古武道に学ぶ心身の自由(二)

日本古武道振興会会長 立身流第21代宗家 加藤 高
初出 月刊柏樹1995年3月号(No.144) 平成7年3月10日株式会社柏樹社発行
令和2年(2020年)5月23日 掲載(禁転載)

古武道の練磨にあたっては、常に思念工夫を怠らず、心身を最大限に、練って、練って、練り上げているうちに、やがて自由、自在な働きが出来るようになり、何時しか堂に入り、必勝の原理の妙味を体得されるものである。

戦前、戦時の中等学校では、剣道は厳然たる、独立した教課であった。私は往年の若かりし頃、当時の中等教諭として、剣道と国語、漢文を兼任していたが、はからずも剣道の全国的な公開研究授業の担当を指名されたので、慎重に剣道の年間指導計画やら、担当時間の教案とか、その他の必要書類を整備して、公開研究授業に臨んだところ、文部省関係の先生方はじめ、授業参観の専門家の先生方から、好運にも分に過ぎた最優秀の模範授業であるとの好評を頂戴した。

これは学校長はじめ、全教職員の全面的な指導協力と、優秀な生徒達の努力の結果にほかならない。

公開研究授業と無事滞りなく済んで、いよいよ最後の質疑応答になった。私は壇上に着席して色々な質間に応答していたが、そのうちに某校のある教諭より、「虚弱生徒に対する指導対策如何」との質問を受けた。当時はどこの学校でも、病弱な生徒に対しては、実地指導は免除し、ただ見学させるのが普通で、特別な指導対策などというものはたてておかなかった。勿論、私もその程度で、公開研究授業のために整備してあった各種の書類や資料中にも、その事については全然記載してなかったのである。その盲点を指摘しての質問であった。壇上にいた私は、相手の意地悪なこの質問に、思わずむっとして、「そういうあなたは、一体どういう指導対策をやっておられるか」と大声一番、反問したところ、満場の一同、途端にどっと爆笑の嵐しばしやまず、収拾のつかない状態であった。

やがて最終段階に入り、文部省派遣の先生方の講評があった。日く、「加藤教諭の剣道の実地指導の授業は、まことに微に入り、細を穿った、一点の非のうちようもない理想的な、申し分のない模範授業であるが、最後の段階の質疑応答の時間に、相手の質問には一向に答えずに、『そういうあなたは一体どういう指導対策をやっておられるか』と声を励まして反問したのは、甚だ宜しくない。とにかく、先ず一応、自分の見解を述べてからのことである。この点、猛反省を促さざるを得ない。併し、全体を総括してみると、まあ立派な公開研究授業であった」との批評を受けたので、私は苦笑せざるを得なかった。

つまり、相手の辛辣な質問に対して、平常心を失った言動をとったのが、千慮の一失であって、私の常日頃の、精神修養の未熟さを遺憾なく露呈した結果となったのである。

剣を執って敵と相対峙した場合には、心を微塵も動揺させることがなくとも、その他のあらゆる場合に於いて、その心境を持続し、活用させることが、如何に困難なことであるかを、身をもって体験した次第である。

前記の通りの質問に対して、精神鍛練に未熟な私が、古来から古武道立身流心法の七戒 (驚・懼・疑・惑・緩・怒・焦 (きょう・く・ぎ・わく・かん・ど・しょう)--立身流では以上の七つがまったく消滅した「空 (くう)」の境地に悟入することを学ぶ。前号参照) のうちの、「怒」の状態にまで、完全に心が動いてしまったのは、全く往時宮本武蔵との試合の際に於ける佐々木小次郎の轍を踏んだもので、生来の不敏のいたすところとはいいながら、内心甚だ忸怩たる思いであった。

別件ではあるが、私は往年の学生時代に、中野正剛先生より雄弁法講話の指導を受けたことがある。

先生は夙に雄弁家として、名声嘖々たるものがあり、その演説を拝聴するに、満堂の聴衆を完全に魅了し、感動させて、やがて陶酔させてしまう程の迫力があった。

  辨すでに中野の如く冴えぬれば
    長広舌もおもしろきかな

こう当時謡われたほどの人物であった。

ついでながら付記しておくが、この中野氏は戦時中、東條英機氏と当時の国策に対する見解を異にして、遂に憲兵に逮捕され、その後、一時釈放されたが、その間に自決された悲劇の人物である。

有為の人材でもあり、愛国者でもあったが、悲運な方であった。

その中野氏が言うには、「大衆の前で演説するには、聴衆の数の如何にかかわらず、決して恐怖心を起こすような事があってはならない。そうかといって、集った多くの聴衆の、学識人物の程度を軽視して、かりそめにも気をゆるめて、侮るような事があってはならない。大衆は大智識であると思わなければならない。又、聴衆の態度が大変悪く、非礼をきわめるような場合もしばしば見受けられるところであるが、決して驚かない事が肝要だ。聴衆がこちらの演説に一向に耳を傾けずに、相互に盛んに私語をかわして、ざわめくような事があっても、気をもんでいらいらしてはいけない。その他、無礼な弥次などを飛ばされても、一向に気にしないことだ。どんな事を怒鳴られても、絶対に腹を立てない事が必須不可欠の条件である。以上の事を固く肝に銘じて、怠らずに弁舌に数をかけていけば、誰しも何時しか必らず堂に入らん」とのお話しであった。

中野氏の説くところは、言葉の表現方法には多少の相違点もあるが、古武道立身流の七戒と、全く同一内容のことを主張しておられることが、十分了解されたのである。

その後、学生弁論大会に私が出場した際に、演説最中、失礼千万な弥次妨害が頻発した。中には「鈍感」などという、全く聞くに堪えない毒舌をふるう聴衆もあったが、私はいわゆる馬の耳に念仏で、耳をかさなかった。やがて次第に静粛な雰囲気になり、しまいにはシンとなって、演説終了時には、万雷の拍手であった。

これなどは、古武道立身流の心法の活用の事例というべきではなかろうか。これも学生時代のことであるが、剣道範士の大島治喜太先生の熱烈な勧誘により、私は剣道稽古のかたわら、銃剣術の御指導に預かったのである。

大島先生は銃剣術の達人でもあり、先生の経営しておられた健武館道場では、剣道と共に銃剣術も指導しておられた。

さて銃剣術は構は剣道とやや異なるけれども、気分(敵と相対峙した時の充実した気勢)、間合(敵と我との距離のとり方)、突く機会、目のつけ方、体さばきなどは全く剣道と同一であって、従って暫く稽古をつんだところ、あまり突かれなくなった。

当時、大島先生は陸軍戸山学校の武道教官も兼務しておられたので、私は先生のお供をして、陸軍戸山学校にも稽古に行ったのである。

陸軍戸山学校では、将校学生と、下士官学生が、剣術、銃剣術、その他の体育を研修していたが、わけても下士官学生の銃剣術は、朝稽古、間稽古(まげいこ)(昼休み間の稽古)、午後の稽古等、数時間にわたって実施され、壮烈をきわめ、その稽古量は、ゆうに私の数倍はやっていることは確かであった。

或る日、大島先生の指示で、その猛稽古をつんでいる下士官学生中の、選ばれた数名の猛者連中を相手に、私は試合を命ぜられた。

陸軍戸山学校の試合は、実戦の場合を想定して、総べて一本勝負である。その結果、私は好運にも、辛くも全勝することができた。そして銃剣術五段を允許されたのである。

その時私は、「成り上がり者の私のような者が、銃剣術五段を允許されるようでは、剣道は十段を允許されてもよい筈である」と、呵呵大笑したものである。

古武道に於いては、「上手は武器を選ばず」といわれているが、決して上手でもない私如き一介の武骨者が、はからずもその時、全勝することが出来たのは、いわば古武道立身流の必勝の原理の、活用の結果のいたすところと考えざるを得ないのである。

後年、支那事変がはじまって、やがて第二次世界大戦となり、その真最中、私もアジア全域と南方方面にわたり、西に南に、各地を転戦するにいたったが、当時、日本軍は、まだ破竹の勢いの、連戦連勝の時代で、米英軍は支那軍より遙かに弱いというような、行き過ぎた驕慢な風潮が、公然と横行していた頃でもあった。

たまたま南方作戦中、攻撃前進中に、待ち構えた米軍の重砲、野砲の一斉集中射撃にさらされたことがあった。幸いにも、最初の一斉射撃の砲弾は、いずれも数百メートルの前方に落下して、人的被害は皆無であった。間もなく修正されて、第二次斉射の始まることは必定である。そのあまりにも物凄い目前の砲爆を見て、多くの部隊は、その危害予防を考慮して、余儀なく一時、後退転進したのである。

私はこの時、咄嗟に判断して、この状況下に於いては、却って前進する方が安全だと察知して、急遽今しがた砲弾の落下した地点まで前進して、その弾痕に入り、一応、装具をはずして休憩していたところ、果たせるかな、米軍の第二次斉射が開始され、今しがた後退退避したばかりの友軍の真直中に落下しはじめ、砂塵爆煙、濛々として咫尺を弁ぜず、黙視しがたい状態であった。私達一同は、弾痕の中で休憩しながら、その実況を眺めつつ、「前に進んでよかったなあ。あの真向から集中射撃を受けているのは何中隊か」などと話合っていた。

咄嗟の瞬間的な状況判断と、その場の適正な処置。これは如何なる場合を問わず、古武道立身流の心法に於いて、最も重視されているところであって、この場合も、米軍の砲撃被害を無事に避けることが出来たのは、言うなれば古武道立身流の、必勝の原理(前号参照)に基づくものであったと今もって思われてならない。

但しその時の、米軍砲兵の練度の高かったことも改めて認識した。将来とも、どうしてなかなか悔りがたいものがあることを痛切に予感した次第である。

さて前号冒頭に記した通り、古武道立身流は、居合、剣術を表芸とする総合武術であるけれども、その中でも俰(やわら)(柔術)は相当重視されている。

それは古い源平時代から、甲冑の著しい発達にともない、戦場に於いては太刀討ちだけでは、容易に勝負がつかなくなって、必然的に鎧組討(よろいくみうち)が行なわれるようになったからである。

立身流俰の形(やわらのかた)は四十五本あって、その構成は他流の柔術と大体同じで、投業、当身業(身体の致命部を撃突して痛める業)、締業(首又は胴を締めて痛める業)を主体とし、それに各種の活法(かっぽう)(気絶した者を蘇生させる法)を加えたものであるが、立身流俰の特長は、逆業が特に発達している事である。そしてその逆業は肘関節はもとより、手首、足、その他全身の関節に及んでいる。

又、当身業は比較的数が少ない。これは前記の通り、甲冑の著しい発達にともない、戦場に於ける鎧組討では、当身業の効力がおのずから、ある程度の制約をうけるからである。この点、素肌闘技を主体とした空手、あるいは中国拳法、ボクシング等とは、全く正反対の立場におかれるように思われる。素肌では当身業の効力は絶大である事は言うまでもない。

逆業は体力には関係なく、平時に於いても、戦場鎧討組の場合でも、その効力は絶大で、熟練すれば一瞬にして敵を制することが可能である。

(以下次号)

古武道に学ぶ心身の自由(一)

日本古武道振興会会長 立身流第21代宗家 加藤 高
初出 月刊柏樹1995年2月号(No.143) 平成7年2月10日株式会社柏樹社発行
令和2年(2020年)5月22日 掲載(禁転載)

戦乱時代に発生した日本古武道の各流派は、生死をかけた戦場の真剣勝負において、如何なる強敵に遭遇しても、必ず勝って武門としての責務を果し、一門の名誉を保持しなければならなかったので、何はともあれ、絶対に不覚をとることのない、必勝の原理を体得するために、四六時中、常に刻苦して、古武道の練磨に最大限の努力を傾注した。

その手段方法は、各流各派によって多少異同があるようだが、私は下総旧佐倉藩に古くから伝承されてきた古武道立身流宗家第二十一代を継承しているので、立身流の伝書に記載されている奥義と口伝を基にして、これを中心にして記述することにする。

なお立身流は四百数十年前の、永正年間の武将、立身三京が創始したもので、時代が古いので語句が難解であるばかりでなく、その含蓄を深くするために、わざと字句を簡略化した部分が少なくないので、ここでは立身流を学んでいない者にも理解してもらえるように、これを分かりやすい現代語に書きなおして記述した。

立身流伝書に説かれている必勝の原理を詳細に説明するとはてしがないが、大きく分けると大要、次の三つである。
(一) 敵の動静を明らかに把握し、敵が動作を起こす前に、敵の意志を察知して、機先を制すること。これを立身法では「匂の先」という。
(二) 自分の心身の働きが自由自在になって、最大限の機能を発揮すること。
(三) 敵には全然こちらの意志を察知することができない状態にすること。

(一)の解説。
月が水中に影を映すとき、水面が静かであればはっきりと映るが、波立ってるとその形が歪み砕けて正しく映らない。これと同様に、心に少しのわだかまりも動揺もなく澄みきった精神状態であれば、敵の為すこと、思うことが、さながら明鏡に映るようにわかってくるものである。この心境を立身流では「水月の位 (すいげつのくらい)」ともいう。そして敵のわざの起こりをとらえて撃突して勝っ方法である。道歌に、

  うつるとも月も思はずうつすとも
       水も思はぬ猿澤の池

(二)の解説。
生死をはなれて、勝敗を全然念頭におかず、心を惑わす何ものもなければ、一刀忽ち萬化し、萬変に応じ得てとどこおることなく、尽きることもない。

(三)の解説。
心に思うことがあれば、何時とはなしに外に現われて、それを敵にさとられるものであるが、無心であれば、入るに跡なく、出づるに形なく、色もなく、香もない精神状態であるから、他人にも窺い知られることもない。

以上の三つの条件を満たすために、立身流修行者は、心法(心のはたらき)、技法(わざのはたらき)の最大限の機能を発揮できるように鋭意、多年稽古に励み、心身の修練を重ねる次第である。

立身流は剣術、居合を表芸にした武術であるが、如何なる事態に直面しても即応できるように、その他、俰(柔術)、鎗術、薙刀術、棒術、半棒術、四寸鉄刀(手裏剣)、捕繩術、集団戦闘法、物見にわたって一通り演練をつむ総合武術であって、各種武術の技法(わざのはたらき)はそれぞれ異なるが、奥義の三つの必勝の原理は、各種武術とも全く共通しており、同一である。集団戦闘法もその通りである。

二天一流の宮本武蔵の『兵法三十五條』にも、「此道大分兵法(このみちたいぶのへいほう) (集団戦闘法)、一身之兵法(いっしんのへいほう) (狭義の兵法で武術をさす)に至迄、同意なるべし」と明記している。

特に注目すべきことは、立身流流祖、立身三京は、この三つの必勝の原理を、単に生死を争う場合にのみにとどめずに、広く活社会にこの原理を活用して、世のため、人のために大いに貢献すべきことを強調していることである。

なお、心法、技法といっても、これは全く表裏一体の不可分の関係にあるので、いわゆる一にして二ならざるものであるが、最初に順序として、最も重視されている心法について述べることにする。

心身の自由自在な働きをするためには、事に臨んで、ある一つの事にこだわって、その事に注意力が奪われることがあってはならない。これを立身流では「止心 (ししん)」といって、古来から深く戒められている。

或る一つのことに心を止めると、その事にこだわって、心身の自由な働きができなくなり、臨機応変の処置がとれなくなるものであって、生死をかけた戦場、真剣勝負では大きな妨げとなり、判断を誤らせるものである。勝負に関係のない仏教でもこれを「執着 (しゅうちゃく)」といって嫌っているようである。

あたかも、山に木々の葉が茂っているのを、遠くから離れて全体を見れば、青葉や紅葉に彩られた山の美しさは分かるが、近よってその美しさを構成している一つ一つの木々の葉を細かく注目すると、全山を包んでいる彩色の美しさは分からないようなもので、相手に対しても、その一箇所に心を止めれば、敵の全体の動静は分からなくなるものである。

着眼でも一箇所に止まることは、甚だよくないことである。電車の中で外の電柱にのみに注目すると、電車の進行しているのが分からずに、電柱が動いているような錯覚をおこすようなもので、常に相手の全体が見透せるようにしなければならない。

間合(敵と我との相対峙する時の相互の距離)をとる場合も、間合が大事だからといって、間合だけにとらわれて心を止めると、かえって敵に撃突されることになる。又、敵の刀の動きだけに注目して心を止めると、十分な活動ができなくなり、相手に引きまわされてしまうような結果になる。真剣勝負においては一つ事に注目して心を奪われると、他の活動は全くお留守になって、結局は相手に撃突されてしまうのである。勝負の際には、自分の気分は常に相手の機先を制していなければならない。相手がこう来たら、こう防ぐ、ああすれば、こう行くなどと考えては、相手の刀に心を止めているからそういう気持が起きるのであって、いつも相手の後ばかり追って、最後には相手にやられてしまうのである。

古武道においては、一事物に心を奪われると、他は全然活動を休止しなければならないので、あたかも山全部の景色を眺めて、一葉一葉を見ないのと同じ事になるので、一事物に心を止めることを深く戒めている。

  ただ見ればなんの苦もなき水鳥の
     足にひまなきわが思ひかな

という古歌があるが、水鳥は一見すれば、ただ水上にぽっかり浮んで、何事もないように見えるが、水中の見えないところで活動している足は、たえず前後左右に巧みに動かして、寸刻も休んでいない。これと同様に、敵のやり方に応じて、一瞬のうちに絶え間なく、適切敏捷に処置することを、古武道では重視しているのである。

具体的な例をあげれば、敵の打ちこんでくる剣を此方が受けとめたら敵はすかさず退いたので、此方は直ちに追いこんで行き、相手が体当りでくれば此方はこれをかわし、敵が受けとめられたのに心を止めて、あっけにとられていたら、此方はそこをすかさず撃突して勝つのである。

但しこの場合、自分が受け止めたことに心を止めるようなことは絶対にあってはならない。そうなると反対に敵に主動権を握られてしまうことになる。

千手観音に千の手があるのは、一つのことに心をとめなければ、千の手はそれぞれ活動して、皆役に立つが、もしその内の一つだけに心を止めるときは、残りの九百九十九の手は役にたたないということを教えたもので、いわゆる「止心」の戒にあてはまるものである。

一つのことに心を止めずに、次から次へと変転自由自在に、少しも全体の調子にこだわりや無理がなくなると、千変万化に応ずる古武道の妙味が、十二分に発揮されるものである。立身流の免許皆伝に説かれている奥義には、「深夜聞霜」(深夜霜ヲ聞ク)ロ伝とあり、さらに「満月之事」、「半月之事」とあり、口伝として「満月を撃突すべからず」、「半月を撃突すべし」と教えられている。深夜に霜を聞くとは、換言すれば無我の心境、無念無想の境地に悟入することを指しているので、多年にわたり刻苦洗練された修行の結果、最後に到達した最高度の心身の機能の活用であって、事物に心を止めるなというのも、必勝の原理というのも、つまりは見方を換えて同じことを言いあらわしたにすぎないのである。立身流道歌に、

  深き夜に霜を聞くべき心こそ
     敵にあひての勝をとるなれ

さらに詳述すれば無我の心境、無念無想の境地とは、驚・懼・疑・惑・緩・怒・焦 (きょう・く・ぎ・わく・かん・ど・しょう)の七つがまったく消滅した「空」の精神状態をいうのである。

驚(きょう)とはびくっとして心がぐらつくこと。懼(く)とはおそれてすくむこと。疑(ぎ)とは意外なことに直面してうたがうこと。惑(わく)とは疑ってどう対応したらよいか分からず処置に迷うこと。緩(かん)とは緊張した気分がゆるむこと。怒(ど)とはむっとして腹をたてること。焦(しょう)とはあせっていらいらすることである。

「満月之事」とは以上の七つが、まったく起こらない心の活動状態を言うのである。

「半月之事」とは以上の七つのうちの、どれかが発生した心の状態を指している。勿論、いくつか同時に発生する場合もあり得るはずである。

もし敵が「満月」の精神状態にあるときは、これを「半月」の状態に知らず識らずのうちに巧みに誘導して撃突すべきことを教えている。

宮本武蔵などは、相手が強敵の場合には、しばしばこの方法をとって勝っている。かの有名な佐々木小次郎との試合の時も、小次郎に対して、武蔵はわざと約束した試合時間に数時間遅れて行って、小次郎をいらいらさせ、やがて小次郎と直面した際に、なぜ遅刻したかという小次郎の詰問に対しては返答せず、小次郎が怒髪天を突いて、いきなり切りかかったその出はなを、機先を制して例の大木刀で一撃のもとに打ち倒して勝利を得ている。つまり若き小次郎が、武蔵の 焦 と 怒 の誘導戦略に完全に乗せられて一命を失ったのである。余談であるが、医学者・歌人で有名な斎藤茂吉は、若くして武蔵に敗れて一命を失った天才剣士・佐々木小次郎に対していたく同情して、大正十年十一月二日、二人が試合した厳流島を訪れて、次の一首を詠んだ。

  わが心いたく悲しみこの島に
    命おとしし人をしぞおもふ

その後も斎藤茂吉は昭和五年八月、『文藝春秋』に「厳流島」という随筆を発表した。さらにまた、昭和二十四年、「厳流島後記」を発表している。

なお立身流では、心身の機能の最大限に自由自在な活用を体得させる手段として、古来から居合数抜き三千本、剣術立ちきり三千本の猛稽古を実施し、それを通した者には、さらに一万本の荒修行を課して、如何なる困難苦境にも堪え得る剛強な剣士を育成したのである。

立身流の深夜霜を聞くの心境、即ち無我、無念無想の境地を二天一流の宮本武蔵は、兵法三十五箇条の最後の項に、「萬理一空の事」という語句で表現している。そして註に、「萬理一空の所、書きあらはしがたく候えば、おのづから御工夫なさるべきものなり」と結んでいる。まことに傾聴すべき至言である。

立身流に於る独稽古 ~再び立身流門へ

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和2年(2020年)5月10日 掲載(禁転載)

新型コロナウィルスの世界席捲が続いています。
以下、主に初心者向けに記します。

第一、目標

最終目標は「我心體自由自在(わがしんたいじゆうじざい 立身流秘傳之書)」です(なお、立身流第19代宗家 加藤 久 論考「居合術の目的と其の修行」を参照)。ここに達すれば「心目體用一致」(拙稿「立身流に於る「…圓抜者則自之手本柔ニ他之打處強之理・・・」」参照)が実現できます。
しかし、だからといって先走り、特殊状況を設定し敵の攻撃変化を種々想定してこれに対応する方法を研究するようなことはしてはいけません(拙稿「立身流に於る形・向・圓・一心圓光剣・目録「外」(いわゆる「とのもの」の意味)参照)。個癖を増やして定着させるだけです。いたずら、遊び、としてたまに楽しんでみるだけならいいかもしれませんが、稽古してはいけません。稽古はあくまでも基本を求めてください。
後掲の道歌中にある「工夫」の意味や対象を取り違えてはいけません。その前に「数を抜いても」とあるとおり、数抜についての、ということは向圓での動きについての工夫を本来は求めているのがこの歌です。

第二、立身流での独稽古についてまとめてみます

一、主な項目
立身流の内容は全て独習可能です。普段も各自が行っているはずのものですから、その延長と考えてもらえれば十分です。
次に主な項目を挙げてみます。

(一)居合
既に示し、後記にもある「日々夜々に~」の歌のとおりです。

(二)数抜 (かずぬき)
居合立合表破の向と圓を交互に抜きます。
前に歩きつつ抜刀し斬ります。
後へ退きさがり歩きつつ納刀し、元の位置に戻ります。
発声は、抜刀しつつ「ヤー」、斬りおろしつつ「エーイ」です。
拙稿「立身流に於る形・向・圓・傳技・一心圓光剣・目録「外(いわゆる「とのもの」)の意味」を参照してください。

(三)礼法
拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」記載のとおりです。

(四)観取稽古
拙稿「立身流に於る「観取稽古」」記載のとおりです。
動画や写真を研究して観取ることもできます。
私の動画などを利用し、真似をしてはならない点等を含め、研究してください。

(五)足蹈 (あしぶみ)
拙稿「立身流に於る足蹈と刀の指様」及び「立身流剣術表(之形)に於る足どり」記載のとおりです。 

(六)各種形や桁打・旋打・廻打
剣術、鎗、棒など各種形や拙稿「立身流に於る桁打、旋打、廻打」記載の受方仕方を別けての一人稽古。また各種目の基本稽古。

二、注意
独稽古を長期間続けていると、必ず個癖が生じます。
個癖が拗れて修復不可能となる前に師匠の指導を受けて矯正してください。

第三、独稽古の方法の工夫

各人の修行程度に応じた工夫を、各人それぞれがしてください。

一、本身を使うのが無理ならば模擬刀を、これも無理ならば木刀を、大刀が無理ならば小刀を、これも無理ならば扇子を、扇子もなけば何も持たずに。腰の動きに特に留意すること。
長物や俰も。俰の受身や体捌。

二、そして例えば、一日一度は刀を抜く。抜かなくとも,柄を握る。木刀、撓の柄を握る。握らなくとも触る。触らなくとも握った手をつくってみる。イメージ・トレーニングをする。

三、日常生活での動きを武道の動きとする。例えば立った姿勢、座った姿勢、歩き、手の内。

第四、

私にも、長期間稽古の時間が取れず、所謂イメージ・トレーニングだけですごした時期があります。そのとき、伯父の加藤貞雄第20代宗家や長野弘師範から「久しぶりに見たら、稽古の機会がなかったのに、強い思いだけでとてもよくなった。」と同じようなほめかたをされ、うれしかった経験があります。
皆さんも一日一度は立身流を想ってみてください。それだけでも上達します。

第五、

令和2(2020)年3月24日に示した4首の立身流道歌を、クレール・シモン立身流フランス支部長がフランス語に訳し、支部員に伝えました。これを次に掲げます。
哲学者のクレール氏(上傳・直之巻迄の5巻允許)は、夫君の人類学者ピエール・シモン氏(上傳・変働之巻迄の6巻允許、平成26(2015)年5月3日逝去)と共に先代高宗家以来の流門であり、ピエール氏の設立した支部を引き継いで頑張っています。

立身流歌、フランス語訳、 2020年4月
クレール・シモン (Claire Simon)

1 –
日々夜々に
向圓を
抜ならば
心のままに
太刀やふられむ

Si jours et nuits
Vous dégainez
Mukô et Marui
Vous pourrez manier le sabre
Comme vous le voudrez

2 –
鬼にても
負けじと思ふ
心にて
わが身の術を
獨りみがかむ

Avec à l’esprit
L’idée de ne pas perdre
Même contre un monstre
Il faut perfectionner seul
Sa propre technique

3 –
怠らず
数を抜いても
工夫をも
せずば稽古の
いかで上がらん

Bien que sans relâche
Vous multipliez le nombre de dégainages
Sans vous poser de questions
Comment pourriez-vous progresser
Dans la pratique ?

4 –
習ふべき
師には細かに
尋ぬべし
問はぬ心は
いかで志らせん

Il faut poser des questions
Précises au maître
Auprès duquel vous apprenez
Comment pourrait-il connaître
Le cœur de celui
Qui ne le consulte pas ?

以上

日本伝統武道に於る形と型 ~立身流を例として

立身流第22代宗家 加藤 紘
[令和2年(2020年)1月5日 掲載/同4月14日改訂(禁転載)]

第一、はじめに

本論考は立身流に於る「かた」の語並びにこれを表す「形」及び「型」の両字の意義、ひいては日本の古流武術武道でのそれらを探るものです。
とはいっても、そもそも、立身流で使われる字は「形」のみで、古文書を含め「型」の字の使用例は皆無です。
立身流では型の字は一切用いません。
私の知る限り他流を含め武道関係の古文書の手書で「形」の字はよくみますが「型」と記されたものをみたことはなく、その使用例はありません。
ところが現今、古武道関係者の間でも「形」でなく「型」を使う例が多くなっています。
なお、古武道流派によっては形と同じ意味読み方で他の漢字(勿論、「型」でなく)を充てる場合や、形の意味で他の語を使用する場合もあります。

第二、形の意義および立身流での用字例

一、まず、立身流ひいては日本武道での形の意義につき述べます。
拙稿「立身流について」(初出 平成17年9月1日千葉県芸術文化団体協議会会報)で次の様に記したとおりです。
「…形は、動作の決め事で、闘いの経過を技毎に類型化したものである。師が撃ちかかり、門人がこれを対処する形式をとる場合が多い。一般的に、流儀の違いは形の違いに基づく面が大きい。
闘いでは、あらゆる事態に対応し、敵のどのような動きも制しなければならない。その種々雑多な動きから、すべての動きの素となる基本の動きが抽出され、純化される。これが形である。形は単純の中に千変万化を含んでいる。簡素の中に絢爛を包含している。そして、その洗練された動きが様式美を生み出す。…」「形には教育課程としての意義もある。…」

形は「…敵ニ因リ轉化ス…」(立身流第11代宗家・逸見柳芳「劍術抜合理談」)る源です。
なお拙稿「立身流に於る 形・向・圓・傳技・一心圓光剣・目録「外」(いわゆる「とのもの」)の意味」(平成26年8月3日)を参照して下さい。

二、立身流での用字例
立身流傳書15巻(いわゆる正傳書)に「形」の字そのものは出てきません。勿論「型」の字もありません。
しかし「立身流刀術極意集」などの古文書には随所に「形」の字が使われています。単語としても例えば「表形」(おもてのかた)、「五合之形」(ごごうのかた)、「形試合」(かたしあい)、「柔術表形居組」、「柔術表形立合」等の記載があります。
他方「型」の字の記載例は一切ありません。

第三、指定無形文化財の指定対象としての立身流の記載

一、千葉県及び佐倉市による指定無形文化財の保持者は個人ですが、無形である指定対象の名称についての表記は次のように変遷しています。

①1966年(昭和41年)9月26日 千葉県佐倉市指定 
 保持者  加藤貞雄  加藤 高
 名称   佐倉藩伝承武術立身流居合

②1978年(昭和53年)2月28日 千葉県指定
 保持者  加藤貞雄  加藤 高
 名称   立身流の形

③1985年(昭和60年)11月29日 
 保持者追加認定  加藤 紘
 名称   立身流の形 を 立身流の型 に改める

④2009年(平成21年)3月17日
 名称  「立身流の型」 を 「武術 立身流」 に改める 
 
二、千葉県教育委員会による文化財調査報告書
1、上記第三、一、③記載の名称の変更は、両保持者等立身流関係者と全く関係のない場所で行われ、その了解は勿論事前連絡もないまま、唐突に告示されたものでした。当時の保持者加藤高及び加藤紘は資料添付のうえ、「型」の文字を「形」に戻されるべく直ちに申入れ、その後も申入れを続けました。その結果④の変更に至るのですが、その経緯については平成19年10月30日行われた私への聴取などの調査をふまえた文化財調査報告書が千葉県教育委員会から公表されています。そこに示された(経緯)と(検討結果)を次の2、に転記します。
ただ、名称が「立身流の型」とされていた間も、立身流に関しては千葉県関係を含め、全ての場面で「形」の字を使用する事実上の取扱がなされていました。千葉県の指定名称表記はそれとして、立身流としては歴史的真実に沿った表記をし続け、県もこれを認めていたということです。

2、文化財調査報告書(調査日:平成20年1月、調査:事務局)
〈経緯〉
「天真正伝香取神道流の型」が昭和35年6月3日に、「立身流の形」が昭和53年2月28日に指定される。昭和60年10月16日の千葉県文化財保護審議会において、「立身流の形」および「天真正伝香取神道流の型」の保持者追加認定について諮問・審議がされ、その際に「型」「形」を「型」に統一した方がよいという意見が出された。審議の結果、学問的な立場からは「型」が妥当であるとの考えから「型」に統一されることとなり、昭和60年11月29日付けで「立身流の形」を「立身流の型」へ指定名称を変更した。その際にそれぞれの武道の歴史的な経緯や保持者の意向等が確認されなかったことから、その後、立身流の伝承者から「型」は間違いであり、「形」に戻してほしいとの要望が、再三出される結果となった。平成19年10月30日に審議会委員による調査を行ったところ、「形」は実戦の千差万別の動きをすべて象徴的に内包しているもので、立身流のみならず武道では、伝統的に「形」の字を用いてきたものであるとの説明があり、「形」という字にこだわりを持って使用しているので戻してほしいとの意向が、改めて示された。11月12日第二回審議会で両流派の「型」を「形」に変更する案を提出し、審議の結果、さらなる経緯の確認や他の指定文化財との整合性を図る必要性が指摘され、さらに事務局で調査を重ねることとなった。

〈検討結果〉
改めて「香取神道流の型」保持者の意向を確認したところ、香取神道流でも元は「形」であったが、近年では一般的な書物で「型」が使われる場合が増えたため、指定名称にも異議を唱えてこなかったとのことであった。武道家の著述においては、「形」を「カタ」と読み、すべての動きの源、実戦の千差万別の動きをすべて象徴的に内包しているものとして、固定的な鋳型としての「型」と区別することにこだわる記述を、数多く確認することができる。ただし一方で、文化人類学で「文化の型」というとき、「型」は観念的、精神的なものまでも含めた様式・類型という意味を持っている。「形」が外面的な形象をあらわし、「型」が象徴的・規律的なものも含むと考える学問的な立場もある。国の無形文化財指定では「特定の型や技術」を対象とするのだと説明されており(昭和29年通達)、この「型」は精神的な営為を内包するものという。立場によって用法の異なる言葉を指定名称の中に含む以上、衆人の納得いく名称とはなり得ない。
また、「型」を「形」に置き換えたとしても、「形」はある流派の武術全般をさす言葉にはならないと考えられる。伝統武術では「形」を学ぶことが修業のほとんどすべてであり、「形」には精神的・象徴的にその流派のすべてが示され、そしてその流派を流派たらしめるものが「形」なのだとのことであるが、それでもあくまでも「形」は「形」であり、武術全般イコールの言葉ではない。県が指定対象とするものは、ひとつひとつの「形」「型」として示されるもの総体である以上に、その流派の歴史・精神・技すべてを包含する武術総体であり、「型」「形」を指定名称から削除するほうが、より誤解のない表現になる。
とはいえ「天神正伝香取神道流」「立身流」とすると、各流派の団体組織のあり方が指定対象だととらえられる心配が生じ、また何の流派なのかがわかりにくくなる。そこで、「古武道」「武道」「武術」等の分野を示す言葉をつけることが必要となる。ただし「古武道」「武道」は、大正期以降に政治的な意図をもって導入され普及した言葉であることから、立場によってとらえ方に相違が生じ、新たな問題を生じかねない難しさを持つ。そこで、明治以前に一般的名称であった「武術」を採用したいと考える。流派の前に、分野を示す言葉として添付することとし、「武術 天神正伝香取神道流」「武術 立身流」とするとともに、「式正織部流茶道」は、「茶道式正織部流」として、名称に統一をはかることとする。

第四、「形」「型」について論述した他の文献

一、「形」及び「型」の双方に触れた手元にある文献をみてみます。

「剣道「形」の眞髄」東京高等師範学校助教授 佐藤卯吉(昭和9年(1934年)11月25日発行「武道宝鑑」 編輯兼発行者 野間清治 大日本雄辨会講談社 91頁以下所収)
「眞の意味の『形』は單に枯死せる型に終る可きでない。」
「又折角、今日『形』を遣ふ人はあっても、所謂『型』になって定められた約束に從って太刀を打つ眞以をするといふに止まって、内に活動する生氣に乏しく、形式的技術は如何にも巧妙であるけれ共、之れに伴う氣分の發辣壮大なるものなく、何となく小さい感じのするものがすくなくない。」

「日本伝統武術真諦」(小佐野 淳 平成元年(1989年)11月25日 株式会社 愛隆堂)253頁以下
「伝統武術の形は、現在の空手道のいう型とは異質である。伝統武術の形は、流祖及び各先達が生と死の境地をさまよい、真剣に行じてきた永年の「業の集積、心の集積」としての形である。それに対して、「型」は「いがた」と解し、規格にはまった、個性のない、変化に乏しい同一のものを型と称する。従って古流においては型という文字は用いない。…」

「鹿島神伝直心影流極意伝開」(石垣安造 1992年5月25日 株式会社新樹社)267頁以下
「「形」の字を用い、カタと云う。形は動を伴うものであるから「型」の字を用いたり、カタチと云ってはいけない。これは口伝である。」
「然るに形というものの真意を解せないでいる人が相当に多く、それ等の人々は形を単に型(カタチ)と解釈したり、形の一手々々が何の為に使われているか、その理由さえ辨えずに執行している。」
「…御両者共に「型」の字を用いているが、正しい法定は「形」の字を用い、「型」の字は絶対に用いてはならないと云う口伝がある。」

「日本剣道形の理論と実際」(井上正孝 平成11年(1999年)11月1日(株)体育とスポーツ出版社)24頁
「形は雛形(ひながた)であり、実物より小さい見本で、これには伸縮自在の生命力がある。
型は鋳型(いがた)でありこれは固定的で融通性がなく、その生命がない。したがって日本剣道形は型ではなくて、形と書くのが正しいとされている。

「武道の礼法」(小笠原 清忠 平成22年(2010年)2月10日 財団法人日本武道館)62頁
「「形は生きており、心が通っていることが大切です。「型」は心のない状態であり「形」ではありません。鋳型のように型にあてはまるということは、あくまでも手段にしか過ぎません。」

「武道とは何か――その歴史と思想を探る」【第9回】伝統文化の伝承と「かた」について 天理大学体育学部教授 湯浅 晃(月刊「武道」2016年9月号53頁以下所収 日本武道館)
「そもそも、鋳型の「型」という漢字が日本に入ってきて、それを「かた」と訓読され、それが一般化されたのであるが、文化の領域で「型」という語が使われたのは明治以降であるという。」
「武芸の伝書等においては、「形」「各」「組」「太刀」「組太刀」などの用例がみられるが、現代武道においても、「剣道形」「柔道形」など「形」という漢字が使用されており、「~型」と称した「かた」を筆者は知らない。」

二、上記の各論述はその表現に相違はありますが、ほぼ同一の趣旨を示しています。
これに対し、日本伝統武道に於て、歴史的に「型」の字が使われていたとする論証を私は知りません。

三、ちなみに、他の文化の領域で「形」という字が使われる例を探してみますと、世阿弥著「風姿花伝」があります。
岩波文庫版での同書(株式会社岩波書店1958年10月25日発行 校訂者 野上豊一郎・西尾実)では、「形木(かたぎ)」の語が8ケ所(36頁に1回、52頁に1回、71頁に1回、72頁に1回、74頁に3回、98頁に1回)に示されています。
52頁には「稽古とは、音曲・舞・働き・物まね、かやうの品々を極むる形木なり。」とあり、まさに武術武道での「形」の意義と重なり合います。
この「形木」は、同書81頁から83頁及び87頁にわたり4カ所に示されている「本木」と対になる意味合とも解釈できます。同書には他に「翁形」(26頁)「形」(86頁)の語がみられます。
しかし、同書の本文に「型」の字は全く使われていません(72頁の校訂者による脚注には「型」の字がみられます)。

第五、空手等の沖縄古武術(琉球古武術)についてみてみます。

一、「形」と「型」の捉え方 
この分野では「かた」の字に「型」が充てられる場合が圧倒的です。
「形」の字も使われていますが、この両文字の相違への意識は薄く、当然のごとく「型=形」とされています。例えば「武道とは何か」(南郷継正 1977年12月31日 株式会社三一書房)133頁での表題は「第一章 武道と型=形 ――型=形の本質は何か――」とされています。
他方、「本土では、組手だけでなく、型の「競技化」も進み、型という字も「形」に変更される、…」(「型(形)を考察する」小山正辰 月刊「武道」2019年1月号106頁以下所収)、「型をもつ武道には、主に、剣道、柔道、合気道薙刀などがある。いずれも空手の型とは概念も扱われ方も違う。そのせいか、現代武道では″型″ではなく″形″の字が用いられている」(同論文内での新里勝彦「沖縄の空手と『型』について」と題する論考からの引用)というような言い方もされています。

二、考察
1、沖縄古武術の特徴
沖縄古武術は歴史的に独自の発展を遂げており、本州の武道と系統が異なります。
その特徴の中から次の二点をとりあげてみます。

①「手」
 「…もともと沖縄には「手」という呼び方しかなかった…」(「空手道一路」松濤 船越義珍 昭和31年(1956年)10月1日 産業経済新聞社55頁)

そして
「空手の場合、伝統的な理解は《手》=″武術″である」
「《手》は武術であると同時に型でもある」(以上、前掲小山正辰「型(形)を考察する」文内での新里勝彦論考からの引用)

すなわち、空手において現在「型」と表現される語の本来の語は「手」であって、歴史的に「型」(「形」)の字は使わなかったわけです。

②空手には本来流名がなかったことは拙稿「日本伝統武道の流名・呼称・用字 ~立身流を例として」に述べたとおりです。
形はその流儀の存在と流儀間の相違の大きなメルクマールとしての機能もありますから、流儀概念のない場面すなわち沖縄の空手には形の概念もなかったと推認できます。

2、沖縄古武術に関する結論
結局、空手にはもともと、「かた」という語や「型」や「形」の字の使用はなく、おそらく本州での「形」に該当する概念もなかったのではないかと思われます。

第六、総括

以上、日本の本州の古流武術武道には「形」がありますが「型」はありません。
それにもかかわらず、現在、古武道関係者においてさえ「型」の字が多用されるのは次の理由によるものと考えられます。

①明治に入っての活版による印刷での誤植による流布が始まった。
②大正期に本州に紹介され昭和に入って大きく飛躍した空手の関係者が「型」の字を多用したため混同に拍車をかけた。
③第二次大戦およびその後の武道空白が、原史料と伝承者の減少を来し、後継者の記憶や感覚を薄れさせた。

その結果が現在の状況を来しているのではないでしょうか。
「慣行知識の習得と伝承」の重要性があらためて認識されるべきです。

(参考)
立身流入堂訓 第二条 
常に向上の念を失わず先達者に就いて絶えず個癖の矯正に心がけ正しき立身流の形及び理合並びに慣行知識の習得と伝承に心がけよ

以上

日本伝統武道の流名・呼称・用字 ~立身流を例として

立身流第22代宗家 加藤 紘
[令和元年(2019年)12月1日 掲載/令和3年(2021年)1月19日改訂(禁転載)]

第一、立身流の流名は「立身流(たつみりゅう)」です。

立身流傳書十五巻の各巻物のそれぞれの名称は、拙稿「立身流傳書と允許」に示したとおりです。
そこでの例えば「立身流序之巻」、「立身流立合(たちあい)目録之巻」、「立身流居合(いあい)目録之巻」、「立身流俰(やわら)目録之巻」、「立身流直(ちょく)之巻」、「立身流俰極意之巻」、「立身流極意之巻」などの名称を通覧してください。
すぐお分かりでしょうが、立身流の流名は、巻名のすべてに共通して示されている「立身流(たつみりゅう)」です。
「立身流立合(術)」という流名はありません。「立身流居合(術)」という流名や「立身流俰(術)」という流名でもありません。
「立合」とか、「居合(術)」とか、「俰」という語は、立身流という流派の中での特定の一分野、特に形(「型」の字は用いません。拙稿「日本伝統武道に於る形と型~立身流を例として」を参照して下さい。)の上での術技の一分野を指し示すものです。
「立身流秘伝之書」、「立身流之秘」その他、立身流関係古文書でも「立身流」と記載されます。

第二、立身流(たつみりゅう)に付加される各種名称

流名の「立身流」に「藝術」「兵法」「居合」「剣術」「俰」その他の語が付加される場合があります。以下、それらの語およびその意味するところを探ってみます。

一、立身流の一分野を示す場合。

①「立身流居合(術)」
 立身流の居合には、立合(立った姿勢から始まる居合)と居組(正座から始まる居合)があります。組居合などの外は原則として独演形でありかつ敵の反撃を想定しません。「立身流居合目録之巻」での「居合」はこのような意味です。

②「立身流剣術」
 立身流での「剣術」の語は、後述する「刀術」から、上記①の居合部門を除いたものを指し示します。太刀(大刀)と小太刀があります。立身流では、太刀対太刀の形を剣術表(之)形 (おもてのかた) といい、太刀対小太刀の形を剣術陰(之)形 (かげのかた) といいます。五合之形(ごごうのかた)は双方を含みます。
なお、短刀、鉄扇、四寸鉄刀(しゅりけん)などはこれらを手に持った時の間合いの関係から俰に含まれます。
「立身流立合目録之巻」での「立合」は上記の「剣術」の意味です。
ところが、そもそも立身流の剣術の形には居合対居合や剣術対居合(これらでの「居合」は抜刀を意味します)の形も組み込まれています。独演系ではない居合が含まれているわけです。立身流の伝書に「立身流剣術目録之巻」というものがなく、「立身流立合目録之巻」及び「立身流居合目録之巻」であるのはこのような意味合いでしょう。
他方、歴史的には「剣術」の語で立身流全体の術技や、立身流だけでなく他流をも含めた武術全般を示すこともあります。
立身流での「立合(たちあい)」の語は、最広義では、立った姿勢での刀術(後述)と俰の立合を意味します。つまるところは立った姿勢での武技全般を示すともいえます。
その内の「刀術」は刀を使う武術、すなわち剣術と居合を意味しますから、刀術での「立合」は、一般に使われる意味での剣術(小太刀を含む)と、立った姿勢で敵が受方または仕方として存在する形である抜刀(小太刀を含む)と、立った姿勢から始まる独演系の居合とを示すことになります。

③「立身流小太刀(こだち)
 立身流剣術および居合のうちの小太刀です。小太刀対太刀の形が立身流剣術陰(之)形にまとめられています。他に鎗術(そうじゅつ)の小太刀合(こだちあわせ)その他があります。五合之形詰合や傳技の中などには小太刀の居合があります。

④「立身流俰」
 技の大要は立身流俰目録之巻にまとめられています。「居組」と「立合」に大きく分類される体系は居合と同じです。これに甲冑着用の技(素肌にも応用)である「組合」と口伝二ヶ条、更に心得を記した漢文とで立身流俰目録之巻が成立っています。
短刀、鉄扇、四寸鉄刀などが含まれることは前述しました。

⑤「立身流柔(やわら)」、「立身流柔術(じゅうじゅつ)
 第12代宗家逸見宗八(満信)などについての佐倉藩保受録等での記載に示される用語です。 
立身流術技の一分野の「俰」を意味します。

⑥「立身流鎗(術)(やり・そうじゅつ)
 鑓、槍、などと記される場合もあります。
⑦「立身流長刀(なぎなた)
⑧「立身流棒」
⑨「立身流半棒
(はんぼう)
 半棒は杖(じょう)とも記されます。
⑩「立身流四寸鉄刀(しゅりけん)
その他、例えば甲冑についての「立身流着具之次第(ちゃくぐのしだい)」など、立身流の名を冠した流内での種々の分野を示すその他名称があります。

二、立身流全体を、又は立身流のうち限定した複数の分野を意味する語。

これらは付加語としてだけでなく、立身流そのものを示す独立した語としても使われる場合があります。
①「兵法(へいほう、ひょうほう)
 立身流秘伝之書など古文書の随所にあらわれる語です。
この語のみで立身流を意味する場合と、他流を含めた武術全般を意味する場合があります。後記「藝(術)」とほぼ同じ使われ方です。
「立身流兵法」という語で立身流を意味する用法もあります。
「兵法」の読み方としては両方ありますが、「へいほう」が古くから本来の呼称です。
②「抜刀捕手(ばっとうほしゅ)
 第10代宗家糟谷団九郎についての保受録での記載に記されます。
③「居合柔術縄甲冑勝之業(じょうかっちゅうかちわざ)」  
 第13代宗家半澤喜兵衛や第16代宗家逸見宗八(満明)、第17代宗家逸見忠蔵の項の保受録などの記載に出てきます。
④「藝」「藝術」  
 立身流秘伝之書のほか、第14代宗家逸見新九郎(宗八満直)や第17代宗家逸見忠蔵の項の保受録などの記載にあります。前記「兵法」とほぼ同じ使われ方です。
⑤「刀術」 
 刀(太刀と小太刀)を使う武術、すなわち剣術と居合を意味します  
第11代宗家逸見柳芳筆の「立身流刀術極意集」が残されており、第17代宗家逸見忠蔵や半澤駒太郎(第18第宗家半澤成恒の幼名)の項の保受録や分限帳などの記載にも出てきます。
天保10年には、佐倉藩校成徳書院外附属演武場の取建により藩の刀術所が設置され、逸見忠蔵らが師範(刀術師範)となっています(分限帳、佐倉市史 巻二969ページ)。
⑥「剣術」
 前述しました。

第三、立身流名の変化した俗称など

一、誤った俗称

①立身流(りっしんりゅう)
 「増補大改訂 武芸流派大事典」(編者 綿谷雪 山田忠史、昭和53年12月10日発行。以下、大事典という)に「タツミと読む。」とあるとおりです。
国語(日本語)では、漢字が同じなら読みが変化し、逆に、読みが同じなら漢字が変化してしまうことがよくあります。「りっしんりゅう」は、この前の例です。後の例としては、立身新流 福澤諭吉の師が中村庄米とも中村庄兵衛とも記されたりします。

②立目流(たつめりゅう)
 佐倉藩保受録の第10代宗家粕谷段九郎の項に「立目流」の語が記されています。
立身流の「身」の発音が「み」から東北弁の「め」にかわり、「め」が「目」と記されたもので、誤記です。
拙稿「立身流傳書・古文書等での東北弁表記~「手舞足蹈處皆一物」等に関連して」を参照して下さい。

③立心流 (りっしんりゅう)
 「剣術教範詳解」(陸軍戸山学校剣術科著 昭和十年十二月二十日発行 昭和十四年二月十五日四版発行)に記された誤記です。立身流を「りっしんりゅう」と読み間違えた上での当字(あてじ)でしょう。
大事典では「立身流(たつみりゅう)の俗用」とされています。

④立見流(たつみりゅう)
 佐倉藩保受録の第13代宗家半澤喜兵衛の項に「立見流居合柔術」の記載がみえますが誤記です。
但し、現実に存在した「立見流」もあります。忍(おし)藩の立見流についての後記を参照して下さい。

二、必ずしも誤りとは言いきれない呼称

①立身三京流(たつみさんきょうりゅう)
 大事典では「立身流のこと。」とされています。使用例としては、立身流第19代宗家加藤久の弟子の塚本清著「あヽ皇軍最期の日―陸軍大将田中静壱伝」(日本出版協同1953年12月20日発行)の奥書の著者略歴にみられます。
②立見流 (たつみりゅう)
 忍藩では「立身流」の表記が「立見流」に変化してしまいました。忍藩での立身流は「立見流」です。拙稿「立身流の分流」を参照してください。

第四、他組織での立身流の呼称

一、日本古武道協会(以下、協会という)での呼称

1978年(昭和53年)2月19日に日本武道館内に発足した協会では、流名呼称に「〇〇流△△術」というような表記方法がとられ、この表記方法が日本古武道振興会でも採用され、現在は一般社会的に日本武道の流名の正式な呼称はこのようなものであると認識されるようになっています。しかし例外はあるにしても、この認識は誤りです。「立身流は「立身流兵法」が正式呼称であって「兵法」だから総合武道なのだ」と言う方がいますがこれも誤りです。立身流は立身流です。
手元にある日本武道館(及び協会)主催の日本古武道演武大会のプログラムでも第4回1981年(昭和56年)の頃までは「立身流(剣術)」となっていて流名とその大会での演武内容を併記している様が明確です。第7回1984年(昭和59年)には「立身流 居合術」となっています。
ところがその第7回大会頃から、目次や伝承地を日本地図に示す際に「立身流居合術」等と記載されるようになったことから混同が始まったようです。
特に協会事務局長を永年勤められた花輪六太郎先生が実質取りまとめられて1989年(平成元年)8月1日に発行された「 日本古武道総覧」(編者 日本古武道協会 発行所 (株)島津書房)が古武道流派を「柔術・体術」「剣術」「居合術・抜刀術」等々に振り分けた体裁をとったのが一つの契機と思われます。この本で立身流は居合術に分類されました。本文では「立身流(居合・剣術・俰・鎗術・棒術・半棒・長刀・捕縄・四寸鉄刀)」となっています。
そしてその頃以降、一般にわかりやすいように分類区分けした表示を流名に付加する様求められることとなりました。
立身流は総合武道のまま維持されていますからその一部のみを特記した流名を付するわけにいかず、苦慮した結果、一般への説明を念頭においた「武術」との表記を一時したのですが、さらに歴史的事実に即して「兵法」として現在に至っています。

二、日本古武道振興会(以下、振興会という)での呼称

1、「日本古武道振興会概要(自昭和十年二月 至昭和十四年十二月)」(平成二年七月一日発行 日本古武道振興会創立五十五年記念誌156頁以下に立身流第21代宗家加藤高の提供による資料2として転載)は振興会の発会から1939年(昭和14年)迄の事跡が詳細に記されています。そこでの記載は全て「○○流」のみであって例外はありません。立身流も「立身流」との記載です。

2、立身流の現在の表記は、振興会でも一時期使われた「立身流兵法」ではなく「立身流」とされています。その件についての申請書に経緯を述べましたので、その全文を転記します。

申 請 書

平成29年4月5日

日本古武道振興会御中

立身流第22代宗家 加藤 紘

第1 申請の趣旨
   日本古武道振興会に於る立身流についての表記を
   「立身流兵法」
   から
   「立身流」
   へ訂正なさるべく申請いたします。
第2 申請の理由
 当流の名称は本来「立身流」のみであったところ、昭和54年2月17日設立の日本古武道協会に於て、当時の花輪六太郎事務局長が一般の方々にわかりやすくするため、各流儀名の下に種目を表示した上で流儀名を示す方法をとりました。例えば〇〇流剣術とか××流柔術とかという具合です。
 立身流は総合武道のため上記の例のような表記はし難く、古来使われた表記方法の一つの「兵法」を加える形とし、立身流兵法としました。
 平成2年7月の日本古武道振興会創立55周年記念日本古武道大会の際に作成された記念誌に於いて、編集を担当された齋藤聰先生が、流儀の表記方法を古武道協会と同一にする方向をとり、以降立身流は「立身流兵法」と日本古武道振興会に於いても表記されております。
 以上の次第で、この度当流儀の表記方法を歴史的に真正なものに回復致したく申請するものであります。

以上

3、なお、振興会設立の経緯および時につきふれます。全て松本学先生の主導の下に行われています。
「松本学日記」(編者―伊藤 隆・広瀬順晧 1995年2月20日山川出版社発行)及び前出「日本古武道振興会概要」によると、1935年(昭和10年)1月21日に会設立の話が始まり、2月3日の第一回発起人会で会設立が決し、2月22日の相談、3月3日の第二回の発起人会を経て、3月16日の委員会で4月1日の発会と日比谷公会堂での諸流流祖祭および奉納形大会の催行が決定、昭和10年4月1日に予定通り日本古武道振興会が発会しました。

三、千葉県及び佐倉市による指定無形文化財での名称流儀名は「立身流」です。

前出拙稿「日本伝統武道に於る形と型~立身流を例として」を参照して下さい。

第五、例外

一、日本武道の中でも、空手などの沖縄武術(琉球武術)は独自の発展を遂げており、本来流名はありません。
「空手道一路」(松濤 船越義珍著 昭和31年10月1日産業経済新聞社発行)61頁には次のようにあります。
「…空手には、改まった流儀というようなものはあるべき筈がない。…この際は全てを「空手道」と呼称した方が、将来の発展のために適切…。よく私達の同門のことを、「松濤館流」などという文字を使って呼んでいるのを聞くが、…私としてはどうも頷けないのである。」

二、日本武道の傳書古文書に「〇〇流兵法」というような形式の表題がつけられたものが存在します。その呼称の意義についてはそれぞれの流派内の研究によるものでしょう。

第六、1930年(昭和5年)当時の流名表記

ここに1930年(昭和5年)11月3日及び4日にかけて行われた「明治神宮鎮座10年祭奉納武道形大会順序」の写しがあるので掲載します。
ここでの記載は、演武順序、武道名、流派名、演武者氏名、府縣名ですが、流派名は例外なくすべて〇〇流の形式です。
立身流は勿論「立身流」です。
義珍先生に関しては、第一會場第一日之部で演武順序が「17」、武道名が「唐手術」、流派名が「昭霊流少林流」、演武者氏名が「富名越義珍」、府縣名が「東京府」となっています。
なお、第一會場第二日之部の演武順序「17」で武道名が同じ「唐手術」となっている演武者氏名「新里仁安」の府縣名は「沖繩縣」ですが、流派名は空欄となっています。また、演武順序「36」小西康裕先生の武道名は「唐手拳法」とされており、流派名はやはり空欄となっています。

第七、提言

戦後の古武道の復旧回復成長期に、一般向けの説明広報を意識し、わかりやすく流儀名と演武内容を一体表記した流名呼称を画一的に使用したことはそれなりに意義あるものでした。
しかし、古流流儀名はその内容技とともにその古流流儀の存立自体を意味する重要なものです。その流名自体が歴史的文化的意義を持ちます。現代になって変えるべきものではなく、本来的に変えてはならないものです。
今は既に流名とその実技内容との対応関係はある程度浸透したものと感じられます。インタ―ネットが普及しその確認作業も簡単にできます。
今後は歴史的に真正な名称に回帰すべきです。たかだかこの40年来の間に、○○流△△術というような呼称が正しいと古武道関係者の間にさえ認識されるようになってきました。このような誤解が定着することは避けなければならないと考えます。少なくも明治時代初期の呼称に戻すべきです。
そもそも○○流は〇〇流であって〇〇△△術流ではないのですから用語上も当然でしょう。
必要ならばその都度、その演武会での演武の種目内容を流名とは別に示せばいいのです。
ただここで一つ注意すべきは、ある流儀の歴史的名称は必ずしも単一ではなく、時代により、或いは人により、様々に変化している場合があることです。
現代でも変化させざるを得ない場合があるでしょう。

以上

立身流古文書に於る 不合理的表現の合理性

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和元年(2019年)7月1日
[令和元年7月11日掲載/令和2年12月27日改訂(禁転載)]

第一、はじめに

 立身流は1500年代の初頭、永正年間に創始された古い流派です。その傳書や古文書、歴代の研究などは、それぞれの時代の感覚や常識を背景に、その時々の先端知識を反映させています。 そして、その時々の研究成果の表現方法は、それぞれの時代のいわゆる時代的制約の下にあります。
 そのため、現代人が一読しただけでは、現代知識や現代感覚上ありえないだろうと即断しかねない記述もあります。
 しかし、その即断は現代人の浅はかな思いつきです。
 古人はあらゆることを合理的に考え、実践し、体系づけています。とくに勝敗という明快な結果をきたす武術武道においては、その利合(理合)を徹底的に追究せざるをえません。その追究方法はその時代時代の下での合理的知識感覚手法によります。
 例えば理数関係を見ても、立身流三四五曲尺之巻の解釈理解にピタゴラスの定理が応用されてその図が示されていたり、距離測定に数学の相似形が利用されたり、松明や火薬の原料、薬の化学的調合法が事細かに記されていたりしています。
 武道武術に、たまたまの勝ということがあっても摩訶不思議で理解不能な勝というものはありません。「曰く言い難し」というような技はありません。摩訶不思議にみえる勝があっても、それは心法を含めた意味での技(業)によるものであり、正確な技の錬度の違いによるものです。その技(業)は、つきつめれば単純なものですが、それは鍛錬しなければわからず、見えず、できません。これが武術武道の技(業)です。摩訶不思議で人が理解できない技(業)というものはありません。
 立身流に於て「理」は「利」であり、「理合」と「利合」は漢字でのニュアンスの違いはありますが意味は同一です。 現実的合理的に利合(理合)をつきつめた結果の合理的な内容を説明するとき、古人はその表現方法を時代的制約の下に置かざるをえず、一見不合理にみえるだけです。 我々は、武道関係の古文書等で、一見あり得ないような表現、一見矛盾するような表現に遭遇した場合には、その表現で何が意味されようとしているのかを慎重に探らなければなりません。単なる迷信と簡単に片付けてしまってはいけません。 他方、無理に理屈をつけ、未熟で浅はかな現代的思いつきをこねくり回して仕立て上げた「理論」をとうとうと述べる方がいらっしゃいますが、それも論外です。
  以下では立身流関係文書で一見不合理とみえる表現の具体例をいくつかみてみます。
 なお、私の論考自体、時代的制約のもとにあるものです。

世磐広し折によりても替るへし 我知る計りよしと思ふな [立身流理談之巻]

第二、立身流傳書や古文書での具体例

1、「夢の裡に体得」
 立身流の古文書や関係傳書によると、流祖立身三京は必勝の事理を求めて濃州妻山大明神に祈念して37日目の暁、夢の裡に分明し向圓の秘術を得た、とされます。後に第7代宗家大石千助も同様に参籠修行しています。 流祖の前に妻山大明神そのものが現れたわけではありませんが、いわゆる神傳流儀のひとつです。
 これを「こんなことはありえない」と切捨ててしまう人がますが、それは誤りです。仮に、妻山大明神そのものが現れた記述があったとしても誤りではありません。 これは現実そのものを意味します。自らを精神的心理的身体的に長期間に亘りぎりぎりまで追いつめて術理を求めた結果、幻覚をも含めた現実の瞑想状態下で、精神的心理的身体的に開眼したのです。 心法も技法も、疲れ果てた状態下で更に求め続けなければ本物は得られません(拙稿「立身流に於る「…圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理…」」参照)が、その結果の、神の啓示の形をとった一種の宗教体験とも言えるかもしれません。 立身流第18代宗家半澤成恒先生の立身流への絶対的態度や信頼の思いは信仰そのものでした。

2、立身流立合目録之巻の「陰 五个 有口伝」(拙稿「立身流傳書と允許」参照)の中から挙げてみます。拙稿「立身流に於る精神統一法」で既に触れたものもあります。

(1)その第一項は「小用」あるいは「小スイ」といわれるものです。 これは体験的にも多くの人に理解しやすいでしょう。 その内容は拙稿「立身流に於る精神統一法」「立身流立合目録之巻陰五个口傳より(その1)」に記しました。「山坂登リ下リノトキ」を一例とするので「山坂」とも称されます。

(2)その第二項に「サムケ」というものがあります。
 「陰五个口伝之分」(逸見柳芳書「立身流刀術極意集」)によると、これは 「敵人我ヲ討タント道筋伏勢有之時ハ裾ヨリサムケ立狐狸之為ニサムケ立ル 類ハエリモトヨリ立也若主用ニテ不得止事時ハ其心得ニテ通ル事私用ニテハ 通ル不可也可心得(てきびと われをうたんと みちすじ ふせぜい これ あるときは すそより さむけだつ。こりのために さむけたつる たぐい は えりもとより たつなり。もし しゅようにて やむことをえざるときは そのこころえにて とおること。しようにては とおるべからざるなり。こころうべし。)となっています。
 これを「狐狸」の語が使われているからと言って、即「迷言」などと言っ てはいけません。着物の裾から寒気立ってくるのは、我が五感で身を低くし ている伏勢の気配を感ずるのだから実害がある。しかし、襟元からぞくぞく するのは狐狸の所為、すなわち気のせいで実害はないから放っておけばよい、 ということなのです。
 頭上からの攻撃の可能性がある場合については、拙稿「立身流に於る下緒 の取扱」に記した「立身流立合目録之巻 外 門戸出入之事」の項を参照し て下さい。

(3)その第四項は「アワ」といわれます。
 「…小便アワ立様アワ無之時凶也アワ多クトモ凶我影移逆ナレハ凶也(…しょうべん あわだちよう あわ これなきときは きょうなり。あわ おおくともきょうなるは わがかげ うつる さかさなれば きょうなり)」(立身流刀術極意集)
 私のような田舎育ちの者には当たり前のことですが、屋外の堅い普通の土への小便は泡立ちます。すなわち、これは当たり前のことを言っています。「泡がたった、だから大丈夫だよ」と心を落着かせているのです。
 さらに念を入れて「太陽光で地面にうつる自分の影が逆さに見えるようでは、逆上して正気を失っているから、うまくいく筈がありませんよ。落着きなさい。」というのです。自分の影が逆さに見えるなどということは通常ありません。ですからこれも、「だから、安全無事ですよ」と気持を安心安定させているのです。

3、立身流居合目録之巻の「陰 五个 有口伝」の中から挙げます。
(1)その第二項は「呼吸」といわれるものです。拙稿「立身流に於る精神統一法」に説明しました。 そこに揚げた文章の前の部分は、「刀術極意集」によれば次のとおりです。
 「戦場平日共気付用心無之時戦ツカレ目マイ立クラミスル時刀ヲ杖ニツキ腰ヲ掛(せんじょう へいじつ とも、 きつけ(薬)のようじん これなきとき、たたかいつかれ めまいたちくらみするとき、かたなをつえにつき こしをかけ、)」となっています。その後に、「「目ヲトチ(閉じ)ホウ(頬)ヲナデナガラ呼吸ヲ一ツツヽカゾヘル也。自然ト心気治也(シンキヲサマルナリ)」と続きます。

(2)その第四は「錫杖(しゃくじょう)」といわれます。
 逸見忠蔵筆「立身流之秘」によると、「深山奥山…錫杖ヲツカイ入ルへシ…(みやま おくやま …しゃくじょう を つかい いるべし…)」となっています。
 錫杖から出る音で人間の存在を知らせ、猛獣や毒蛇を寄せつけないわけです。ひいては「ノフスマト云者有是ハコフモリノ大キナル有ノ如シ…(のぶすま と いうものあり。これは こうもり の おおきなる あるのごとし)」の「のぶすま」(立身流秘傳之書)や、さらには「変化(へんげ)」(立身流之秘)を寄せ付けずに獣害などを避けることができます。
 それでも害獣に襲われた場合は、その害獣の「面目鼻ノ間ニツキ息ヲ留ル(面や目と鼻のあいだを錫杖で突いて息の根をとめる)」わけです。
 錫杖から出る音が悪霊を追払う力があるとされるのは、このような意味あいでしょう。

(3)その第五は「息」といわれます。
 「門出スル時息キヲカク事其ノ息キ鼻之内ニ入レハアシ」(立身流之秘)
 寒い朝など吐息が白くなります。立身流第9代宗家竹河九兵衛から第18代宗家半澤成恒の明治まで、永きにわたり立身流と縁の深かった山形(拙稿「千葉の立身流」参照)の冬には殊更でしょう。
 家を出る時、白い吐息が鼻の内に逆流するときは、良いことがない、というのです。
 空気には流れがありますから通常このようなことはありえず、だから「平穏で大丈夫ですよ」と気持を安定させ、安心させているのです。

4、このようにみてきますと、立身流立合目録之巻と居合目録之巻の2巻で口伝とされるうちの上記した部分は、どれも気の動顚を防ぎ、心を安定させ、平常心を保つための記載です。武道武術にとって心・気持の制御がいかに大切か、目録の段階から示され、先ずは簡単なその方法が示されているのです。
 そしてこれらが、「立身流に於る「心の術」」「立身流に於る精神統一法」(いずれも拙稿)に連なっていくことになります。

第三、東北弁表記の影響

 立身流は山形と縁が深く、そのため東北弁表記、例えば「イ」と「エ」の混同による誤解や誤記が文書等にみられることがあります。
 これについては、別稿「立身流古文書等での東北弁表記」に記します。

以上

2019年 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部

千葉の立身流

立身流第22代宗家 加藤 紘
初出 一般財団法人千葉県剣道連盟
居合道部設立40周年記念誌「サムライたちの居合道」
平成30年4月発行
[平成30年6月23日掲載/平成30年7月9日改訂(禁転載)]

千葉県剣道連盟居合道部の設立前後、私は父の高の運転手役として、千葉市稲毛の志道(しぢ)吉次先生宅へ何度か伺った。
その志道先生のお誘いもあり、無段無級だった私は、受審の上での特認可能な最高段位の3段を昭和51年(1976年)3月30日付で授与された。審査での演武内容は古流、すなわち立身流の形だけであった。その後の昇段のない私にとって、この3段は非常に大切なものである。

立身流は千葉の流派といわれる。
確かに、戦前戦後を通じ、千葉県内に根を下ろした流派としては立身流が主であったと思われる。
その故もあってか、居合道部設立前から四街道の福永優先生他の流派の異なる方々が定期的に父の許を訪れ、居合道研究会を催していた。
大正2年(1913年)7月25日生まれの父は、昭和12年(1937年)5月の京都大会(武徳祭)で居合術錬士を許された。当時は居合道の名称ではなく、又居合術に段位はなかった。父は昭和20年(1945年)3月12日に達士(当時教士の称号が変更されていた)となり、そのまま段位を取得することなく、後、居合道無段範士となった。
この昭和12年武徳祭での居合術演武者は、範士が無想神傳流を称された中山博道先生お一人、教士が23名で千葉県からは私の祖父の立身流 加藤久のみ。錬士が76名で千葉県からは久の弟子である成田の立身流 加勢胖(かせゆたか)のみ。無称号者は132名中千葉県からは3名で、その一人がこの大会で錬士となる父であった。他の2名の先生方は、大森流の瓜生勘之丞先生と長谷川流の鈴木喜代司先生である。

立身流は佐倉藩で教授された刀術(居合と剣術)を含む総合武術である。他に俰(やわら)、鎗(やり)、長刀(なぎなた)、棒、半棒、四寸鉄刀(しゅりけん)などがあり、歴代允許され続けた傳書15巻の外、多数の古文書類等が相伝されている。
立身流が佐倉(現在の千葉市の相当部分は佐倉藩領であった)に根付いたのは1749年に第12代宗家の逸見宗八が佐倉藩主 堀田正亮に召抱えられてからである。実はその前1714年に第10代宗家 糟谷団九郎が当時山形藩主であった堀田正虎に出仕したが致仕(ちし)している。

立身流は山形と縁が深い。第11代宗家 逸見柳芳は「出羽ノ人」と明記されている。
立身流と堀田藩とは、堀田正俊が群馬県安中城主となった1667年ころ第8代宗家 山口七郎左衛門との間で縁が生じた。第9代宗家の竹河九兵衛は、1700年に安中から山形に転封された前記 堀田正虎と行動を共にしたとされる。
山形には明治まで佐倉藩の分領があり、山形市内に柏倉陣屋がおかれ、陣屋には刀術所が設置されていた。その稽古場で立身流が修業されていた。
立身流創流後の出生の林崎甚助に発祥する流れも同様に山形と縁が深い。この二つの流れは山形において交流があった様である。
立身流の道歌数は二百首を超えるが、その中に十数首程、林崎甚助系の流儀の道歌と表現の似る歌が散見される。

山形は立身流の分流の発生にも関係がある。
立身流の分流は、立身新流の福澤諭吉で有名な奥平家の中津藩、松平家の忍(おし)藩、酒井家の出羽松山藩その他に伝わったが、いずれも山形に領地を有したことのある藩である。それらの藩から他藩へ更に分流が派生している。中津藩とは、立身流第8代宗家 山口七郎左衛門も居住した群馬県での関係もあるようである。
立身流は永正年間(1504年~1521年)の、一説には1517年(他に、1509年、1515年、1518年とも伝承される)の創流と伝えられる。とすると本年で丁度500年である。
古文書によると、流祖 立身三京は濃州(岐阜県) 妻山大明神(つまやまだいみょうじん)に祈念して37日目の暁、夢の裡に分明を得た。後、第7代宗家 大石千助も流祖にならいここに参籠した。

立身三京は伊豫(愛媛県)出身であって、同じ出身の稲葉一鐡の別名だとの説があるが、年代的に比定すると三京は更に昔の人である。
ここに昭和5年(1930年)5月5日 大日本雄辯会講談社発行の「昭和天覧試合附録 武道寶鑑」がある。その巻頭に「日本武道家分布図」として日本地図が示されている。そこには、四国に青字で「立身三京(立身流)」と記されている。「青文字ハ柔道家」である。「仙臺」付近には赤字(剣道家)で「林崎甚助重信(抜刀流)」との記載があるが、長谷川英信などの名は見当たらない。ちなみに地図の裏面の傳系図には田宮流が示されている。

千葉の立身流は、山形の立身流であり、群馬の立身流であり、岐阜の立身流であり、そして四国愛媛の立身流でもあった。

平成29年10月筆

2018年 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部

立身流之形第二巻発刊によせて

立身流第22代宗家 加藤 紘
[平成30年4月14日掲載]

この程、立身流之形第二巻を発刊することができました。
平成9年(1997年)に父の高(たかし)と共著で上辞した立身流之形第一巻と併せると、立身流の枢要部分の風景を垣間見ることができます。
そこで、上記各巻の序文、あとがき及び目次の項目、並びに第三巻以降に予定される目次の項目を記し、立身流の全体像を漠然とですが示してみます。

第一、立身流之形第一巻(既刊)

1、序文       加藤 高

立身流の修練では、刀法の徹底鍛錬により体得した術理が、一にして二ならず、そのまま直ちに他のあらゆる武器に活用される。特に死生の間に対処する無我の境地、所謂「閑なる心の強み」は、至大至剛至玄至妙なる各種武術の精髄であって、共通一貫した心法であり、奥義としての必勝の原理である。立身流が「動く禅」と称される所以である。尚、この心法は単に勝負の時にのみに限らず、処世万般に廣く有益に活用して、世の為、人の為に大いに貢献すべき事が強調されている。
立身流の形の一大特徴をなすものに、単純樸質性がある。即ち、時代が進むにつれて次第に複雑多様化して来る様々な要素形態を濃縮圧縮し、雑多を純一にして凝集させたもので、決してただの単純化ではない。従って、単純樸質のうちに複雑絢爛にして深奥な内容が感受されるのである。
立身流全般の玄妙な術理の解説は、筆舌に及び難く極めて至難であるが、此のたびは有志の強い要望にほだされて、あえて成文化した次第である。素より不備な箇所が多々あるが、何分御諒承下さい。

2、目次

第一部 立身流概説
 総合武術としての立身流
 立身流の歴代宗家
 警視庁における立身流
 立身流傳系図
第二部 立身流之形(Ⅰ)
(一)居合
 立合表(たちあいおもて)(序)
 立合表(破)
 立合表(急)
 居組表(いぐみおもて)(序)
 居組表(破)
 居組表(急)
(二)剣術
 表(序)
 表(破)
 表(急)
 (注)本書では、剣術表之形の破および急の記載において、7本目の提刀(ていとう)向(むこう)および8本目の提刀圓(まるい)の、いずれも居合対居合である2本の形が欠落している。
 陰(小太刀)
 五合之形(ごごうのかた)
 五合之形詰合(ごごうのかたつめあい)
(三)鎗術(そうじゅつ)
 鎗合(やりあわせ)
 太刀合(たちあわせ)(鎗勝身(やりかちみ))
 太刀合(太刀勝身)
 小太刀合(こだちあわせ)
(四)棒
(五)半棒(はんぼう)
(六)長刀(なぎなた)

3、あとがき     加藤 紘

立身流の各種形につきましては、従来、一部分毎のまとめやビデオ化がなされて参りました。
我々としましては、稽古の指針となるまとまった解説書の必要性を痛感していたのですが、この程、千葉県教育委員会及び佐倉市教育委員会の補助金を受け、立身流演武大会の開催及び、形の説明を中心とする概説書の第一部を発表する機会を得ました。厚く御礼申し上げます。
本書には、流祖以来二一代の正系と無数の門流の人々の、命をかけた研究実践の成果中、ほんの一部が示されているにすぎません。
また、古流武術の形の文章表現には多くの困難が伴い、成文化自体が誤解を生ぜしめる一因をなす面があります。
動作の面に限ってみても、これを文章化する難しさばかりでなく、一つの形が千変万化の動きを内包する為、どれを基本としどれを応用とするか、どのような想定下のものをとりあげるか、などの問題が加わります。
例えば、間合という重要な曲尺(かね)に従う結果、具体的状況に応じて異なった動きが要求されます。その間合も、各人の体格や身体的特徴、その時々の武具等によって異なります。間合のあり方そのものも、修行の進むに従って異なってきます。
ある場合にはそれがよくても、他の場合にはもっとよい動きがあり、あるいは、そういう動きをしてはいけないということもあります。
しかも、立身流の形は、教育体系の一環をなしています。基本を教える場合の動き、教えを受ける側の動き、実戦を想定した動き、応用の動きなど、これらを対比すると一見しただけでは矛盾するように見える場合があります。
与えられた時日が限られていた故もあり、本書がこのような困難を克服したものとはとても言い切れません。
更に、修行の第一の目標は、すべての場合に通ずる原理原則を体得し、行動できる(曲尺合(かねあい))ようにすることにあると言えますが、これはあくまでも実地の稽古鍛錬によらなければ得られないことが銘記されねばなりません。
続巻では、他の形や基本鍛錬の方法等についても触れる予定です。
本書は、大木邦明氏をはじめとする流門の鈴木富雄、齊藤勝、山田市郎、樫村典久、藤崎吉範、菅家啓一、キーリー・リアム、江尻裕介、図司行克、金丸拓也の各氏、津田亘彦氏の調査研究協力の集大成といえるものであり、特に編集を担当した山田市郎氏の力に与ること大であったことを付記させていただきます。

平成九年八月

第二、立身流之形第二巻(新刊)

1、序文        加藤 紘

立身流之形第一巻を平成九年十二月十四日に発刊(平成二十一年十月十一日復刻)し二十年が経ちました。
第一巻での序は亡父・加藤高の文でしたが、この第二巻は立身流第二十二代宗家を継いだ私が記すことになりました。
この間、第一巻の内容や表現を更に的確にする改訂版制作を強く要望されてきました。しかし、この度、それ以上に喫緊である俰(やわら)その他の武技の要訣を成文化する機会を得たものです。第一巻に比して写真を多用しました。
形の意味内容を理解するには傳書の記載の理解が不可欠です。
幸い私は傳書の内容を見据えた「宗家論考」を書き溜め、立身流ホームページ上で公表してきました。
「宗家論考」には、父・高の文章、祖父・久の文章も掲載しました。
本書には第一部の形の解説に併せ、第二部としてこの「宗家論考」を収載いたしました。
このような構成で立身流の実相が流門以外の方々にも理解されるよう企図した次第です。

立身流の文化的側面に興味をお持ちの方々には本書の第二部からお読みいただければと存じます。

2、目次

第一部 立身流之形(Ⅱ)
(一)居合
 立合陰(初伝(しょでん))
 立合陰(本伝(ほんでん))
 立合陰(別伝(べつでん))
 居組陰(初伝)
 居組陰(本伝)
 居組陰(別伝)

(二)剣術
 二刀之形(にとうのかた)
 二刀詰(にとうづめ)

(三)俰(やわら)
 第一 俰の体系
 第二 俰の原則
 第三 受身
 第四 締(しめ)(絞を含む)
 第五 解(ほどき)
 第六 連行法
 第七 俰の形
  居組六个(か)条
   第一条  右位(うい)
   第二条  首位(しゅい)
   第三条  胸位(きょうい)
   第四条  寄壁(よりかべ)
   第五条  自故(じこ)
   第六条  額倒(かくとう)
  立合六个条
   第七条  靱付(うつぼづけ)
   第八条  引捨(ひきすて)
   第九条  片羽返(かたはがえし)
   第十条  後倒(うしろだおし)
   第十一条  髪旡(はっき)
   第十二条  髪ゆう(はつゆう,ゆうはロ編に尤)
  陰(かげ) 中(あて) 八个(はっか)
  立合外(そと)十七个条
   第十三条  小尻返(こじりがえし)之事(のこと)
   第十四条  電返(いなずまがえし)之事
   第十五条  折止(おりどめ)之事
   第十六条  袖詰(そでづめ)之事
   第十七条  大小詰(だいしょうづめ)之事
   第十八条  無妙(むみょう)之事
   第十九条  後詰(うしろづめ)之事
   第二十条  大杉倒(おおすぎだおし)之事
   第二十一条 小手折(こており)之事
   第二十二条 七里引(しちりびき)之事
   第二十三条 晒(さらし)之事
   第二十四条 左添(ひだりぞえ)之事
   第二十五条 上帯附(うわおびづけ)之事
   第二十六条 小具足(こぐそく)之事
   第二十七条 風呂詰(ふろづめ)之事
   第二十八条 挟詰(はさみづめ)之事
   第二十九条 佛倒(ほとけだおし)之事
  組合十六个条
   第三十条  四移(よつうつし)之事
   第三十一条 眩髪(くらがみ)之事
   第三十二条 八勝(はっしょう)之事
   第三十三条 射足(いあし)之事
   第三十四条 取返(とりかえし)之事
   第三十五条 横身(よこみ)之事
   第三十六条 手續(てつづき)之事
   第三十七条 形清(かたすまし)之事
   第三十八条 三形詰(みかたづめ)之事
   第三十九条 居鋪(おりしき)之事
   第四十条  身流(みながれ)之事
   第四十一条 乱合(みだれあい)之事
  (参考)短刀突様之事
   第四十二条 エラ取(どり)之事
   第四十三条 身構(みがまえ)之事
   第四十四条 鎧詰(よろいづめ)之事
   第四十五条 為状所被詰(ふしたるところつめらるる)事
  口伝 勝身(かちみ)之事
 第八 活法(かつぽう)

(四)傳技(でんぎ)(抜粋)
 妙剣(みょうけん)
 短刀 右
 短刀 左
 一圓相(いちえんそう) 右
 一圓相 左
 斬切(ざんせつ)
 合車(がっしゃ)
 一心圓光剣(いっしんえんこうけん)
 月之太刀
 日之太刀

第二部 宗家論考(第一輯(しゅう))
立身流之形第二部発刊時までに立身流ホームページに宗家論考として発表した三十編を、整理して載せたものである。

3、あとがき     加藤 紘

序文に述べたとおり、形の理解には傳書研究が不可欠です。逆に傳書の記載内容の理解には形の習得が不可欠であるのも立身流入堂訓に示されるとおりです。
すなわち、傳書の階梯と形の質及び数等の階梯は一致しなければなりません。
例えば、一心圓光剣は免之巻を傳授された者がさらに修行すべき課題として与えられ許された形であって、免之巻を授与されていない者が稽古すべき形ではありません。無資格者の稽古や演武は有害でしかありません。
他方、全くの初心者の段階で初めて指導される桁打(けたうち)、旋打(まわしうち)が向(むこう)圓(まるい)の形(かた)となり、極意之巻の月之太刀、日之太刀となります。
流門は「修業ノ道程ハ無限」(立身流入堂訓)の言葉を折ある毎に「心にあてて尋ね」(立身流道歌)てみてください。
形を離れても五百年の思索を重ねた立身流の歴史的、芸術的、科学的、文化的な価値は揺るぎません。
本書がそのような意味で多くの方々の立身流への理解を得る一助となればと願っています。
本書での演武写真には、立身流上傳 山﨑恒弥氏、流門 関根秀人氏の協力を得ました。息子の加藤敦 次期宗家には演武写真の外、多くの助言を得ました。
立身流皆伝 山田市郎師範には、第一巻に続き本書においても、内容、構成、表現、編集、企画、装丁、製本のすべてに渡り多大な尽力を得ました。山田師範なくして本書の完成は不可能でした。
また、立身流奥傳 八角敏正氏の平成十五年度国際武道大学大学院修士論文「下総佐倉藩校の武術―刀術 立身流を中心として―」に負う部分があることを付記させていただきます。
本書は「公益信託佐倉街づくり文化振興臼井基金」の多額の助成金の下、刊行することができました。厚く御礼申し上げます。

平成三十年一月

第三、立身流之形第三巻以下(未完)

予定内容

一、提刀(ていとう)
  形試合(かたしあい)
  組居合(くみいあい)
  四寸鉄刀(しゅりけん) 萬力(まんりき)四ツツメ ハヤバラシ
  外(と)のもの
  口傳(くでん)之分
二、数抜(かずぬき)
  着具之次第(ちゃくぐのしだい)
  騎士勝負
  首見参(くびけんざん)
  様(ためし)
三、用具(斬柄(きりづか) 斬台(きりだい) 振棒(ふりぼう) 袋竹刀(ふくろじない) など)
四、傳技(でんぎ)(勢眼詰(せいがんづめ) など)
五、傳書
  古文書(こもんじょ)
六、その他

以上

2018年 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部

立身流傳書と允許

立身流第22代宗家 加藤 紘
[平成29年4月29日掲載]

第一、傳書の公開

一、問題の所在
本稿は立身流傳書十五巻およびその允許(いんきょ)に関するものである。
その傳書は過去の遺産遺物ではない。
500年の昔から受け継がれ、現に修業され行われている立身流での、伝承通りに私が允許され、伝承通りに私が允許している傳書類である。
従って、傳書の取扱、特に記載や内容を本稿のような場で公開するについても、本来ならば、伝承された通りに取り扱うべきことになる。

二、本来の取扱
後記第三、三、「傳書允許の階梯(かいてい)」に説明するとおり、傳書は、立身流の修行が進み、その内容を知る能力資格を宗家より認められた者のみに授けられる。従って、原則、内容については他に教えてはならず、記載については他見無用である。いわんや公表など許されるものでない。
立身流俰目録之巻に後記するとおり、目録でさえそのような扱いであった。
しかしながら、例えば流儀間の交流研究など、「みだりに」(立身流俰目録之巻。後述)といえない場合としての例外もあった。

三、現時点での公表の弊害
私の知る終戦後の例に則してみると、次の二つが主であろう。
(1)傳書の記載について、立身流の実技実態に基づかない誤った解釈やその流布。一例を註2第一に記述した。
(2)立身流傳書の記載の転用や模倣による悪用。はなはだしい場合は流名を僭称されかねない事態もあった。

四、現今の取扱
このような弊害を避けるには、傳系の記載を含め、最新の、現に生きている傳書、すなわち私が允許され、私(又は父)が允許した傳書自体の公開をしないことから始めるのが有効と思われる。伝承通りということである。
そこで立身流では現在でも「傳書他見無用」が傳書を授与される者の心得の一である。
但し、展示その他などで、宗家が許す場合は別論である。ただ、公開される場合も、原則、目録までである。
昭和53年2月19日に日本武道館で開催された第1回全日本古武道演武大会の際は、日本武道館の要請により、目録を含む立身流の伝書類などがブースに展示された。

五、本稿での取扱
しかし、前記弊害が生ずる可能性が少ない状況でならば、ある面では傳書の公表は非常に有益である。
そこで私は先達にならい、宗家論考の記述等では傳書そのものの全体を表示することはせず、立身流傳書の内容を示したうえで、その根拠となる傳書や古文書の該当箇所の表示のみを引用する方法をとってきた。
本論考も同様である。

第二、傳書

一、傳書
立身流には歴代の研究書や下書、メモ、備忘録、先人が受領した傳書やこれへの書込など古文書(こもんじょ)が多いが、これらは私が允許された「傳書」ではない。私にとって一番大切なのは、流祖神妻山大明神(つまやまだいみょうじん)・流祖立身三京(たつみさんきょう)以下歴代名の後に先代から私宛の旨が記され、その名の全てが朱線で繋(つな)がれた(後述第二、二参照)うえ、師である先代から手渡しで授けられて允許された「傳書」十五巻である。それが傳授を示し、生きた伝承を示すものである。

二、相傳古文書、取得古文書
しかし、立身流傳書の記載が立身流の全てではなく、そこには歴史的に蓄積された最重要事項の要点の一部が示されているにすぎない。代々受け継がれてきた他の古文書類に各種形をはじめ立身流の内容(註1参照)や研究成果の欠くべからざる記載が多く、それらが貴重であることは傳書と変わらない。傳書の記載の理解にも不可欠である。これに口傳(くでん)が加わってはじめて理解が可能となる。口伝を記載した口伝書もある(註2参照)。
また、伝承されたものでなく他から得た史料(分流派のそれを含む)も参考資料として重要である。

第三、傳書允許の課程と傳書の内容形式

一、傳書と形(かた)
傳書允許前に、既に各種形のほとんどの修業がなされつつあり、相当程度に達した者だけが目録以降の傳書を允許される。刀術関係でみると最初の数年の桁打旋打廻打の稽古を当然経ていて、五合之形(ごごうのかた)までも一応は履修済である。
傳書には形の意味本質を示す記載はあっても形名や形の内容の記載は少ない。他方、傳書各巻に説かれる内容を体現する形が允許時に伝授される場合がある。
既に履修した内容の一部が示されている場合があるという点では傳書は各段階の終了証書でもあり、以後の修業の方向を示すものでもある。

二、傳書の内容と形状
立身流の傳書十五巻は単なる修了証書や資格授与証でなく、長文の内容が含まれている。印可状などに現今よく見受られる「多年の刻苦精進を尽くしたから、ここに免許を授ける」というような意味の短文を簡単に記すだけのものではない。
また、立身流の十五巻の巻物は、すべて、先代から次の代へ、新たに作成(允許者自身が受領した傳書に允許者名と花押(かおう)・押印・日付・允許される者の名などを付加して記す場合、或いはそれらを授ける旨の証書を作成する場合を含む)した傳書が与えられる。巻末には妻山大明神と初代以降22代の私までの歴代名がすべて記され、そこには朱墨(しゅぼく)による朱線で歴代伝授の過程が示される(前述第一、一参照)。朱線の引かれていない傳書は未完成の傳書である(註3参照)。
従って、その形状も、紙片いわゆる切紙(きりがみ)ではない。長い巻物である。軸(じく)には水晶や象牙の使われたものも多い。他の古文書と異なり、綴本(とじほん)や折本(おりほん)の形をとらない。
私が目録などを受領する際、父が受けた巻物と同じ紙を求めたが、その生産地はダムで水没したとのことで、既に入手不可能となっていた。

三、傳書允許の階梯(かいてい)
傳書允許は允許を受ける者の程度状況に応じ、同一人に対しては、永年の修業期間の間に、全十五巻を2回ないし5回に分けて与えられるのが旧藩時代からの例であった。階梯に拘らずに、一巻ごとにそのものに最適な巻をその都度与える場合もある。
一の軸に二巻以上の内容が記される合巻(ごうかん)の形をとる場合もある。その際も傳系の記載をも複数回するなど、内容の省略をすることは一切ない。
全巻を授けられて立身流の皆済(かいさい)(皆伝を意味する)となる。
かつての修業の密度の濃さは今と比較にならない。
幕末には佐倉藩の「一術免許ノ制」(註4参照)の関係上、門人藩士に公の資格を与えるため、早い段階で目録のみを允許することも多くなったと伝えられている。
他方、明治になり、目録を多数のものに与えた半澤成恒(はんざわ なりつね)先生は、その多くを破門することにもなった。
立身流傳書允許之儀は立身流の重要行事の一として今も執り行われている。現在は五段受領(入門より最短10年)者の修業の進んだ者から目録を与える。最初の目録の受領は早くて入門15年後位となろうか。

第四、立身流傳書十五巻の名称と内容

以下に各傳書の名称と記載事項の主項目や要約、および傳書には記載されないが傳書を与えられる際に同時に伝授される事項等につきふれる。

一、目録(もくろく) 五巻 主に技や心法の基本(すなわち極意である)につき述べている。

(1)立身流序之巻(たつみりゅうじょのまき)
武道修行者の心構や各種武術、剣の効用を論じ、立身流の優越性を説き記す。
立身流序之巻は立身流立合目録之巻との合巻(この合巻のみ傳系の記載は1回)とされるのが通常であった。

(2)立身流立合目録之巻(たつみりゅうたちあいもくろくのまき)
主に剣術を例とし、剣術につき表(おもて)の技の五个(か)、陰(かげ)五个、外(そと)二十五个併せて参拾五个條を中心に、道歌(どうか・みちうた)二十五首その他を記す。別傳之分として口傳がある。
形試合(かたしあい・形に則った試合。提刀(ていとう・納刀した刀を鞘ごと使う)を含む)十五本などを許される。

(3)立身流居合目録之巻(たつみりゅういあいもくろくのまき)
主に居合を例とし、技、心法、陰五个、外十三个、道歌二十三首その他を記す。
別傳之分として口傳があり、その中に杖(じょう・「半棒」と記される場合が多い)が含まれる。
形試合(提刀を含む)その他併せて二十二个条などを許される。
「居合」は「抜刀」と記される場合がある。

(4)立身流俰目録之巻(たつみりゅうやわらもくろくのまき)
主に俰を例とし、俰の居組(いぐみ)立合(たちあい)組合(くみあい)併せて四十五个條に、陰、及び口伝の二个條を加えて技につき記したうえ、「縦雖親子兄弟乱不可教之(たとい おやこきょうだいといえども みだりに これをおしうるべからず)」とする。更に「此術之心持」(このじゅつのこころもち)などにつきふれる。
允許時に「俰目録陰五个(か)口伝之分」を許される。四寸鉄刀(よんすんてっとう、しゅりけん)はその一である(但し、四寸鉄刀を用いた稽古は、第二十六條小具足之事などで既になされている)。
立身流俰目録之巻を允許されて初めて、活の入れ方が秘密裏に伝授される。他見を避け、濫用を許さない為といわれる。
「俰(やわら)」は、傳書外では「柔」「柔術」とも記される。

(5)立身流九字十字之巻(たつみりゅうくじじゅうじのまき)(「兵法九字之大事(へいほうくじのたいじ)」と記す巻物もある)
真言密教(しんごんみっきょう)系の九字十字につき記す。
未熟の段階での無益な闘争を諌めるなどのためか、免許(免之巻允許)の前に与えられる例もあったと伝えられる。現在の傳書允許においてはその例に従っている。

二、上傳(じょうでん) 四巻
次の奥傳(おうでん)と併せて秘伝免許とされる場合がある。
武道全般を対象として技法心法を考究する内容である。

(6)立身流直之巻(たつみりゅうちょくのまき)
十一條三十三段の記載に道歌二首、口傳が付加され、各目録の記載内容や口傳などを総括して記される。

(7)立身流變働之巻(たつみりゅうへんどうのまき)
立身流秘伝の業(わざ)を中心に変働無常(へんどう むじょう・へんどうして つねなし)因敵転化(いんてき てんげ・てきにより てんげす)を説き、各種武器武術やその協働、技の変化を記す。
二刀その他にもふれて記す。

(8)立身流理談之巻(たつみりゅうりだんのまき)
「寛延己巳(1749年)暮春下旬序」(かんえん きみ ぼしゅんげじゅん じょす)と付記された漢文と、三十六歌仙になぞらえた三十六首の道歌により、立身流の秘術を全体的に評論して記す。
立身流第11代宗家逸見柳芳(へんみ りゅうほう)が加えた巻と伝えられる。

(9)立身流別傳之巻(たつみりゅうべつでんのまき)
鎗(鑓・槍とも記される)、長刀(なぎなた)、棒(半棒を含む)などの各種武術や変化応用進展を示す。
妙剣(みょうけん)、短刀、一圓相(いちえんそう。立身流曲尺之巻でもふれられる)などを記す。

三、奥傳(おうでん) 三巻
武道全般の心法を述べ、更にその礎である人間、生死、世界、宇宙を考察する。
前述のとおり、本来は目録段階である立身流九字十字之巻を、この段階として授与することがあり、現在も奥傳として授与している。

(10)立身流眼光利之巻(たつみりゅうがんこうりのまき)
「無極而太極(むきょくにしてたいきょく)・・・」など無のはたらきについて記す。
斬切(ざんせつ)、合車(がっしゃ)、水月(すいげつ)の秘太刀を許される。

(11)立身流誠心之巻(たつみりゅうせいしんのまき)
人間の天禀(てんびん)を四つに分けて説き、「根元之気(こんげんのき)」「其象圓(そのかたちはえん)」「清中清(せいちゅうせい)」「修学之功(しゅうがくのこう)」等につき記す。

(12)立身流三四五曲尺合之巻(たつみりゅうさんしごかねあいのまき)
立身流曲尺之巻(たつみりゅうかねのまき)とも記される。
三四五の数尺になぞらえて、天地人、身・体・太刀などの調和を説き記し、無意無心無固無我などにふれて「天理之本然(てんりのほんねん)」を考察する。
立身流第11代宗家逸見柳芳が加えた巻と伝えられる。

四、免許 一巻

(13)立身流免之巻(たつみりゅうめんのまき)
抜刀(ばっとう・いあい)を例として立身流全体につき「・・・不残相傳畢(のこらず あいつたえおわんぬ)・・・」と証し、「・・・立師以教之亦何有恥之乎(しにたち もってこれをおしうるも また なんぞ これをはじることあらんや)・・・」と記して人の師となることを許す。道歌五首および一心圓光剣を記す。
允許された者は、現代でいう師範として人の師となる資格を与えられることになる。

五、皆済(かいさい) 二巻
立身流免之巻の補巻であって、奥(おく・おう)秘伝免許である。
形式の上でも、この二巻の授与により皆伝となる。

(14)立身流俰極意之巻(たつみりゅうやわらごくいのまき)
無手無刀(むしゅむとう・てなく かたななし)、「手舞足蹈處皆一物(てのまい あしの ふむところ みな いちぶつ)・・・」(「手舞」は「手前」とも記される)、心目體用一致(しんもくたいよういっち)などについて説き、天地の勝にふれ、陰之俰(いんのやわら)、陽之俰(ようのやわら)を示し、道歌八首を記す。

(15)立身流極意之巻(たつみりゅうごくいのまき)
半月之事、満月之事など、また三光之勝として月之太刀(形としては向)、日之太刀(形としては圓)、星之太刀(形としては前斜)を示し、道歌六首を記す。
立身流第7代宗家大石千助より安倍彦四郎尉(あべ ひこしろうのじょう)あて寛文(かんぶん)十一年(1671年)辛亥(しんがい)三月十七日付の、美しく彩色された背景画に達筆で記された一巻が現存する。

第五、宗家、師範、允許者、受領者

一、立身流免之巻を受領して人の師となる資格を得、更に傳書を皆済されて皆伝となったからといって、宗家(旧藩時代は藩の刀術師範となった)を継ぐわけではないし、宗家から独立するわけでもない。
例えば、第16代宗家の逸見宗八が病により隠居し嫡男逸見忠蔵が家督を継いだ際、隠居願による藩命で、根本官七が門弟への「指南免許(ここでの免許は目録を意味する)」を行うこととなった。忠蔵は官七より目録を受けた後、更に官七の教えを受け続け、天保四年(1833年)三月一日に免之巻を、天保六年(1835年)二月十六日に皆済を、それぞれ父宗八から允許された形をとり、立身流第17代宗家となっている(佐倉藩「保受録」)。

二、各種目録を許されただけでは宗家ではないことは勿論、人の師となる能力も資格も認められていない。立身流免之巻の項に前述したとおり、人の師として立つことができるのは免之巻を許された者(現代の師範)のみである。
勿論、現代でも、上級者が後輩を指導する場合があるが、それは師匠としての指導ではない。
そして、「立身新流」や「立身当流」の流名をみても、「趣他郡(たぐんにおもむき)」(立身流免之巻)、特に独立を許された際には、分派である旨を示す流名を名乗るのが通常だったといえよう。

三、傳書を允許できるのは宗家のみである。但し前記のように、必要に迫られ、宗家の意思による藩命で、特に流儀の「世話取立」(保受録)を任された者がないわけではない。

四、このように立身流では権威ある統率者の下、その権威の承継という裏付により流儀の中枢の継承がなされてきた。
その状況は、幕藩体制下での専門家として、流儀武術教授およびその継承を図る場面では、他の流儀でも同様で通常の態様であったと思われる。
尾張柳生新陰流が藩主と流儀の当主とが交代で道統をつないだのはその好例であろう。
佐倉藩の棒・捕手の流派の一に竹内流があったが、教えや形の崩れを防ぐため、時に岡山の宗家のもとに指導を受けに行くことがあった、と伝えられている。


註1 立身流古文書での記載の例
一例をあげる。
立身流には、甲冑やその「着具之次第」(ちゃくぐのしだい)、出陣の心得、用意すべき用具や武具の選び方、平日との武技の相違や注意点、騎士勝負、歩立(かちだち)、「首取様之事」(くびとりようのこと)、「功名後ノ心得之事」(こうみょうごの こころえのこと)、「首見参之事」(くびけんざんのこと)、などなども含まれている。
これらは傳書での記載はなく、「立身流戦場動幷着具之心得」(たつみりゅう せんじょうばたらき ならびに ちゃくぐのこころえ)として、傳書外の別冊に記されている。

註2 立身流傳書と立身流口傳(くでん)
「口傳」とは、傳書に「口傳」と記載されているものをいう。それ以外のものは師匠と弟子の間での事実上の口伝えにすぎない。
口傳の意味内容にも種々ある。

第一には、師匠との一対一での実技の稽古における、言語での、補助的あるいは本質的な説明を意味する。
例えば立身流居合目録に「向前後左右圓 口傳」とある場合である。
この場合、「口傳」は言葉だけで独立した意味を持たない。「口傳」と、口傳の言葉だけを記した「口傳書」は異なるものとなる。
稽古では師匠の動きを自分に映り込ませねばならない。文字化された言葉(写真や映像も同じだが)だけで師匠の動きは再現できない。その意味で、業も心法同様「不立文字」(ふりゅうもんじ)である。
従って、文字だけで研究すると、個々の微細な点でも、とんでもない見当違いの誤りに陥ることが多い。本例で言うと、例えば、「向前後左右圓」の記載は、「向と前と後と左と右と圓の都合六本」を意味すると解するのは誤りである。他方、立身流修行者ならば、意味を感覚的にも非常によく理解できる表現方法である。
体系化された古流武術ともなれば、文字だけから全体あるいはその重要部分を復元するのは不可能である。すなわち、一度失われた流儀の再生は不可能である。
立身流入堂訓第九条に「立身流古文書類の研究解明は必ず実技修得後に於いて、実技に照らしてなすこと。実技と理合の対応なき研究解讀は、判断を誤る場合少なからず。注意すべし。」とあるとおりである。

第二に、武術上の、或いは戦場での心得を記した口傳がある。例えば拙稿「立身流に於る 下緒の取扱」の参考1に示したような場合である。戦場では勿論、甲冑着用である。

第三に、「戦場平日トモ」の心得を示す場合である。例えば拙稿「立身流立合目録之巻陰五个口伝より(その1)」に示したような場合である。勿論、平日は甲冑を着用していない。

第二第三の場合は、特に練磨の必要があるとは言えない内容で、ある程度、言葉或いは口伝書だけでも理解と把握および実現が可能であるといえよう。

註3 立身流傳書に示される歴代名と、これを繋ぐ朱線
半澤成恒先生は、ある流儀のある人が受けた傳書を拝見した時、その傳書には傳系人名が列記されているのみで朱線で繋がれていないのをみて、「何も知らない流儀の何も知らない人だ」として、立身流はそれではいけない、と諭(さと)された。

註4 立身流傳書の允許と佐倉藩の「一術免許ノ制」
天保四年(1833年)十一月十六日、佐倉藩主堀田正睦(ほったまさよし)は「文武芸術ノ制」「一術免許ノ制」を宣言した。
文政四年(1821年)以降、佐倉藩では、これまで家禄を受けている藩士が死去した場合、家督をうけた者の家禄は何割か差引かれる家禄歩引(かろくぶびき)が行われていた。
文武芸術ノ制では家禄歩引のほかに更に支給額を減らす「増引(ましびき)」を加えたが、一術の免許を得た者はこの増引を免除された(以上、昭和48年3月25日佐倉市発行「佐倉市史」巻二 862ページ参照)。
立身流の立合目録・居合目録・俰目録のいずれかを得たものは、この「免許」を得たものとされたとのことである。

以上

2017年 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部

立身流と剣道・居合道・杖道

立身流第22代宗家 加藤 紘
初出「東京剣連だより 道」第81号
「古武道に学ぶ」第1回

発行者 一般財団法人 東京都剣道連盟
発行日 平成28年7月1日
[平成29年2月4日掲載/平成29年2月19日改訂(禁転載)]

一 立身流略史

立身流は戦国時代真只中の永正年間(1504-1521)に、妻山大明神の啓示を受けた立身三京により創流された総合武術である。三京は塚原卜傳とほぼ同時代の出生で、林崎甚助重信や夢想権之助より昔の人である。
第6代桑島太左衛門(将監)の弟子木村権右衛門が1590年代に分流して立身新流を名乗り奥平家に仕えたことが中津藩関係資料からわかる。幕末明治に福澤諭吉が修業した立身新流である。
立身本流は1714年に第10代糟谷団九郎が山形藩主堀田正虎に召抱えられ、堀田家と共に下総佐倉藩の流儀として明治に至る。佐倉藩の記録等には「捕手指南(ほしゅしなん)」「居合柔術縄甲冑勝之業(いあいじゅうじゅつじょうかっちゅうかちのわざ)」「芸術」「刀術」「兵法」等の語で示されている。立身流俰目録之巻等は柔術に関しての傳書である。
明治に入り逸見宗助等により立身流から警視流に剣術、居合、柔術、捕縄それぞれに各一本ずつが採用された。
佐倉に残った第18代半澤成恒から宗家を継いだ第19代加藤久は、大日本武徳会剣道教士・居合術教士であった。
第20代加藤貞雄を経て加藤高が第21代を継いだ。
第21代加藤高は昭和12年3月に国士舘専門学校剣道科を卒業し、同年5月に大日本武徳会剣道錬士(同年までは剣道の最高段位は5段で、その上に錬士・教士・範士が置かれていた)・居合術錬士(当時は居合道の名称でなく、又、居合術に段位はなかった)の、昭和20年3月に居合道達士(たっし)(教士の名称が一時期、達士に変更されていた)の称号を得た。第二次大戦後は全日本剣道連盟で剣道7段教士居合道無段範士であった。古武道界においては日本古武道振興会会長、日本古武道協会常任理事の各職をその死去まで長年つとめた。
昭和50年の千葉県剣道連盟居合道部発足に際しては、加藤高が副部長に、第20代加藤貞雄が常任理事に就任し、更に加藤高自らを長として佐倉支部(現支部長師範江尻裕介居合道錬士6段)が設立された。以降、毎年一回「古流立身流講習会」が県居合道部主催で行われて現在に至っている。
又、千葉県剣道演武大会、千葉県居合道大会でも毎年演武させて頂いている。
東京都内では昭和52年の立身流組織化に伴い、立身流東京矢口支部が大木邦明師範の下に設立され、現在の支部長は師範吉田龍三郎(剣道錬士7段)である。

二 立身流と剣道

立身流傳書の中に「立身流立合目録之巻」がある。ここでの「立合」とは、剣術即ち剣道の意味である。
立身流剣術の形には二刀之形その他もあるが、表之形、陰之形、五合之形を基軸とする。
表之形序は、太刀操作習熟をも目指す表之形破の基本を習得する為の形である。陰之形は小太刀の形であり、五合之形では自らの体全体を変化させることが重要である。
表之形は、摺技(我刀の鎬の相当部分を使って敵刀の相当部分に摺りあわせる)、応じ技(我刀の鎬の一点で敵刀を撥ね付ける。鍔元での場合は手之内、手首を特に効かせる)、張(我刀の一点で敵刀の一点を押したり叩いたりするのは張ではない)、巻落(我刀の一点で敵刀の一点を押し回すのは巻落ではない)等、刀の構造性質を十二分に使いこなす術技を身につける。我刀の刃や峯が敵刀等と接触することは原則としてない。表之形急は走る。
それに対し五合之形には彼我の刀の接触しない術技も多い。敵の打に対し体捌きで我体を変えつつ敵を斬り、敵と同時に斬りかかって敵の刀を落しつつ敵を斬り、敵の色をみて敵の起りを斬る。
現今の剣道で推奨される技は五合之形に多く含まれる。他方、表之形の摺り上げや応じ等は竹刀だけの稽古ではなかなか理解しにくいことになろう。
表之形序の初めの二本は剣術対居合である。表之形破の最後の二本は居合対居合である。五合之形には五合之形詰合という派生の形があるが、これはすべて居合対居合から始まり剣術対剣術に移行する。剣居一体が理念的な意味だけでなく、形の上で現実化している。立身流では剣術と居合を合わせて刀術として括られている所以である。
そしてこれは動きの質に於いても剣術と居合で異なるところはないということでもある。現今の剣道と居合道の動きの質の解離は、立身流の立場からは不自然に感じられる。
なお立身流剣術陰之形三本目右転左転(うてんさてん)は、これを分けると、右転は日本剣道形の小太刀の形の一本目に、左転は二本目になる。

三 立身流と居合道

立身流居合の基軸は、歩きながら、或いは走りながら抜いて斬る「立合」と、正座から始まり正座に終わる「居組」である。「立合」の語にはこの意味と前述した剣術の意味があり、要は一体であることが示されている。
「立身流居合目録之巻」での形についての記載内容は絞れば二つである。一つは向(むこう)という技と圓(まるい)という技を、前後左右に抜くということである。もう一つは向圓には序破急があるということである。向圓は前述の剣術表之形破(全八本。技としては全十二本)の最初の二本であり、最後の二本(技としても併せて四本)でもある。
向は後の先または先々の先の技である。
居合での向は、敵からの我正面への撃(居合でも剣術でもよい)に対し、我は抜刀して向という独特の太刀筋で受流し、敵の正面から斬り下げる。
【写真①】は向で、右側の師範齊藤勝の抜打を、左側の私が抜刀して向で受流す瞬間である。

【写真①】立身流 向(むこう)

【写真①】立身流 向(むこう)

圓は先または先々の先の技である。
居合での圓は、抜刀して我に斬りかかろうと柄に掛けた敵の右手を、我は機先を制して先に抜刀して諸手で斬り落とし、更に敵を正面から斬り下げる。
【写真②】は圓の系統の「前後(ぜんご)」の形で、前の敵が抜刀しようとして柄に掛けた右手を斬り落とすべく、加藤敦宗家補佐が走り寄って抜刀する瞬間である。前の敵の小手を斬り落とし、直ちにふり返って後を追ってくる敵に対処する。

【写真②】立身流 前後(ぜんご)

【写真②】立身流 前後(ぜんご)

向圓を歩きながら、走りながら、正座から抜く。向圓を前後左右への体捌を加えて抜く。敵の数が増える。技の内容も、居合に於る表之形の向圓から居合に於る陰之形の向圓へと変化していく。
立身流居合でいう「形」の内容は、このように足捌き体捌き等の身のこなしを含めた「技」そのもののみである。加えて心法の裏付が要求される。
他方、居合目録之巻に一三ヶ条、立合目録之巻に二五ヶ条の「外(そと)」と称される項目の記載がある。これらは主に特殊な状況下におかれた場合の対処の仕方を示していて、いわば慌てないで済むようにという心得である。立身流に於てこれらは「形」には含まれず、「外(と)のもの」とされる。「門戸出入之事(もんこしゅつにゅうのこと)」「壁添勝様之事(かべぞいかちようのこと)」「介錯仕様之事(かいしゃくしようのこと)」「人込刀抜様之事(ひとごみかたなぬきようのこと)」「乍走抜様之事(はしりながらぬきようのこと)」「同追様之事(どうおいようのこと)」「抜所被留(ぬくところとめられ)勝様之事」「細道(ほそみち)抜様之事」「柄被留(つかとめられ)勝様之事」「二之腕被組(にのうでくまれ)勝様之事」「胸紐被取(むなひもとられ)勝様之事」「袖口被留(そでくちとめられ)勝様之事」「落指(おとしざし)抜様之事」等である。

  四 立身流と杖道

杖は立身流での半棒(はんぼう)にあたる。「半」棒といっても六尺棒の半分の三尺ではなく、ほぼ四尺強である。
一般に杖など刀以外の武器を使用する場合の形は刀に勝つように組まれている。
ところが立身流は逆で、最終的には刀で半棒を制する形である。立身流半棒之形は基本として三本、変化を含めて十本であるが、一つの動きは右左にできなければならないのが原則なので本数は更に増える。
立身流にはいわゆる長物(ながもの)として棒(ほぼ六尺)、長刀(ほぼ六尺柄)、鎗(柄は、ほぼ九尺を基準として二間まで)等もある。間合の違い等は別として、半棒を含むこれらの武器の業には流用性がある為、他種目の形を取入れた稽古もなされる。ちなみに鎗は、歩立(かちだち)の場合(騎馬でない場合)は「トカク胸板(むないた)刀諸臑(もろづね)ヲナグル」ものとされる。
刀を鞘ごと使用する提刀(ていとう)というものがある。鍔や反を利用する技は別として、提刀の技を半棒で使い、或いはその逆にも使う。ここで刀術と杖術はあらためて繋がることになる。
杖道はその主目的が刀を制するものである点でも、又、杖は鞘におさめられた刀に代わりうる点でも、刀との関係を前提とし、刀の存在の下に成り立つ武道であって、その意味では剣道や居合道と異るところはない。

五 提言

このように剣道居合道は勿論、杖道も日本刀を基軸とし、日本刀との関係の下に存在する武道である。
ところが、その共通の要素である、刀の構造機能の理解及びその刀を用いた動きや技術の性質の理解が共有されていない。それが、現今の各道の動きの質の解離につながっていると思えてならない。
例えば、剣道居合道杖道それぞれの場において、真正面からの大きくゆっくりした面撃に対し、木刀できれば模擬刀の表の鎬で摺上げて面に斬り返す稽古をする。その際は正確さを旨とし、ゆっくりした大きい動作で、剣先を効かし、反を活用し、我剣先近くの鎬で相手の手元近くをとらえ、我鍔元寄りの鎬までを使い切って摺りあげる。摺りあげる我刀は鎬以外の箇所で相手の武具と接触しない。斬る際は刃筋が立つ。
このように正確な摺上技を経験するだけでも、各道を総合した武道の意味の理解とその共通の動きの理解とに有益と思われる。鎬のみを使うという微妙な操作が、手之内、手首、肘、肩,体、足を含む身体全体の動きの精妙さを感じさせ、それを知る手掛かりになるのではなかろうか。又、この精妙さに興味をかきたてられる効果もあるのではなかろうか。
そして、応用すれば、例えば剣道の竹刀ででも、摺上面は有効に使える技のはずである。
明治以降、特に第二次大戦後に顕著だが、武道が用具や技により種別化され、分化されている。これを専門化と言う人もいるが、あるいは単に視野が狭くなっただけではなかろうか。極論すれば、武術武道は武術武道でなくなってしまい、それが閉塞感を生じさせていると感じられる。今、あらためて分化したものの総合化を図り、失われた価値の回復を目指せないだろうか。そこから又、新たなものも生まれると思う。

六 立身流の体系と三道

立身流は素手短刀等の俰をはじめ数多の武器を使いこなす総合武術であるが、その基本にして極意である形は向と圓である。二種の遺伝配列が全ての源であるように向と圓が全ての起源である。またこれが思索の基本構造ともなっている。
立身流目録での向圓は、身之曲尺、太刀之曲尺、心之曲尺そして無意無心無固無我の曲尺合 [立身流三四五曲尺合之巻]や心目體用一致 [立身流俰極意之巻]などを求める練磨を経て、立身流極意之巻の月之太刀(向)、日之太刀(圓)として完成されていく。向と圓に全てが含まれ、凝縮していく。
立身流には正傳書が十五巻あり、この全てを皆済されて皆伝となる。そのうち形そのものについて記されるのは各目録之巻が主で、他のほとんどの巻は、心法を含む武道全体に通ずる内容、ひいては生死、人間への思索、世界、自然、宇宙観にも及ぶ内容である。また、それらと形との関連の内容である。
いわゆる心法は武道全体に共通していて、剣道居合道杖道において異なるところはない。すなわち、三道の目指すところは立身流の目指すところと同一である。

七 結語

立身流は、用兵術や戦での作法等それぞれの時代を背景にした広さと、歴史により熟成された完成度と、技の質の高さと思索の深さを備えている。
立身流をもって幕末の実戦を経験した半澤成恒先生は立身流を信奉し、「立身流以外は剣に非ず」と豪語して憚らなかった。

(本稿は、頭書の初出後に頂いた質問等を加味し、平成29年1月に補筆したものである。)

加藤 紘
立身流第22代宗家
千葉県指定無形文化財保持者
日本古武道協会(日本武道館)常任理事
日本古武道振興会評議員
弁護士