき)
無手無刀(むしゅむとう・てなく かたななし)、「手舞足蹈處皆一物(てのまい あしの ふむところ みな いちぶつ)・・・」(「手舞」は「手前」とも記される)、心目體用一致(しんもくたいよういっち)などについて説き、天地の勝にふれ、陰之俰(いんのやわら)、陽之俰(ようのやわら)を示し、道歌八首を記す。

(15)立身流極意之巻(たつみりゅうごくいのまき)
半月之事、満月之事など、また三光之勝として月之太刀(形としては向)、日之太刀(形としては圓)、星之太刀(形としては前斜)を示し、道歌六首を記す。
立身流第7代宗家大石千助より安倍彦四郎尉(あべ ひこしろうのじょう)あて寛文(かんぶん)十一年(1671年)辛亥(しんがい)三月十七日付の、美しく彩色された背景画に達筆で記された一巻が現存する。

第五、宗家、師範、允許者、受領者

一、立身流免之巻を受領して人の師となる資格を得、更に傳書を皆済されて皆伝となったからといって、宗家(旧藩時代は藩の刀術師範となった)を継ぐわけではないし、宗家から独立するわけでもない。
例えば、第16代宗家の逸見宗八が病により隠居し嫡男逸見忠蔵が家督を継いだ際、隠居願による藩命で、根本官七が門弟への「指南免許(ここでの免許は目録を意味する)」を行うこととなった。忠蔵は官七より目録を受けた後、更に官七の教えを受け続け、天保四年(1833年)三月一日に免之巻を、天保六年(1835年)二月十六日に皆済を、それぞれ父宗八から允許された形をとり、立身流第17代宗家となっている(佐倉藩「保受録」)。

二、各種目録を許されただけでは宗家ではないことは勿論、人の師となる能力も資格も認められていない。立身流免之巻の項に前述したとおり、人の師として立つことができるのは免之巻を許された者(現代の師範)のみである。
勿論、現代でも、上級者が後輩を指導する場合があるが、それは師匠としての指導ではない。
そして、「立身新流」や「立身当流」の流名をみても、「趣他郡(たぐんにおもむき)」(立身流免之巻)、特に独立を許された際には、分派である旨を示す流名を名乗るのが通常だったといえよう。

三、傳書を允許できるのは宗家のみである。但し前記のように、必要に迫られ、宗家の意思による藩命で、特に流儀の「世話取立」(保受録)を任された者がないわけではない。

四、このように立身流では権威ある統率者の下、その権威の承継という裏付により流儀の中枢の継承がなされてきた。
その状況は、幕藩体制下での専門家として、流儀武術教授およびその継承を図る場面では、他の流儀でも同様で通常の態様であったと思われる。
尾張柳生新陰流が藩主と流儀の当主とが交代で道統をつないだのはその好例であろう。
佐倉藩の棒・捕手の流派の一に竹内流があったが、教えや形の崩れを防ぐため、時に岡山の宗家のもとに指導を受けに行くことがあった、と伝えられている。


註1 立身流古文書での記載の例
一例をあげる。
立身流には、甲冑やその「着具之次第」(ちゃくぐのしだい)、出陣の心得、用意すべき用具や武具の選び方、平日との武技の相違や注意点、騎士勝負、歩立(かちだち)、「首取様之事」(くびとりようのこと)、「功名後ノ心得之事」(こうみょうごの こころえのこと)、「首見参之事」(くびけんざんのこと)、などなども含まれている。
これらは傳書での記載はなく、「立身流戦場動幷着具之心得」(たつみりゅう せんじょうばたらき ならびに ちゃくぐのこころえ)として、傳書外の別冊に記されている。

註2 立身流傳書と立身流口傳(くでん)
「口傳」とは、傳書に「口傳」と記載されているものをいう。それ以外のものは師匠と弟子の間での事実上の口伝えにすぎない。
口傳の意味内容にも種々ある。

第一には、師匠との一対一での実技の稽古における、言語での、補助的あるいは本質的な説明を意味する。
例えば立身流居合目録に「向前後左右圓 口傳」とある場合である。
この場合、「口傳」は言葉だけで独立した意味を持たない。「口傳」と、口傳の言葉だけを記した「口傳書」は異なるものとなる。
稽古では師匠の動きを自分に映り込ませねばならない。文字化された言葉(写真や映像も同じだが)だけで師匠の動きは再現できない。その意味で、業も心法同様「不立文字」(ふりゅうもんじ)である。
従って、文字だけで研究すると、個々の微細な点でも、とんでもない見当違いの誤りに陥ることが多い。本例で言うと、例えば、「向前後左右圓」の記載は、「向と前と後と左と右と圓の都合六本」を意味すると解するのは誤りである。他方、立身流修行者ならば、意味を感覚的にも非常によく理解できる表現方法である。
体系化された古流武術ともなれば、文字だけから全体あるいはその重要部分を復元するのは不可能である。すなわち、一度失われた流儀の再生は不可能である。
立身流入堂訓第九条に「立身流古文書類の研究解明は必ず実技修得後に於いて、実技に照らしてなすこと。実技と理合の対応なき研究解讀は、判断を誤る場合少なからず。注意すべし。」とあるとおりである。

第二に、武術上の、或いは戦場での心得を記した口傳がある。例えば拙稿「立身流に於る 下緒の取扱」の参考1に示したような場合である。戦場では勿論、甲冑着用である。

第三に、「戦場平日トモ」の心得を示す場合である。例えば拙稿「立身流立合目録之巻陰五个口伝より(その1)」に示したような場合である。勿論、平日は甲冑を着用していない。

第二第三の場合は、特に練磨の必要があるとは言えない内容で、ある程度、言葉或いは口伝書だけでも理解と把握および実現が可能であるといえよう。

註3 立身流傳書に示される歴代名と、これを繋ぐ朱線
半澤成恒先生は、ある流儀のある人が受けた傳書を拝見した時、その傳書には傳系人名が列記されているのみで朱線で繋がれていないのをみて、「何も知らない流儀の何も知らない人だ」として、立身流はそれではいけない、と諭(さと)された。

註4 立身流傳書の允許と佐倉藩の「一術免許ノ制」
天保四年(1833年)十一月十六日、佐倉藩主堀田正睦(ほったまさよし)は「文武芸術ノ制」「一術免許ノ制」を宣言した。
文政四年(1821年)以降、佐倉藩では、これまで家禄を受けている藩士が死去した場合、家督をうけた者の家禄は何割か差引かれる家禄歩引(かろくぶびき)が行われていた。
文武芸術ノ制では家禄歩引のほかに更に支給額を減らす「増引(ましびき)」を加えたが、一術の免許を得た者はこの増引を免除された(以上、昭和48年3月25日佐倉市発行「佐倉市史」巻二 862ページ参照)。
立身流の立合目録・居合目録・俰目録のいずれかを得たものは、この「免許」を得たものとされたとのことである。

以上

2017年4月29日 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部

立身流と剣道・居合道・杖道

立身流第22代宗家 加藤 紘
初出「東京剣連だより 道」第81号
「古武道に学ぶ」第1回

発行者 一般財団法人 東京都剣道連盟
発行日 平成28年7月1日
[平成29年2月4日掲載/平成29年2月19日改訂(禁転載)]

一 立身流略史

立身流は戦国時代真只中の永正年間(1504-1521)に、妻山大明神の啓示を受けた立身三京により創流された総合武術である。三京は塚原卜傳とほぼ同時代の出生で、林崎甚助重信や夢想権之助より昔の人である。
第6代桑島太左衛門(将監)の弟子木村権右衛門が1590年代に分流して立身新流を名乗り奥平家に仕えたことが中津藩関係資料からわかる。幕末明治に福澤諭吉が修業した立身新流である。
立身本流は1714年に第10代糟谷団九郎が山形藩主堀田正虎に召抱えられ、堀田家と共に下総佐倉藩の流儀として明治に至る。佐倉藩の記録等には「捕手指南(ほしゅしなん)」「居合柔術縄甲冑勝之業(いあいじゅうじゅつじょうかっちゅうかちのわざ)」「芸術」「刀術」「兵法」等の語で示されている。立身流俰目録之巻等は柔術に関しての傳書である。
明治に入り逸見宗助等により立身流から警視流に剣術、居合、柔術、捕縄それぞれに各一本ずつが採用された。
佐倉に残った第18代半澤成恒から宗家を継いだ第19代加藤久は、大日本武徳会剣道教士・居合術教士であった。
第20代加藤貞雄を経て加藤高が第21代を継いだ。
第21代加藤高は昭和12年3月に国士舘専門学校剣道科を卒業し、同年5月に大日本武徳会剣道錬士(同年までは剣道の最高段位は5段で、その上に錬士・教士・範士が置かれていた)・居合術錬士(当時は居合道の名称でなく、又、居合術に段位はなかった)の、昭和20年3月に居合道達士(たっし)(教士の名称が一時期、達士に変更されていた)の称号を得た。第二次大戦後は全日本剣道連盟で剣道7段教士居合道無段範士であった。古武道界においては日本古武道振興会会長、日本古武道協会常任理事の各職をその死去まで長年つとめた。
昭和50年の千葉県剣道連盟居合道部発足に際しては、加藤高が副部長に、第20代加藤貞雄が常任理事に就任し、更に加藤高自らを長として佐倉支部(現支部長師範江尻裕介居合道錬士6段)が設立された。以降、毎年一回「古流立身流講習会」が県居合道部主催で行われて現在に至っている。
又、千葉県剣道演武大会、千葉県居合道大会でも毎年演武させて頂いている。
東京都内では昭和52年の立身流組織化に伴い、立身流東京矢口支部が大木邦明師範の下に設立され、現在の支部長は師範吉田龍三郎(剣道錬士7段)である。

二 立身流と剣道

立身流傳書の中に「立身流立合目録之巻」がある。ここでの「立合」とは、剣術即ち剣道の意味である。
立身流剣術の形には二刀之形その他もあるが、表之形、陰之形、五合之形を基軸とする。
表之形序は、太刀操作習熟をも目指す表之形破の基本を習得する為の形である。陰之形は小太刀の形であり、五合之形では自らの体全体を変化させることが重要である。
表之形は、摺技(我刀の鎬の相当部分を使って敵刀の相当部分に摺りあわせる)、応じ技(我刀の鎬の一点で敵刀を撥ね付ける。鍔元での場合は手之内、手首を特に効かせる)、張(我刀の一点で敵刀の一点を押したり叩いたりするのは張ではない)、巻落(我刀の一点で敵刀の一点を押し回すのは巻落ではない)等、刀の構造性質を十二分に使いこなす術技を身につける。我刀の刃や峯が敵刀等と接触することは原則としてない。表之形急は走る。
それに対し五合之形には彼我の刀の接触しない術技も多い。敵の打に対し体捌きで我体を変えつつ敵を斬り、敵と同時に斬りかかって敵の刀を落しつつ敵を斬り、敵の色をみて敵の起りを斬る。
現今の剣道で推奨される技は五合之形に多く含まれる。他方、表之形の摺り上げや応じ等は竹刀だけの稽古ではなかなか理解しにくいことになろう。
表之形序の初めの二本は剣術対居合である。表之形破の最後の二本は居合対居合である。五合之形には五合之形詰合という派生の形があるが、これはすべて居合対居合から始まり剣術対剣術に移行する。剣居一体が理念的な意味だけでなく、形の上で現実化している。立身流では剣術と居合を合わせて刀術として括られている所以である。
そしてこれは動きの質に於いても剣術と居合で異なるところはないということでもある。現今の剣道と居合道の動きの質の解離は、立身流の立場からは不自然に感じられる。
なお立身流剣術陰之形三本目右転左転(うてんさてん)は、これを分けると、右転は日本剣道形の小太刀の形の一本目に、左転は二本目になる。

三 立身流と居合道

立身流居合の基軸は、歩きながら、或いは走りながら抜いて斬る「立合」と、正座から始まり正座に終わる「居組」である。「立合」の語にはこの意味と前述した剣術の意味があり、要は一体であることが示されている。
「立身流居合目録之巻」での形についての記載内容は絞れば二つである。一つは向(むこう)という技と圓(まるい)という技を、前後左右に抜くということである。もう一つは向圓には序破急があるということである。向圓は前述の剣術表之形破(全八本。技としては全十二本)の最初の二本であり、最後の二本(技としても併せて四本)でもある。
向は後の先または先々の先の技である。
居合での向は、敵からの我正面への撃(居合でも剣術でもよい)に対し、我は抜刀して向という独特の太刀筋で受流し、敵の正面から斬り下げる。
【写真①】は向で、右側の師範齊藤勝の抜打を、左側の私が抜刀して向で受流す瞬間である。

【写真①】立身流 向(むこう)

【写真①】立身流 向(むこう)

圓は先または先々の先の技である。
居合での圓は、抜刀して我に斬りかかろうと柄に掛けた敵の右手を、我は機先を制して先に抜刀して諸手で斬り落とし、更に敵を正面から斬り下げる。
【写真②】は圓の系統の「前後(ぜんご)」の形で、前の敵が抜刀しようとして柄に掛けた右手を斬り落とすべく、加藤敦宗家補佐が走り寄って抜刀する瞬間である。前の敵の小手を斬り落とし、直ちにふり返って後を追ってくる敵に対処する。

【写真②】立身流 前後(ぜんご)

【写真②】立身流 前後(ぜんご)

向圓を歩きながら、走りながら、正座から抜く。向圓を前後左右への体捌を加えて抜く。敵の数が増える。技の内容も、居合に於る表之形の向圓から居合に於る陰之形の向圓へと変化していく。
立身流居合でいう「形」の内容は、このように足捌き体捌き等の身のこなしを含めた「技」そのもののみである。加えて心法の裏付が要求される。
他方、居合目録之巻に一三ヶ条、立合目録之巻に二五ヶ条の「外(そと)」と称される項目の記載がある。これらは主に特殊な状況下におかれた場合の対処の仕方を示していて、いわば慌てないで済むようにという心得である。立身流に於てこれらは「形」には含まれず、「外(と)のもの」とされる。「門戸出入之事(もんこしゅつにゅうのこと)」「壁添勝様之事(かべぞいかちようのこと)」「介錯仕様之事(かいしゃくしようのこと)」「人込刀抜様之事(ひとごみかたなぬきようのこと)」「乍走抜様之事(はしりながらぬきようのこと)」「同追様之事(どうおいようのこと)」「抜所被留(ぬくところとめられ)勝様之事」「細道(ほそみち)抜様之事」「柄被留(つかとめられ)勝様之事」「二之腕被組(にのうでくまれ)勝様之事」「胸紐被取(むなひもとられ)勝様之事」「袖口被留(そでくちとめられ)勝様之事」「落指(おとしざし)抜様之事」等である。

  四 立身流と杖道

杖は立身流での半棒(はんぼう)にあたる。「半」棒といっても六尺棒の半分の三尺ではなく、ほぼ四尺強である。
一般に杖など刀以外の武器を使用する場合の形は刀に勝つように組まれている。
ところが立身流は逆で、最終的には刀で半棒を制する形である。立身流半棒之形は基本として三本、変化を含めて十本であるが、一つの動きは右左にできなければならないのが原則なので本数は更に増える。
立身流にはいわゆる長物(ながもの)として棒(ほぼ六尺)、長刀(ほぼ六尺柄)、鎗(柄は、ほぼ九尺を基準として二間まで)等もある。間合の違い等は別として、半棒を含むこれらの武器の業には流用性がある為、他種目の形を取入れた稽古もなされる。ちなみに鎗は、歩立(かちだち)の場合(騎馬でない場合)は「トカク胸板(むないた)刀諸臑(もろづね)ヲナグル」ものとされる。
刀を鞘ごと使用する提刀(ていとう)というものがある。鍔や反を利用する技は別として、提刀の技を半棒で使い、或いはその逆にも使う。ここで刀術と杖術はあらためて繋がることになる。
杖道はその主目的が刀を制するものである点でも、又、杖は鞘におさめられた刀に代わりうる点でも、刀との関係を前提とし、刀の存在の下に成り立つ武道であって、その意味では剣道や居合道と異るところはない。

五 提言

このように剣道居合道は勿論、杖道も日本刀を基軸とし、日本刀との関係の下に存在する武道である。
ところが、その共通の要素である、刀の構造機能の理解及びその刀を用いた動きや技術の性質の理解が共有されていない。それが、現今の各道の動きの質の解離につながっていると思えてならない。
例えば、剣道居合道杖道それぞれの場において、真正面からの大きくゆっくりした面撃に対し、木刀できれば模擬刀の表の鎬で摺上げて面に斬り返す稽古をする。その際は正確さを旨とし、ゆっくりした大きい動作で、剣先を効かし、反を活用し、我剣先近くの鎬で相手の手元近くをとらえ、我鍔元寄りの鎬までを使い切って摺りあげる。摺りあげる我刀は鎬以外の箇所で相手の武具と接触しない。斬る際は刃筋が立つ。
このように正確な摺上技を経験するだけでも、各道を総合した武道の意味の理解とその共通の動きの理解とに有益と思われる。鎬のみを使うという微妙な操作が、手之内、手首、肘、肩,体、足を含む身体全体の動きの精妙さを感じさせ、それを知る手掛かりになるのではなかろうか。又、この精妙さに興味をかきたてられる効果もあるのではなかろうか。
そして、応用すれば、例えば剣道の竹刀ででも、摺上面は有効に使える技のはずである。
明治以降、特に第二次大戦後に顕著だが、武道が用具や技により種別化され、分化されている。これを専門化と言う人もいるが、あるいは単に視野が狭くなっただけではなかろうか。極論すれば、武術武道は武術武道でなくなってしまい、それが閉塞感を生じさせていると感じられる。今、あらためて分化したものの総合化を図り、失われた価値の回復を目指せないだろうか。そこから又、新たなものも生まれると思う。

六 立身流の体系と三道

立身流は素手短刀等の俰をはじめ数多の武器を使いこなす総合武術であるが、その基本にして極意である形は向と圓である。二種の遺伝配列が全ての源であるように向と圓が全ての起源である。またこれが思索の基本構造ともなっている。
立身流目録での向圓は、身之曲尺、太刀之曲尺、心之曲尺そして無意無心無固無我の曲尺合 [立身流三四五曲尺合之巻]や心目體用一致 [立身流俰極意之巻]などを求める練磨を経て、立身流極意之巻の月之太刀(向)、日之太刀(圓)として完成されていく。向と圓に全てが含まれ、凝縮していく。
立身流には正傳書が十五巻あり、この全てを皆済されて皆伝となる。そのうち形そのものについて記されるのは各目録之巻が主で、他のほとんどの巻は、心法を含む武道全体に通ずる内容、ひいては生死、人間への思索、世界、自然、宇宙観にも及ぶ内容である。また、それらと形との関連の内容である。
いわゆる心法は武道全体に共通していて、剣道居合道杖道において異なるところはない。すなわち、三道の目指すところは立身流の目指すところと同一である。

七 結語

立身流は、用兵術や戦での作法等それぞれの時代を背景にした広さと、歴史により熟成された完成度と、技の質の高さと思索の深さを備えている。
立身流をもって幕末の実戦を経験した半澤成恒先生は立身流を信奉し、「立身流以外は剣に非ず」と豪語して憚らなかった。

(本稿は、頭書の初出後に頂いた質問等を加味し、平成29年1月に補筆したものである。)

加藤 紘
立身流第22代宗家
千葉県指定無形文化財保持者
日本古武道協会(日本武道館)常任理事
日本古武道振興会評議員
弁護士

「気攻め、術攻めで敵を守勢に立たしめる」

立身流第21代宗家 加藤 高
  初出 月刊剣道日本 1983年11月号
(昭和58年11月1日 発行)
[平成28年11月19日掲載(禁転載)]

立身流は居合、剣術を表芸とし、それに甲冑組討の際の俰(やわら)、あるいは槍術、棒術、捕縄など各種武術を併せたもので、戦場において、いかなる場面に遭遇しても決して不覚をとらぬように、きわめて実践的な総合武術に仕上げられている。

その形は他流に比較して虚飾なく、地味ではあるが、剛直壮烈な剣さばき、体さばきはきわめて実理的であり、江戸時代以前の戦国武道の古格をしのばせるものである。

流祖立身三京は幼少より武術に傾倒し、いくさや真剣での試合は数知れず、一度も不覚をとらなかったが、未だ安心の境に達するを得ず、妻山大明神に祈願してついに無我の心境に到達するを得、勝機を未撃に知る必勝の原理を会得したと伝えられている。

すなわち、気攻め、術攻めによって敵を守勢に立たしめ、敵が苦痛にたえかねて無理に撃突しようとするその箇所が、おのずから自分の胸に匂ってくる。そして敵がその業をおこそうとする瞬間、無意識のうちに機先を制してこちらから撃突を加えて勝つ方法で、先(“匂の先”ともいう)による勝ちである。

立身流伝書の道歌に、つぎのように記されている。

先を取れ先を取らるな先を取れ 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

先先の先こそあれば後の先も 後の先として先先の勝ち

『史記』に「先んずれば人を制し、後るれば則ち人に制せらる」とあるが、同じ趣向であろう。

さらに立身流伝書口伝によれば、事前に敵を制圧せずに無闇に最初から一撃を加えるのは危険な行為であり、これこそ主義と手段を混同したものとして厳しく戒めている。

要するに伝書に説かれている”匂の先”というのは、外界からの刺戟に対し、なんらの意志の作用もなくしてする一種の反射運動といってよいと思われる。

反射運動はもちろん、敵の刃先を避ける退避の時にもおこるが、その時のみならず敵を撃突する時に用いているところが大変重要な点である。『孫子』の兵法に「勝兵は勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む」とあり、その解釈もさまざまに分かれているようだが、私は個人武と集団武との差こそあれ、当流でいう”先(匂いの先)”と共通の発想だと考えたい。

なお、現今の各流居合は、おおむね坐って抜く業を主とし、立って抜く業を従とするものが多いが、当流はこれと反対に立って抜く業をきわめて重視し、坐って抜く業(当流では”居組”という)を従としている。

また、抜刀時の最初の一太刀も他流では片手切りの場合が多いが、当流では両手切りが主である。帯刀時も他流では大体、左手拇指を鍔にかけるが、当流では左手人差指をかけている。抜刀法は立身流独特の発達をとげ、さまざまな抜き方がとられている。

斬撃時の刀の振り下ろし方についていえば、当流では自分の頭上で半円を描くように、遠心力を利用する場合が大変多い。この振り方を”豪撃(こわうち)”という。この振り方をもってすれば、南北朝時代の長大な太刀もたやすく扱えるし、斬撃力もきわめて強力である。

序、破、急という言葉は各種芸道でよく使われるが、当流では居合、剣術、槍術ともに一本の形を同様に三段階に分けて修練を重ねている。これを書道にたとえていうと、序は楷書、破は行書、急は草書に該当する。通常の演武は「破」であるが、「序」は基本的な動作で、初心者はこれが仕上がってから「破」に進む。「急」は応用動作で、実践即応の変化技ということになる。

ちなみに当流の数ある伝書中の一巻は、野戦攻域、陣地構築、築城の場合を想定して、距離測定法、測量法が記されている。すなわち、集団戦法を加味して研修したのである。

 

2016年11月19日 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部

立身流からみた警視(庁)流の各種形及び体系

立身流第22代宗家 加藤 紘
[平成27年11月23日掲載/令和3年年5月23日改訂(禁転載)]

一、はじめに

立身流は警視流の居合(全5本)、剣術(木太刀之形、全10本)、柔術(捕縄、活法を含む)の全てに採用された、そして併せると4本を採用された、唯一の流儀です。表題の「各種」とはこの3種(捕縄を別に数えると4種)を示します。
本稿は、警視流に採用された立身流本来の形と警視流の形との異同および両流の全体的関係を探るものです。
しかし、この作業には困難が伴います。
立身流の形の内容は確定していて問題ありません。
問題は警視流の内容についてで、文献の記述、ひいては演武者や解説者毎に大きい違いが見受けられることです。警視流の形が制定される際、既に元の流儀の形からの変容と各流を併せたことから来る曖昧さがあり、文字化される際にそれが引き継がれ、更にその後の文字に基づく研究復元による演武や、度重なる文字化が誤解を拡大している様相が見受けられます。制定後百数十年の間、流派としての伝承の中核がないまま経過し、特に居合については裾野が拡散した影響もあるようです。
警視流居合を源にして他の流名が付されている例もいくつか見受けられます。
警視流柔術は文献上だけの存在です。
このような状況の下、本稿は立身流の見地からすればこうなのだ、という視点のものです。

二、警視流に採用された立身流各種形の演武映像

警視流に採用された立身流居合四方、立身流剣術巻落、立身流俰(やわら)柄搦の3本の形の演武映像はユーチューブ動画「特集 伝統を受け継ぐ総合武術 立身流」(佐倉市制作・平成27年3月12日撮影 同年3月広報番組放映)をご覧下さい。
説明を要するいくつかの注意点はありますが、流門にとって教科書的な映像です。特に私の演武のスローモーション映像をよくみて研究して下さい。
但し、この画像で「分かった」と思わないで下さい。画像で感得できるのは大まかな雰囲気だけにすぎません。

三、居合

(一) 警視流居合に関する資料
私の知る限り、最も古い文献は、後記資料(一)の警視廰本署撃劍世話掛による明治19年(1886年)6月付「警視廰劍術組大刀之方書 全」(以下、本文では方書と略称)です。
そして、後記資料(十)の「剣道の歴史」(2003年(平成15年))に、方書の記載に句読点をいれた同一の文(一部に誤植があります)が転載されています。
そこで、以下では「方書」の記載を基に警視流居合の内容を理解し、必要な都度、後記資料(三)の「立身流第19代宗家加藤久自筆ノート」(以下、ノートという)等を引用します。

(二) 立身流居合と警視流居合との体系を含む関係全般については、拙稿『立身流に於る 形・向・圓・傳技・一心圓光剣・目録「外」(いわゆる「とのもの」)の意味』に記したとおりです。
立身流の見地からすれば、警視流居合の一本目から四本目は立身流居合の陰之形立合(本伝)を応用して簡略化したものであり、五本目は立身流居合の表之形立合 (破)八本目四方を応用して簡略化したものです。
警視流居合五本の体系の基本は立身流と同一です。
立身流居合の陰之形立合の内容については、拙稿「立身流居合に於る鞘引と鞘(の)戻(し) ~立身流歴代宗家の演武写真を参考にして~」を参照して下さい。

(三) 立身流居合四方(しほう)と警視流居合の五本目四方(しほう)との相違
1、立身流居合の表之形立合破の八本目四方が、警視流居合五本目四方となっています。
立身流居合には向と圓があり、例えば後の敵に対しては後向(左回り)と後圓(右回り)があります。八本の最後が四方(圓)でまとめられています。

2、立身流居合の四方については、前記の動画「特集 伝統を受け継ぐ総合武術 立身流」及び、後記資料(九)の拙著「立身流之形 第一巻」を参照して下さい。

3、警視流居合五本目四方の内容。
方書の記載は次のとおりです。

敵四方ヨリ囲ムトキ我カ頭上ヲ凌ギナカラ右足ヲ蹈込前ノ敵ヲ抜打頭上ヘ切込足ハ其侭ニテ後ロノ敵ヲ切右足ヲ蹈込ナカラ太刀ヲ左リヘ巻キ又一ㇳ太刀切又右足ヲ右跡ヘ開キ太刀ヲ右ヘ巻キ左ノ敵ヲ切リ又右足ヲ蹈込ナカラ太刀ヲ左リヘ巻キ一ㇳ太刀切足ハ其侭ニテ後ロノ敵ヲ切又右足ヲ蹈込ナカラ太刀ヲ左リヘ巻キ又一ㇳ太刀切是ニテ四方ノ敵ヲ折留ルナリ

4、方書の記載による警視流の四方と立身流の四方との相違は次のとおりです。

①警視流では、前の敵への抜刀の際「我カ頭上ヲ凌キナカラ・・・前ノ敵ヲ抜打頭上ヘ切込」として、自らの頭を守りながら抜きます。
立身流居合では原則としてそのようなことはありません。
なお、四方は圓の系統ですが、「我カ頭上ヲ凌キナカラ」圓を使うのは剣術表之形においてです(拙稿『立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)』参照)。
居合では足使いが異なり、敵の刀に関係なく強打(こわうち)がなされます(後記③参照)。

②警視流では、順次、前の敵の正面、後の敵の正面及び正面、右の敵の正面及び正面、左の敵の正面及び正面を切る、とされています。
立身流では、前の敵の右小手、後の敵の右小手及び正面、右の敵の右小手及び正面、左の敵の右小手及び正面を斬るのが基本です。小手面の連続技が基調ということです。立身流には面面と斬る変化もあります(敵には、小手にくるのか面にくるのか、わかりません)が、少なくも立身流の基本の形とは異なります。
立身流の小手斬は、柄にかけた敵の右小手を斬落すものです。
明治の警視流制定時には、このような想定をする必要がなくなり、小手斬は面斬に変えられたものと考えられます。

③警視流では、「太刀ヲ左リヘ巻キ」「太刀ヲ右ヘ巻キ」とされています。
立身流についてもその動作を表す言葉としては、一応「巻く」と表現されてもいいでしょう。
しかし、その「巻キ」は、単に調子を整える為だけのものではありません。
その実質的な意味合は強打(こわうち)です。前記動画および拙稿『立身流変働之巻に於る「躰用者則刀抜出体抜」』を参照して下さい。

④警視流につき、方書では、最後の左の敵に対し「右足ヲ蹈込ナカラ・・・又一ト太刀切」となっています。すなわち、最後の一振は右足を出しつつ斬るわけで、かつ、左足を継ぐとは記載されていません。
現今行われている警視流演武では右足を出したうえ更に左足を継いでいるようです。
いずれにしても立身流では、右の敵を斬った足はそのまま振り返りつつ左の敵の小手を斬り、さらに足はそのまま、前のめりになる敵の面を斬ります。そして右足を出しつつ正眼にとって残心となります。最後の一振の際は足を出しません。

⑤方書には残心の記載がありませんが、立身流居合では必ず最後に正眼をとり残心を示します。上記④に記した通りです。

5、現今の警視流居合四方の演武と立身流居合四方とを対比した相違を示します。番号は通し番号です。

⑥警視流では、直立から歩き始めるときは右足からとなっています(ノート)。
立身流では左足からです(右足前の状態からの場合の歩み始めは前足の右足からですが)。後記「六、柔術(一) 柄搦 4、」を参照して下さい。
なお、警視流でも近時、左足から歩み始める演武がされているようです。

⑦警視流では、前の敵への抜き付けを右片手だけでなすことが多いようです。
立身流での前の敵への抜き付けは、小手や正面あるいは袈裟いずれであっても諸手斬です。

⑧警視流での前の敵への抜き付けが横に薙ぐようにされているときがあります。
立身流居合の表之形の四方が警視流となっているのですから、横に薙ぐ抜き付けはないはずです。
立身流四方の表は真上より諸手で斬り下ろします。
立身流居合の陰之形では右手のみで横にも薙ぎますが、これが警視流の五本目に採用されたのではありません。

⑨警視流では、振り返って切る際、左足を踏み替えて演武されています。
立身流では後方へ振り返る際、右回りでも左回りでも、序之形以外では足を踏み替えません。実戦形である破之形が警視流に採用されているのですから足は踏み変えないところです。
方書でも「足ハ其侭」となっていて踏み替えるとはされていません。

⑩警視流では切る際、左足を継ぐ人が多いようです。
立身流居合では、斬る際、足を継ぎません。立身流居合は通常の歩みの上に乗っています。右足でも左足でも、後足を継がないでも斬れる間合と態勢をはじめからとっていなければいけません。
方書でも、前記の最後の左の敵に対しての場合を含め、「右足ヲ蹈込ナカラ」とだけになっていて左足を継いでいません。

⑪警視流としての演武で、後右左の敵に対してもそれぞれ一太刀しか斬らない演武をなさる人がいるとのことです。
実戦の現場でそのような場合もありうるでしょうが、立身流の基本の形ではありません。

⑫警視流としての演武で、最初に右の敵に斬りつける動作をなさる人がいるとのことです。
これも立身流四方の基本の形ではありません。

6、「四方」以外も含めた立身流居合と警視流居合の相違を示します。番号は通し番号です

⑬警視流の警礼、佩刀、終止の場合及び脱刀の礼法は立身流と異なります(ノート)。
立身流礼法については拙稿「立身流に学ぶ ~礼法から術技へ~」を参照して下さい。

⑭警視流の鯉口の切り方は左親指でなされているようで、これも立身流と異なります。立身流では、擁刀の上、胸腹部および両手の作用と力で鯉口を切ります。拙稿「立身流居合に於る 鞘引と鞘(の)戻(し) ~立身流歴代宗家の演武写真を参考にして~」及び前掲動画を参照して下さい。

⑮警視流では血流(血振)がされていますが、立身流に血流はありません。

⑯警視流の納刀
立身流居合での急以外の納刀と同様逆手納刀ですが、立身流のように鍔を右掌でくるまずに、柄だけを握る演武がされているようです。ノートでは「無念流ト同シ」となっています。無念流とは神道無念流のことです。そして、ノートに「無念流立居合(十二本)」が記されています。その中の「刀ノ収メ方」の第二、に、「・・・右手ノ拇指ハ縁頭付近ヲ其他ノ指ハ下方ヨリ鍔及ヒ柄ヲ持ツ」との記載があります。この記載通りとすると立身流と同じことになると思われます。

⑰現今行われている警視流居合には様々な形態があるようですが、いずれも、その動作の性質や足捌き体捌きの態様に、立身流とは相当の相違があります。例えば拙稿「立身流居合に於る 鞘引と鞘(の)戻(し) ~立身流歴代宗家の演武写真を参考にして~」を参照して下さい。

四、剣術

(一) 警視流剣術に関する資料
剣術についても、最も古い文献は方書です。
そして、後記資料(十)の「剣道の歴史」に同一の文が転載されていることも同様です。
ノートでの警視流木太刀形の記載内容、および後記資料(二)「剣法至極詳伝 全」(大正2年。以下、詳伝という。)での警視流木太刀形の記載の内容は方書と同一で、文章表現まで似ます。方書がノート及び詳伝の底本と判断できます。
そこで本論考では、他の箇所の引用などの便宜上、詳伝の記載を基本に警視流剣術の内容を理解し、必要な都度、他の資料を引用します。
特に、現今行われている警視流剣術に大きな影響を与えたと思われる後記資料(六)の昭和10年に発行された陸軍戸山学校剣術科著「剣術教範詳解」(以下、教範という)をも重要資料とします。

(二) 立身流剣術表之形破五本目巻落
拙稿『立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)』に詳述しました。
参照して下さい。

(三) 警視流剣術四本目巻落
1、初期の文献の内容と現今の演武内容との間には大きな差異があります。その差異によって立身流の巻落と警視流の巻落の相違が更に大きくなっています。

2、警視流剣術四本目巻落の内容。
詳伝の記載を要約すると次のとおりです。

双方正眼から受、左上段へ、仕、中段へ。受が打込み頭上へ來る太刀を、仕は巻き直に胸部へ突込む。
受、右足を引きながら上段にとる。仕、敵上段に取るを見て右足を跡へ引きながら太刀を後ろ斜に取る。受が右足を踏込んで頭上目掛て打込むのに対し、仕は右足を踏み横腹を切り左足を踏込み後を向き居敷き正眼に構え圍む。

3、詳伝の記載する警視流四本目巻落と立身流巻落との相違
詳伝の記載による限り、警視流巻落と立身流巻落の間にそれほど大きな相違はないといえます。

①詳伝記載の、仕の「中段」の意味
詳伝では、受の左上段に対し仕は正眼(方書では、「正眼」は全て「清眼」と記載されます)から中段の構に直す、とされます。詳伝(勿論、ノート及び方書も同じ)の警視流木太刀形の中に中段の語はここにしか出てきません。これは立身流でいう平正眼(ひらせいがん)を意味すると考えられます。
立身流では、上段に対し平正眼をとるのが通常です。上段の態様により平正眼の態様も変わります。また、立身流では平正眼を単に中段とも呼称します。同じ中段でも、敵が正眼の場合、左上段の場合、右上段の場合その他敵に応じて変化するのは当然です。立身流で中段と正眼(立身流では「清眼」と記す場合が多い)とはほぼ同じ意味で使われる語ですが平中段という語はありません。
後記の参考を参照して下さい。

②詳伝記載の、突かれた後の受の上段
警視流でとられる突かれた後の受の上段は、立身流では肩上段です。八相に似ますが、八相よりも高く刀が上がった構です。肩上段は、左拳が口あるいはそれ以上の高さに位置し、我左手の上から敵を見ます。
詳伝の上段は右足を引く上段ですから、我左手の下から敵を見る左上段と思われ、そうだとすると厳密には立身流と相違します。

③詳伝で仕が「太刀を後ろ斜に取る」とされるのは、脇構をとる意味でしょう。
立身流と同一です。

④詳伝では、受が上段に取り、また、仕が脇構にとるとき、その後へ引く足はいずれも一歩、その後の受仕双方の打込みの足も一歩です。
立身流では受仕とも退く距離を大きくとります。従って撃込む足も双方とも三歩になります。

⑤詳伝では、仕は居敷きながら後ろを向くとされています。
立身流では、仕は逆胴を強く斬り、その結果、目は敵を見ていますが居敷いたときに身体は後を向かず、正眼にも構えません。立ち上がったとき正眼をとります。

4、現今行われる警視流四本目巻落は一見して立身流巻落と相当異なります。
これは、教範の記載の影響によるものと思われます。
私の知る限り、教範に初めて「一文字ノ構」という立身流にはない名称の、立身流にはない構え方が記され、その後の文献例えば、後記資料(八)の昭和46年発行「警視庁剣道教本」などに踏襲されています。現今の演武はこの「一文字の構」でなされているようです。
しかし平成15年発行の資料(十)では、方書の記述が収録された結果、正しく「中段ノ構」とされています。

5、教範の記載する警視流四本目巻落と立身流巻落との相違を示します。番号は通し番号です。

⑥教範では、「打上段」となっています。右か左か不明です。
立身流では左上段です。なお、後記⑩を参照して下さい。

⑦教範では、「仕一文字」、『仕太刀「眞一文字」ノ構トナル(右手ヲ肩ト水平ノ處ニ伸ハシ太刀ヲ水平ニス)』となっています。前述のとおり立身流にはこのような名称も、このような構え方もありません。
立身流では平正眼です。
なぜこのような誤解が生じたのかは不明ですが、平正眼という微妙な構が、構だけの態様として、心理学上にいわゆる「強調化」された結果かもしれません。

平成27年10月3日、鹿島神宮武徳殿に於て、天道流薙刀木村恭子宗家から、実技を含め御教示を受ける機会を得ました。
天道流の一本目の形名は「一文字の乱れ」であり、「一文字の構え」という基本の構えから始まるとのことです。或いはこの天道流の薙刀による構と技が形を変えて混じり込んだのかもしれません。
立身流長刀には、「一文字の構」という名称の構はありません。

平成28年4月1日、禮樂堂に於て、小野派一刀流笹森建美宗家から、実技を含め御教示を受ける機会を得ました。
後記資料(七)の293ページに「一文字」とあり、又、詰座抜刀の解説中の295ページに「横一文字」とあります。詰座抜刀には「縦(たて)一文字」というものもあるとのことです。しかし、いずれも現在行われている警視流の「一文字」「眞一文字」とは異なる技や構です。
ところが、同書559ページに「真剣」とある写真の構は、正に警視流の「一文字」の構のようです。笹森先生によりますと、この写真は、真剣(信剣)(同書253ページ)の一つの形態ともいえる「大正眼」だとのことです。真剣には上、中、下とありますが、その「上」よりも高く刀が位置するのが大正眼だそうです。

以上、警視流で行われる一文字の構の実態は、一刀流の大正眼である可能性が強いと思われます。

⑧一文字の構という立身流にない構をとった結果、その構えのままでは立身流の巻落の技を使うのは難しくなります。
仕が「右手ヲ肩ト水平ノ處ニ伸ハシ」ている状態での間合の下、受はどのように攻撃するか、受にとって適切な間合がとれた上で受の打があったとしても、仕が「右手ヲ肩ト水平ノ處ニ伸ハシ」たままで打太刀(受方、受)の刀を受けたのでは、仕の受ける動作自体不自然にならざるを得ません。
また、摺り込みが難しく、敵の鍔元にくい込む巻は困難です。敵の鍔元にくい込む巻をするためには、ゆるんで余裕のある肘を伸ばす動作が必要です。
その結果、警視流では刀と刀の摺り合わせがなく、仕太刀(仕方、仕)は、自分の刀の一点で打太刀の刀の一点を押し回すことになると思われ、現にそのような演武がされているようです。
摺り技は双方の刀身の相当部分が摺りあうものです。
前掲拙稿『立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)』を参照して下さい。

⑨教範では、立身流を立心流と誤って記載しています。

⑩教範では、「仕太刀カ上段ヨリ右足ヨリ進ミ」となっていますが、打太刀(受)を「仕太刀」と誤植しています。
また立身流では、右上段の場合に前足の右足より進むのが原則なので、ここでいう上段は右上段を示すかと思われます。とすると、立身流では打太刀は最初は左上段をとりますので、立身流とは異なることになります。前記⑥を参照して下さい。
教範の記載は、他にも打と仕が混同されていて、意味の通らない箇所がいくつかあります。

⑪教範では「太刀ヲ大キク・・・正面ヲ・・・打チ・・・上體ヲ前ニ屈メ・・・」となっています。
立身流ではこのようなことはありません。常に「竪1横一」の姿勢です(拙稿「立身流に学ぶ ~礼法から術技へ」参照)。
立身流で打突後に上体を屈めることはありません。

6、他方、教範の記載する警視流巻落と立身流巻落とで共通する点もあります。

A 教範には「物打ヲ鍔際刀腹ニテ受ケ、「エイ」ニテ巻キ落シ」と記載されます。
言葉だけで言えばまさにそのようになるでしょう(ただし、『「エイ」ニテ』は異なります)。
問題は、「受ケ」までの経過態様、「受ケ」の態様、「巻落シ」の内容態様等で、それら肝心なところが記されていません。
そもそも言葉や文字で形を完全に表現するのは不可能です。その結果、当然、復元には限界があり、肝心なところ、しかも至極の段階での武芸の微妙さを復元することはできません。完全な復元はまずありえないということです。

B 「右足ヲ大キク引キ・・・脇構トシ」
これについては前述(④)しました。

C 二太刀目に、仕太刀が「左右左ト三歩」、打太刀が「肩上段ヨリ右左右ト三歩」進む。
同じく前述(④)しました。

7、立身流巻落と現今の警視流巻落の演武とを対比したその他の相違を示します。番号は通し番号です。

⑫受が肩上段でなく上段でもなく、八相しかも相当低い位置にとられていることがあるようです。「脇構に対するのだから八相」という理解かもしれません。
仮に八相をとる場合、その八相に体格などにより相違がでるのは当然ですが、極端は避けるべきでしょう。

(四) ここで摺り技での要諦を確認します。
それは、我が刀の鎬の相当部分を敵の刀の相当部分に擦り合わせる技で、しかも我剣先で敵の鍔元を攻めることが肝要です。
前掲拙稿『立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)』を参照して下さい。

(五) 警視流に於る摺り技
警視流剣術全10本のうち、摺り技と思われる技を含むものは5本に及びます。
詳伝の記述を挙げたうえ、その内容につき触れてみます。
私は立身流以外の流派については門外漢ですので、巻落以外の警視流剣術の内容についての記述は、詳伝等の資料の記載のみを前提とし、立身流の見地から可能な限り理解しようとしたものにすぎません。

第一 八相 (直心影流)

「気合にて太刀を摺合す」(詳伝)

いわゆる「気あたり」としての相上段からの摺合せかと思われます。

第二 変化 (鞍馬流)

「頭上へ打込まれし太刀を受留め摺落し直に敵の胸部へ突込む」(詳伝)

先代鞍馬流宗家柴田鐵雄先生から、「へんげ」ではなく「へんか」と読むとお教えを受けました。
詳伝に使われる「摺落し」の語が、まさに立身流の張を意味していることは拙稿『立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)』に記載したとおりです。
日本剣道形小太刀三本目にも「摺落し」の語が使われています(後記資料(四)及び資料(五)参照)。その動きは小太刀で立身流の張落をするにほかなりません。
警視流の変化の形は立身流の張の動きを含むものです。
立身流では、上段からの撃を張落しての突は立身流剣術表之形の序之形で修練されます。突を張落しての突は破之形に含まれます。この時の突は受方仕方双方とも小走りの状況下で繰り出されます。拙著「立身流之形第一巻」(後記資料(九))を参照して下さい。又、後記の第五を対比して下さい。

第三 巻落 (立身流)

「頭上へ來る太刀を巻き直ちに胸部へ突込む」(詳伝)

拙稿『立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)』に詳述したとおりです。張と併せて参照して下さい。

第五 下段の突 (北辰一刀流)

「敵突来る太刀を鎬を以て殺し其儘胸部を突く」(詳伝)

詳伝の記述122ぺージより引用します。

「すり上げて面を打つのは至極なり
すり落しからつきも亦妙

・・・すり落しとは敵の突き来る太刀を殺し我が太刀を生かして突くを謂う・・・」

即ち、この技も張です。
立身流と対比すると、立身流の破之形(乃至急之形)では、まず受方仕方の双方が走ります。そして受方(打太刀)が八相から中段に代わって繰り出す突を、仕方は脇構から下段(立身流の下段は刀がほぼ水平)に変えてから張落し突返します。それも、間合によっては、一歩退くことなく受け、張り、突返す技を一瞬で使います。後記資料(八)を参照して下さい。又、前記第二を対比して下さい。
只、詳伝でもノートでも、この形についての表現は「鎬を以て殺し」とだけあって、「摺」の語が書いてありません。「摺」の語が使われてないのは方書でも同じです。
この点から考えますと、この技は、あるいは摺技でなく、萎(なやし)技であるかとも思われます。

第十 位詰 (鏡心明智流)

「受、(仕が)頭へ打込み来る時左り足を引き太刀を打合す力足らずして太刀を摺落さるゝなり」(詳伝)

この位詰は、仕の攻撃と同時に、受も摺技を掛けつつ同時に攻撃する技のようです。
としますと、敵我双方が同時に面を斬っていく立身流五合之形二之太刀と同じです。
ただ、立身流では摺技を仕掛けた仕方の技が成功し、敵の動きに併せて面を撃つ仕方が勝ちます。後記資料(九)を参照して下さい。
これに対し、警視流では摺技を仕掛けた受の技は不成功に終り、受の「力足らずして太刀を摺落さ」れ、受が負けます。受が「左り足を引」く故と思われます。拙稿『立身流変働之巻に於る「躰用者則刀抜出体抜」』を参照して下さい。

(六) 立身流から見た警視流木太刀之形の体系の一端

1、このようにみてきますと、摺技のみに関してでも、立身流の形の体系と警視流の形の体系との間に親近性がみられます。
警視流の前記5本の形を、立身流の表之形の前斜、張、巻落、そして立身流五合之形二之太刀と対応させてみます。

第一 八相
「摺り」の基本を示すものとしてみれば立身流表三本目の前斜に対応させることができます。

但し警視流八相は摺上技にまでは至っていません。

第二 變化
立身流表四本目の張に対応します。但し、突に対しての張でなく面撃に対しての張である点からすると厳密には立身流序之形の張に対応することになります。

立身流の視点からは、立身流の張落と同一です。

第三 巻落
立身流表破之形五本目巻落そのものです。

第五 下段の突
突に対する張落し突で、立身流表之形破の張と同一です。

但し、この形は前記のとおり、萎技であるかもしれません。

第十 位詰
立身流五合之形二之太刀に対応します。

しかし、前記の通り、摺技を掛けようとした側が逆に摺落される、という意味では立身流と結果が逆になります。

2、警視流は正に、当時の最先端をいく剣術諸流儀の奥義を抽出したものです。
摺技だけをみても、秘伝中の秘伝の粋を集め、体系化されています。
その配列は、基本的なものから、より微妙精妙な技に移行する順序となっているといえます。
立身流と対照しますと、摺技の面だけでも、警視流剣術全10本のうちの5本が、立身流剣術表之形破全8本のうちの3本および立身流剣術五合之形5本のうちの1本の計4本と対応させることができ、その配列順序の体系もほぼ同一思想に立脚しています。
警視流を組んだ先人の修業、力量、見識の程が偲ばれます。

五、柔術

(一) 柄搦
1、警視流柔術の資料
後記資料(十一)及び資料(十二)によります。
資料(十一)の序に、資料(十)の著者が「・・・拳法圖解・・・井ノ口氏ト會シ二三ノ修正ヲナシ其好意ノ在ル處ニ任ス・・・」と記しています。
又、同じ資料(十一)に、その著者井口松之助が編者名下での諸言として「・・・久富先生・・・ノ望ミノ儘ニ綴リ・・・」としています。
このように両書は、文章や図は異なっても内容はほぼ同一で、柄搦に関しても同様です。

2、警視流柔術柄搦の内容
資料(十一)及び資料(十二)を参照して下さい。

敵が我剣を引き抜こうとして我剣の柄を握ったその敵の両手を、我も両手で柄もろとも握り込んで固定し、まず右上方向に柄を突きあげて敵両手の逆をとって痛めつける。更に、敵の右手を確保したまま、柄を我からみて敵右手の下、左、上、右、下と回して敵右手首を捻って極め、敵を俯せに地に固める。

3、対応する立身流俰(やわら)での形の内容および名称
(1)内容
上記警視流柄搦と同一です。

(2)名称および立身流俰(やわら)での位置
「柄搦」の名称は立身流俰目録之巻の中にありません。
しかし、立身流第17代宗家逸見忠蔵の「立身流之秘」(安政5年戌午10月吉日筆)の中の記載に「柔術表形居組」として「右位 首位 胸痛 寄壁 自故 額倒 柄取三」とあります。
立身流俰目録之巻の居組は前記の右位から額倒(かくとう)までの六ヶ条なのですが、これに「柄取三」が加えられた形です。
この柄取三の内の一つが「柄搦」として警視流に採用されたものです。
警視流柄搦は立身流俰(やわら)の体系からすると、立身流俰目録之巻第一条右位、第二十一条小手折之事の系に連なり、直接には第六条額倒の応用です。従って、上記逸見忠蔵は上記のように記載したものと思われます。
本来ならば立身流俰目録第四十一条乱合之事(拙稿『立身流に於る 形・向・圓・傳技・一心圓光剣・目録「外」(いわゆる「とのもの」)の意味』参照)に括られるものに名称をつけたわけです。

4、立身流俰(やわら)と警視流柔術における他の共通点
資料(十一)には「左足ヨリ踏出スヲ法トス」、資料(十二)には「・・・直立・・・常ニ歩行スル時モ稽古ヲナス時モ左リ足ヨリ徐々ト進出ルベシ」と記載されています。
まさに立身流礼法、立身流術技全般と同じです(拙稿『立身流に於る「・・・圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理・・・」(立身流變働之巻)』、及び、前述居合の④参照)。

(二) 早縄(はやなわ)
1、資料(十一)及び資料(十二)によれば、警視流柔術には捕縄(ほじょう)、活法(かっぽう)が付加され、早縄の一に立身流が採用されています。

2、内容
敵を俯(うつぶせ)に組伏せて右手を捻り上げ、捕縄の蛇口(拙稿「立身流に於る下緒の取扱」参照)を敵の右手首に掛け、敵の首に右巻に一巻したうえ、敵の左手首に結びつける。
敵が暴れるほど自分の首を絞めることになります。
さらに暴れたり逃走の気配のあるときは、足の親指一本に縄の残りを結いつけます。

3、立身流には捕縄として早縄7筋(すじ)本縄(ほんなわ)14筋の併せて21筋の捕縄があります。
しかし、加藤久第19代宗家宅の倉の火災で縄人形が全て焼失し、その詳細は不明となってしまいました。
捕縄の各流の内容には似通ったものが多いと伝えられていますが、上記警視流早縄は立身流逸見宗助によることが資料(十一)及び資料(十二)(これにのみ立見流と誤記されている)に記されています。
資料(十二)80ページに記載される「武藤廸夫先生」は立身流門です(拙稿「立身流門を主とした佐倉藩士と警視庁」参照)。
立身流でも本縄の掛け様は掛けられる者の身分によって異なっていました。
半澤成恒立身流第18代宗家は加藤久に教伝の際、「間違えてしまっても『てまえ、ご流儀でござる』といえばいいのだ」と述べています。
加藤髙立身流第22代宗家の少年時代(大正期)の立身流門に捕縄の名手がおり、暴れる者をグリッ、グリッとたちまちきれいに縛り上げ、見事だったそうです。


資  料 (通し番号で示す)

一、居合および剣術関係
(一)、「警視廰劍術組大刀之方書 全」(本文では方書(かたがき)と略称) (立身流所蔵の写(コピー))警視廰本署 撃劍世話掛 明治19年6月
(二)、「剣法至極詳伝 全」(本文では詳伝と略称) 木下壽徳著 大正2年6月25日発行
(三)、加藤久立身流第19代宗家自筆ノート(本文ではノートと略称) 大正初期記載分より
(四)、「剣道」 高野佐三郎著 大正4年2月11日発行
(五)、「日本剣道教範」 高野佐三郎著 大正9年1月15日発行
(六)、「剣術教範詳解」(本文では教範と略称) 陸軍戸山学校剣術科著 昭和10年12月20日発行 昭和14年2月15日4版発行
(七)、「一刀流極意」 笹森順造著 昭和40年11月15日発行
(八)、「警視庁剣道教本」 昭和46年11月30日発行 編集者 警視庁剣道指導室 発行者 警視庁警務部教養課
(九)、「立身流之形 第一巻」 発行日 平成9年12月14日 著作者 加藤 高 加藤 紘
(十)、「剣道の歴史」 2003年(平成15年)1月18日 第1刷発行 編集・発行 財団法人日本剣道連盟

524ページ以下に、八戸図書館が所蔵する方書筆写の文に句読点を付して転載(警視流の居合および木太刀之形)

二、柔術関係
(十一)、「拳法圖解 完」 明治21年1月出版 著者 東京府士族 久富鐡太郎
(十二)、「早縄活法 拳法教範圖解 全」 明治31年5月17日発行 著述者兼発行者 井口松之助


参  考

立身流秘伝之書より(明和元甲申晩秋一鏡堂源水跋(立身流第11代宗家逸見柳芳、1764年)筆)

太刀構常三ケ之傳

常     無備     心備
上段構   中段構    下段構
直偽撃   清眼詰    前斜寄

夫太刀之構 如備 分而不別 用動常也 呂望曰 用莫大於玄點・・・

たちのかまえつねなるさんこのでん

つね        むび        しんび
じょうだんがまえ  ちゅうだんがまえ  げだんがまえ
ちょくぎのうち   せいがんづめ    まえじゃより

それ、たちのかまえは、そなえのごとし。わけてわけず、もちいてうごくはつねのことなり。りょぼういわく、もちい補るにげんてんよりだいなるはなし・・・


追  補

警視流の剣術と居合につき、「史料 近代剣道史」(著者 中村民雄、発行所 株式会社島津書房、昭和六十年四月三十日 発行)304頁以下に、「警視流形(室井秋治解説)」が、「(室井秋治偏『警視流』。昭和五年四月ガリ刷)として掲載されています。
その304頁に、剣術四本目巻落について、「仕中段(一文字構)」「一文字構巻キ落シ気當斜構引キ胴」との記載があります。
また、308頁には「仕太刀、眞一文字ノ構トナル。眞一文字トハ右手ヲ肩ト平行ノ処ニ伸バシ太刀ヲ水平ニス。」と記載されています。
なお、「…仕方ノ突ク時右足ヲ左足ノ後方ニ引キ肩上段トナリ…」と記されていて、立身流独特の用語である「肩上段」の語を見ることができます。

以上

立身流剣術表(之形)に於る足どり

立身流第22代宗家 加藤 紘
[平成27年11月1日掲載(禁転載)]

第一、立身流剣術表(之形)での足どりの態様

1、はじめに
ここで言う「足どり」とは、立身流剣術表(之形)に於て、斬撃突などの前及び後の足蹈のことで、主にその速さの面での態様の種類を意味します。
この足どりが、剣術表(之形)以外の形や他の武技の足蹈に応用されます。
武道の技は斬撃突極(きめ)中(あて)投(なげ)等の行為のみで成立するのではありません。その前後の行為と一体をなし、一連となって初めて意味を持ちます。ひいては戦場ばかりでなく、日常の行為と関連し、礼法(立身流礼法)へと連なることにもなります。

2、立身流剣術表(之形)での足どりの態様の種類
足どりは次の5種類に分類されます。

① 静歩(せいほ)
 通常よりもゆっくりした歩みです。可能な限りゆっくりした動きもここに含まれます。
② 常歩(じょうほ)
 通常の速さの歩みです。
③ 速歩(そくほ)
 通常より速く、しかし走るには至らない歩みです。
小走り
 いわゆる小走りと同じで、帯刀しての通常の走り方です。
走り
 できる限り速い走りを含む走りです。この走りは帯刀の取扱いに難があり、しかも武道での走りはスピードを競うわけでなく、速ければいいというものではないので、通常は行われません。

3、足どりの種類間の相違点は速度(及びこれに関連する体勢)だけです。
したがって、足どりの種類にかかわらず、常に足蹈の原則をみたしてなければいけません。
その内容は、拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」及び「立身流に於る足蹈と刀の指様」に述べたとおりです。

4、立身流剣術表之形の修行や演武の場合、足どりの種類を明確に判別して動かなければなりません。実戦や応用でこれが崩れるときもありますが、基本となる形のうえではその違いを崩してはいけません。
小さい差異でもその差異をはっきり認識でき動きをすることで初めて稽古と言えます。違いをはっきりさせない稽古は、はっきりさせるだけの力量のない者がごまかして曖昧にしているだけで、稽古とは言えません。そしてその違いが全体としての動きに冴えを生じ、かつ美を生ずることになります。

第二、立身流剣術表(之形)での足どりの方法

1、立身流剣術表(之形)序(之形)(6本。陰を含めて8本)での足どり
受方仕方ともに(以下、指定のない場合は同じ)、常に静歩を原則とする。仕方の位詰により受方が後退するときは常歩でもよい。

2、立身流剣術表(之形)破(之形)(提刀の向と圓を含む8本)での足どり
張以外は打間に入るまでは常歩。張で打間に入るまでは小走り。
打突の後、位詰する仕方は静歩、後退する受方は急歩。
中央に戻るのは小走り。
開始の位置に戻るのは常歩(又は静歩)。提刀の二本は納刀してから開始の位置へ戻り始める。

3、立身流剣術表(之形)急(之形)(提刀の向と圓を含む8本)での足どり
打間に入るまで、全て小走り。張は破の場合と同じになる。
その他は全て破と同様。

以上

立身流変働之巻に於る「躰用者則刀抜出体抜」

立身流第22代宗家 加藤 紘
[平成27年11月1日掲載(禁転載)]

第一、本稿は拙稿『立身流に於る「・・・圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理・・・」(立身流變働之巻)』及び『立身流居合に於る 鞘引と鞘(の)戻(し) ~立身流歴代宗家の演武写真を参考にして~』の続編です。

「刀抜時有両个之秘事 一圓抜 二躰用也 圓抜者則自之手本柔 他之打處強之理 躰用者則 刀抜出体抜 ・・・是又為使打處強之義也・・・」

(かたなぬくときにりょうかのひじあり ひとつにまるいぬき ふたつにたいようなり まるいぬきはすなわちみずからのてのもとやわらかに たのうつところつよきのことわりなり たいようはすなわち かたなぬくときはたいをいだしてぬくなり・・・これまたうつところつよからしむるためのぎなり)

第二、「躰用者則 刀抜出体抜・・・是又為使打處強之義也」(立身流變働之巻)

1、意味
刀の位置全体が前方へ移動する勢いを利用して強く速く撃ち、斬り、請流し、技をかけます。
そして、その勢いは身体全体が前へ移動することから発生するものが一番重要です。すなわち、刀を抜くときは身体を前に出しながら抜く、これが体の用い方の原則です。
その為には、抜刀は歩きや走りに乗っていなければいけません。前に歩きながら、あるいは走りながら抜く、言いかえれば、蹈出しながら抜くわけです。
左右への転身の場合も同様で、左右へ蹈出しながら、そして少しでも敵に近づきながら刀を抜いて斬ります。

2、刀の位置全体を前方に移動するにはどのような方法があるのかまとめてみます。
①前に蹈出す。

上記のとおりです。本稿で述べます。
②蹈出し以外の体幹の動きによる。

別稿「立身流居合に於る鞘引と鞘(の)戻(し)」で説明したとおりです。
③柄を握り込む指、(特に左手の)小指薬指を締め始めることからはじまり、手首のスナップから肘、肩の伸びなど、そして体幹全体の鞭のような柔かさ(しなやかさ)の利用(動画「伝統を受け継ぐ総合武術 立身流」での私の四方の演武参照)。
④他方、刀を前方に伸ばすため足蹈がないまま上半身だけを前に傾けたりして、姿勢を崩してはいけません。竪1横一に反します。

第三、間合との関係

武道では間合が絶対と言っていいほど重要です。
刀術で最も良い間合は刀の物打で斬撃し得る間合(向と圓で少々異なります)ですから、これより近い間合に入ってしまっている場合は、原則として敵に近づくのでなく逆に退かなければなりません。
その場合、居合の向では左足を進めるのでなく右足を退きます。居合の圓では右足を進めるのでなく左足を退きます。
しかしこれでは「刀抜出体抜」に反します。
そこで、大切なことは、はじめから「刀抜出体抜」けるように間合をもっていくことです。
退きながら刀を抜くのはそれが不可能だったり、その余裕がなかったり、万やむを得ない場合のみに限られます。

第四、斬撃の際の「前に蹈出す」(前記第二、2、①)の稽古方法

立身流居合の表之形の立合の序の残心動作の中に「蹈足」という動作があります。「足蹈」のなかでも特殊な意味を持つ用語です。
これにつきましては、拙稿「立身流に学ぶ ~礼法から術技へ~」及び「立身流に於る 足蹈(あしぶみ)と刀の指様(さしよう)」並びに前記動画を参照してください。
刀を抜く際、すなわち斬撃受流しの際の、地球を蹈み、地面を貫くような強く厚い足蹈を自得する稽古方法です。

第五、「為使打處強」の他の方法

1、強打(豪撃・こわうち)
立身流居合の表の序および破では強打という斬り方をします。
前記動画での私の演武を参照して下さい。

2、その動画のように大きく左旋回させるのが基本(左<之>圓)ですが、右旋回させる場合(右<之>圓)もあります。
大きく左旋回させて敵の左袈裟に斬る場合や、大きく右旋回させて敵の右袈裟に斬る場合もあります。
居合では正面を斬り下げるのが基本ですが、立合にしても居組にしても、左右の袈裟斬もしなければいけません。
又、小さく左旋回させて敵をその右袈裟に斬ったり、小さく右旋回させて敵をその左袈裟に斬ることもあります。
剣術での強打は、同時に敵の刀を鎬ぐ意味合いもありますから、袈裟斬になるのが通常です。
なお、袈裟斬には上、中、下とあり、いわゆる横面、袈裟、上腕部や胴まで含まれます。

3、立身流居合の表の急では強打を用いませんし、振り上げた刀の剣先が手より下の位置にくることはありません。
しかし、旋打から始まる履修過程で身に着けた強打の技、柔(しな)やかさがそのまま急の斬撃に発現し、強打と同じ威力を発揮することになります。
前記動画での私の演武(向の序破急)で対照して下さい。

以上

2015年11月1日 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部