五輪書「足づかひの事」記載の解釈 ~立身流と照らし合せて

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和2年(2020年)6月7日掲載/令和4年10月27日改訂(禁転載)

第一、はじめに

一、宮本武蔵(以下、武蔵という)の「五輪書」(以下、岩波文庫版「五輪書」校注者 渡辺一郎 1985年2月18日岩波書店発行を本書といい、引用頁数を示します)48頁に、

「一 足づかひの事
足のはこびやうのこと、つまさきを少しうけて、きびすをつよく踏むべし。足づかひは、ことによりて大小・遅速はありとも、常にあゆむがごとし。…」

(以下、設文という)とあります。

設文については拙稿「立身流に於る足蹈(あしぶみ)と刀の指様(さしよう)」(立身流之形 第二巻104頁以下。以下「前掲論考」という)で触れました。

二、ところが、その前掲論考と異なり、「設文では、歩きながら斬るときも構えた時も、前足だけでなく後ろ足も、爪先は浮かせて地から離し、踵は地に着け強く踏みしめてなければならない、と述べられている」と解釈する方がいらっしゃる、とのことで質問を受けました。
私は武蔵の流門系の者ではないのですが、敢えて結論を述べさせていただくと、そのような解釈は誤りであって、武蔵はそのようには述べていません。そもそも、そのように「歩む」ことができるのでしょうか(前掲論考参照)。

第二、本稿の位置付け

先ずは前掲論考をご覧ください。立身流の見地から設文にふれていますが、これをお読みいただいただけでも前記結論が導き出されます。
本稿は、設文の解釈に関係する範囲のみに限定して考察し、前掲論考を補完するものです。柳生新陰流の史料をも参照いたします。

第三、出発点…足蹈と刀の指様の関係 (前掲論考の表題参照)

一、前掲論考では、立身流序之巻の記載の引用に次いで、このように記しました。
「屋外では常に大刀を帯刀し、歩くとき走るときも腰にあります。脇差を腰にし、時には短刀をも腰にします。」
太刀については腰に差しても、佩(は)いても同じです。
帯刀者である武道者の代表例は武士です。

二、武蔵も本書で同じことを述べています。
 26頁「武士は…二刀を腰に付くる役也。」
 11頁「夫兵法といふ事、武家の法なり。」
 12頁「武士たるものは…兵の法をばつとむべき事なり。」
そして
 46頁 「惣而(そうじて)兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事肝要也。」

三、兵法者すなわち武道者の足蹈は、最低限、帯刀に適合した歩み方でなければなりません。
いいかえれば、武道者の歩みは最低限、帯刀して歩みやすい歩みであり、帯刀して歩みやすい歩みは、武道者としての歩みの出発点だということです。
帯刀を想定しない歩みの研究は、武道者の歩みとは直接には関係のない研究だということになります。

四、帯刀しての歩みや走りを感得することが必要です。
「腰の刀から手を離し、長距離長時間を二キログラム弱の真刀を腰にして、できれば脇差、短刀も差して歩いてみてください。」(前掲論考)。これが武士の日常です。
刀の重さ、重心、上下前後左右への揺れ,歩みによる反動、長距離歩行による崩れなどが理解できるはずです。
その状況下で最も安定する「足蹈」を、「刀の指様」と共にまずは探らなければなりません。
現代の日常が刀具と無縁であることが、後記の「常の歩み」を理解しにくい、あるいは誤解される一因と思われます。

第四、設文理解の前提…「自由」「常」「歩み」

一、(身体の)「自由」「自由自在」
本書には随所に「自由」の語がでてきます(25頁、79頁など)。
37頁と74頁には「惣躰自由」とあり、これは立身流秘伝之書での「我體自由自在」(拙稿「立身流剣術表之形破と「手本柔」(立身流變働之巻)」参照)と同義とおもわれます。
ちなみに、柳生宗矩(以下、宗矩という)著「兵法家伝書」(岩波文庫版「兵法家伝書 付 新陰流兵法目録事」校注者 渡辺一郎。以下、家伝書という)にも「自由」の語がみられ(30頁、61頁、74頁、91頁、107頁、115頁、117頁)、106頁には「自由自在」とあり、ここにも上記の立身流と同じ語句が示されています。
武蔵は勿論、立身流を含む日本伝統武道では、身体そして心の自由を希求していることがよくわかります。
武蔵のいう「足づかひ」も、あるべき身体の「自由」の一環として解釈せねばなりません。例えば「いつくという事を嫌」(本書48頁)います。

二、常(の歩み)  
武蔵が「常」の字を随所にちりばめているのも前掲論考記載のとおりです。
本書では、「常の心…常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして、」43頁、「常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事」46頁、「常住」47頁の他、本稿に直接関係する足の動きについては、「常に歩むがごとし」48頁設文、「我兵法におゐて、足に替わる事なし、常の道をあゆむがごとし。」128頁、「一 足ぶみの事 足づかひ、時々により、大小遅速は有れ共、常にあゆむがごとし。…」143頁、「…常にあゆむ足也。能々吟味在るべし。」148頁とされています。

ちなみに家伝書でも、「…平常心…常の心…常の心…」55頁、「…常の心…常の心…」56頁、「…平常心…平常心…」57頁、「平常心」58頁、「常の心」59頁・73頁・115頁の他、本稿に直接関係する足の動きについては「一 歩みの事 歩みは、早きもあしく、遅きもあしし。常のごとくするすると何んとなき歩みよし。」72頁と記されます。

武蔵は勿論、立身流(前掲論考及び拙稿「立身流傳書と允許」の注2・第三参照)を含む日本伝統武道では、いかに「常」「平常」が重視されているかがわかります。
これは、上記一、に述べた自由が通常の日常生活中でも発現すべきことを意味します。

三、歩み 
前記のとおり、歩み(走りを含む)は武道の礎であり、出発点です(後記参考(1)参照)。戦場でも日常でも、原則、歩かねばなりません。それらの動きの上に武道があります。
武道者の日常生活での歩みは武道での歩みと同じであるのが理想で、それは必然的に身体の自由を希求するものでなければなりません。
常態としてあるべき歩き方ですから、武道者として修練を積むべき武道としての礼法でもあります。立身流礼法(特に後記の「足蹈」)については拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」を参照してください。この稿と前掲論考に「常の歩み」の内容も説明しました。走りについては、拙稿「立身流剣術表(之形)に於る足どり」を参照してください。
なお、後記「足づかひ」を参照してください。

四、「あしぶみ」の「ふむ」の用字…「踏」と「蹈」
(1)
五輪書には武蔵直筆の原文はないとも、原文は平仮名だけだったとも云われていますが、本書で「ふむ」は、平仮名(127頁・128頁・143頁)での記載の他は「踏」の字が使われています(48頁・128頁)。

(2) 私は武道での足使いについては、もちろん例外はありますが、原則として「踏」の字を充てるのは妥当でなく「蹈」の字を充てるべきと考えています。
前掲論考に『「蹈足」であって「踏足」ではないのです。』と記したように立身流の用字がそうです(後記参考(1)及び前掲拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」参照)。
家伝書79頁では「足ぶみ」となっていますが、柳生延春先生(以下、延春先生という)著「柳生心陰流道眼」(平成8年6月1日 株式会社島津書房発行。以下、道眼という)頁前の巻頭の「始終不捨書」(柳生兵庫助利厳(以下、兵庫助という)著)原文の十三には「・・・足ヲ無ニ蹈出シ・・・」、十六には「一足ヲ蹈習之事」となっていて「踏」の字は使われていません。

(3) 大漢和辞典(以下、大漢和辞典という)巻十(著者 諸橋轍次 昭和61年9月1日修訂版第七刷発行 株式会社大修館書店)を抜粋します。

 926頁
  踏 ふむ。㋑足をあげ、又、地に著ける。㋺ふみつける。ふみおさえる。
 943頁以下 
  蹈 ふむ。㋑足を地につける。㋺ゆく。行くさま。あるく。
    うごく

「踏」は歩きと関係なく、足をあげ、又、地に著ける動作、典型的にはふみつける動作です。
「蹈」は、あるきうごく足を地につける動作です。

これら漢字本来の意味からも武道での「あしぶみ」は原則「足蹈」とすべきです。

(4) 「蹈」ではなく「踏」の字を使用することで、本来は「ふむ」「蹈む」にはないはずの「踏みつける」という感覚が無意識的に働き、武道での足使いの解釈に影響を及ぼしている面があるように思われます。
他方、例えば本書148頁「剣を踏む」は「踏」で妥当だということになるでしょう(本書89頁以下参照)。
本書での、例えば設文での「ふむ」は、「あるきうごく足を地につける動作、すなわち、蹈」を意味すると理解すべきです。
但し、本稿で文献引用の場合はすべて原文の用字に從っています。

第五、設文での「足づかひ」・「足のはこびやう」・「つまさきを少しうけて」・「きびすをつよく踏むべし」

一、「足のはこびやう」
(1)
「はこび」というのは「はこぶ」動作を意味します。運び終わった後の状態を意味しません。人間には両足あります。前へ歩いているときの両足をみると、前足が右足の場合を例にとれば、動いて蹈出して動作しているのは右足です。運ばれているのは右足であって、残っている後ろ足(この場合は左足)ではありません。地につく動作をする、すなわち蹈んでいるのは前足(右足)であって、後ろ足(左足)ではありません。
つまり、ここで武蔵がのべているのは前足(右足)についてのみであって、後ろ足(左足)ついては述べていません。

(2) 兵庫助は前出「始終不捨書」で(道眼記載原文の九)、「一 足ハ懸ル時モ退ク時モ跬タ浮キタル心持之事」と述べています。「跬」とは大漢和辞典によれば「ひとあし。一足を挙げる。」意です。新修漢和大辞典(小柳司気太著 株式会社博友社 昭和36年12月10日増補第17版発行)には「カタアシ 一足をあげること」とあります。「浮キタル心持」なのは片足すなわち前例での前足(右足)であって両足ではありません。なお、「跬タ」の読みは、片足を意味するものとしての「カタ」でよいと思いますが、延春先生は「カタカタ」と読んでおられます(道眼187頁)。

二、「足づかひ」
これに対し、表題としての「一、足づかひの事」の「足づかひ」は、足の使い方を総体的に示していますから、ここでの「足」とは右足左足の両足ないしその関係を、つまりは「歩み」を意味するものでしょう。
設文でも、「常にあゆむがごとし」であるのは「足づかひ」なのですから、武蔵は「足づかひ」を両足での「あゆみ」を念頭に置いた語としてとらえていることになります。
そして武蔵は、「足のはこびやうの事」の説明を記載した後、わざわざ文章を分けて、「足づかひは、・・・常にあゆむがごとし。」と更に記しています。その意図は、両足の「足づかひ」の両足のうち、特に「はこぶ足」(前足)についてはこの通りだが、そもそも常の歩みの両足での前足がそのようなものなのですよ、と説明していると理解できます。

三、「つまさきを少しうけて」
(1)
ここの「うけて」は、「浮けて」と「浮」を充てるのが一般のようです。
私は、あるいは他の漢字を充ててもよいのではないかと考えています(例えば「請」)が、いずれにしても「うけて」の意味は、「常の歩み」「惣躰自由」の下の動作ないし状態として解釈しなければなりません。
居着いたりしてはいけません。本書48頁に「いつくは、しぬる手」とありますが、「いつく」は「居着く」と書かれるのが普通で、その語感からむしろ足に関していわれることが多い言葉です。
ところが、「うけて」を「浮かして」と解し、さらにそれを「床に触れないように(少し)上にあげて」と解して足指先を持ち上げる意味とするのでは、足をことさらに力ませることになり、ひいては足を居着かせることになってしまいます。

(2) 椅子に坐って右足を左膝の上に乗せてみてください。右足指に力を入れなければ自然に右足指は右足裏の平面より上がっている(浮いている)筈です。その状況は力まない限り「足のはこび」すなわち歩みで蹈出すときも全く同様です。
武蔵はこのことを言っているのだと私は解釈しています。
足裏が地に着いた後はどうなるかですが、地に着いた後も足指に力をいれず力まないのですから、指は軽く地に接することになります。
前掲論考に「地面に平行に着地し、かつ力みの入っていない足の爪先裏は自然に浮き加減となります。」と記したとおりです。

(3) 道眼187頁に『兵法歌に、…「懸ル時も退ク時モ足ハタダヰツカヌヤウニ使ウべキナリ」とある。』とあり、又、188頁に「うくるとは自然の勢位をもって爪先を浮ける--爪先をわずかに軽く上向し--はねるようにするのを好習とし、そのつくりつけを戒めて平常歩を提示したものである。」とされるのは、上記(2)と同旨と理解します。 

四、「きびすをつよく踏むべし」
ここはこの言葉どおりです。
注意すべきは、この言葉を極端にとらえ、踵(かかと)だけが(まず)地に着く、と解釈しないことです。「地面に接触する瞬間に踵を主とする足裏全体で、力むことなく強く蹈みます。」と前掲論考に記したとおりです。
この足蹈を身につけるための稽古方法が、立身流居合の立合序之形の「蹈足」といわれるものであることも前掲論考のとおりです。蹈足では「足の裏全体で蹈みますが、特に踵を床が抜けるほどに強く打ちつけます。」(前掲論考)。

第六、後ろ足

一、「足づかひ」の意味および、前足については述べました。
それでは後ろ足(前例での左足)のつま先と踵はどうなるのか。この点について武蔵は設文で「足づかひは、ことによりて大小・遅速はありとも、常に歩むがごとし。」として「常に歩むがごとし」とのみ示し、これに加えて、悪い例を示しています。
要は自由な身体の自由な足による常の歩みの後ろ足でしょう。

二、後ろ足のつま先は、そのまま地に接しているでしょう。力まないで後ろ足のつま先を上げて地から離し続けることは不可能です。
踵は、前掲論考に「後ろの足の踵は歩むとき軽く浮きます。」「棒立ちになったり、後ろ足の踵が極端に上がったりしません。」「後ろ足の踵が全く浮かない歩みはありません。」と述べたとおりです。
家伝書37頁には「一 あとの足をひらく心持の事」とあります。「心持」とあることに要注意です。

第七、構での両足

五輪書では、構の場合の足についての特別の記述はありません。構について述べている本書49頁以下、51頁乃至57頁・73頁・123頁以下・154頁のいずれにも足についてはふれられていません。
要は構えを取った時点での歩みの足であればよいのです。
ちなみに、家伝書にも構の足についての特別記述はありません(家伝書38頁「一 かまへは…」参照)。

第八、甲冑着用時

一、設文に関し、甲冑着用時の足と着用していない時の足は全く異なる、ひいては武術内容も異なるので、形も異なるし、稽古内容も異なる、と述べる方がいらっしゃるそうです。
これも誤りと言わざるをえません。
設文自体、甲冑着用の有無で分けることなく、全て「常にあゆむがごとし。」です。
甲冑着用時でもそうでなくても、原理原則は全く同一なのです。

二、本書等の記載
設文については上記一、のとおりです。
本書32頁では合戦に関し諸武具について述べられていますが、足づかひにはふれられていません。
本書127頁以下では「浮足」を嫌う「其故」として合戦にふれています。しかしこの「其故」は理由というよりも、本来いけない浮足だが「たゝかいになりては、必ず足のうきたがるものなれば」注意しなさい、といっているのです。合戦時で甲冑を着用していても、着用していない時と同様「我兵法におゐて、足に替る事なし、常の道をあゆむがごとし。」(本書128頁)なのです。
家伝書にも甲冑着用の有無で足につき区別する旨の記載は一切ありません。前出の「常(の歩み)」に関する72頁、「足ぶみ」に関する79頁を参照してください。
道眼での明確な記述については後記六(2)を参照してください。甲冑着用時の剣術が甲冑不着用の剣術に「止揚」されたのです。

三、時代性
武蔵も宗矩も戦場では甲冑着用の時代でした。しかし常日頃の日常が戦場にあるわけではありません。日常生活は甲冑を着用していません。その二人が「常にあゆむがごとし」(武蔵)、「常のごとくするすると何んとなき歩みよし」(宗矩)と述べています。その「常」とは、強いて言葉として言うならば甲冑を着用していない場面でしょう。
太平の世を経て、幕末から再び戦乱が続き、甲冑着用の機会が増えました。しかしだからと言って、その頃、甲冑を着用しない武術から全く異なる甲冑武術に変わり、形も変わったわけではありません。
その明治初期までの合戦での武術が、明治中葉の警視庁流、明治後期の大日本武徳会、その他、学生・学校・道場などでの武術武道に繋がっていきます。

四、「武道、剣道は発達してきたのでして、それぞれの時代の最先端を行く流派は、その根幹を崩さずに保持したうえで、時代に合わせて進化し、深化してきました。…時代を遡らせた形態を基本とすることはこの発達の歴史を無視することに外ならず一般的に無益有害です。」(拙稿「立身流に於る下緒の取扱」。なお後記参考(2)参照)
武道は時代による変化を吸収してきたのです。そして、いわゆる素肌剣法で鍛え上げられた武芸は、即、合戦でのいわゆる甲冑剣法になり得るのです。
ただ、重く、身体の動きの制約となる甲冑着用時にはそれに適合した動きをする必要があります。しかし、それをのみ特別に稽古する必要はなく、心得として承知しており、甲冑に慣れていればよい程度、と立身流ではとらえています。
武術錬磨の稽古は甲冑の着用なしで行われ、これにより甲冑着用の場合をも含めた武術が習得されていきます。

五、立身流での実例を拙稿からひいてみます。
(1)
「その(武道の)最盛時は実戦との関係でも幕末と言え、流派武道の古流としての形態の踏襲は幕末が基準になります。立身流草創の戦国時代以来の形態は幕末時の形態にすべて包摂されています」(前掲「立身流に於る下緒の取扱」)

(2) 「第五 足蹈(実演)…両足は成る可く平行となります(甲冑を着用しているときはやや異なる)。」(前掲「立身流に学ぶ~礼法から術技へ」)

(3) 「立身流着具之次第」(前掲論考)

(4) 「刀長短ハソノ人具足ヲ着テ能振ル程ヲ吉ト言 平日ト違 小手ヲ差テ抜兼ルモノナリ」⦅拙稿『立身流に於る「圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理…」(立身流変働之巻) 第十二』

六、立身流の「竪Ⅰ横一」との関係
(1)
本書45頁の「一 兵法の身なりのこと」では、「鼻すじ直にして」「くびはうしろのすじを直に」「背すじをろくに」(「ろく」とは、広辞苑によれば、まっすぐなこと。)などとされ、「常の身を兵法の身とし、兵法の身をつねの身とする事肝要也。」として、甲冑着用の有無による区別をしていません。143頁でも同様です。

(2) 兵庫助も武蔵や宗矩とほぼ同時代の人です。その兵庫助は始終不捨書で「一 直立タル身之位事」(道眼記載原文の九)と示し、道眼180頁には『兵庫助利厳の兵法歌に、「直立ツタ身トハ自由ノスガタニテ位トイフニナホ心アリ」「位トハ行住坐臥ニ直立ツモノゾ位ナリケリ」とある。』と紹介され、同181頁で延春先生はこれを『「真の自然体」といってもよい。』と述べておられます。」
兵庫助はさらに、始終不捨書(道眼記載原文の十)で「一 身ノ持様高上ニテ下ルハ好シ低シテ高上難成シ重ヽ口傳」とし、道眼200頁で延春先生はこれを「高上なる身の位から低く下げる働きをするのは好ましが、いつも低い身で懸かって、高上なわざはなかなかできがたいことを重々口伝して低く沈んだ身の位を禁習とした」と述べられています。
これは、「大きな動き方が身につけば、同じ動き方を小さくすることもできますが、小さい動き方ができたからといって大きい動き方までできるものではありません。」(拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」参照)という立身流の教えと同趣旨と理解できます。前記四で述べたことの一つの現れです。
さらに延春先生は、『利厳の兵法書、「始終不捨書」には「沈なる身」の介者剣術を止揚して、「直立つる身」の兵法を創り出した術理」』(道眼17頁)と記され、明確に「止揚」とされています。「止揚」したのですから、以降「沈なる身」と「直立つる身」が併存したわけではありません。

(3) 立身流では、姿勢につき「竪Ⅰ横一(たていちよこいち)」という言葉があります(後記参考(3))。「竪Ⅰ横一」については前掲拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」及び拙稿『立身流に於る、師、弟子、行儀、と剣道の「一本」』を参照してください。
上記(1)及び(2)で述べられている内容の姿勢は、立身流の「竪Ⅰ横一」とその内容に相通ずるものです。
なお、「身構」での「横一竪Ⅰ」(後記参考(4))についても上記二編で述べました。これは兵庫助が始終不捨書で「一 高キ構ニ弥高ク展ヒアカリテ仕懸ル位之事」(道眼記載原文の九)と述べる内容と相通じます。

第九、総括~形との関係

一、本稿で考察した「足づかひ」の内容全ては、古流各流派の形に凝縮されて存在するはずです。
「足づかひ」は、その流派の基本稽古から形稽古や地稽古(立身流での乱打や乱合)等の稽古の途上で練り上げられ、鍛え上げられ、修得されていきます。
設文の解読理解は、本来ならば、形を中心とする稽古の中で、時間をかけて身につけながらその都度吟味されていくものです(後記参考(5)参照)。武蔵のいう「能々(よくよく)吟味すべし」「能々工夫(くふう)あるべし」です。

二、形は、その流儀の歴史を背景として、実践と思索により醸成されてきました。
その意義は実用性だけはありません。歴史的に醸成された形が鍛えられた演武で表現され、そこに込められる技法と心法を直視すれば、芸術性を含めて、叡智と実践の結晶としての文化的価値を感受できるのではないかと思います(拙稿「立身流居合に於る鞘引と鞘(の)戻(し)~立身流歴代宗家の演武写真を参考にして~」第十 竪Ⅰ横一 参照)。
「足づかひ」にもそのような視点からの理解が必要なのではないかと考えます。


参考
(1)「足蹈は大方(おおかた)物の始めにて いえの土台の曲尺(かね)としるへし」
  [立身流俰極意之巻] (拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」参照)
(2)「世盤(よは)広し折によりても替わるへし 我知る計りよしとおもふな」
  [立身流理談之巻]  
(3)「十の字を我身の曲尺(かね)と心得て 竪もⅠなり横も一なり」
  [立身流立合目録之巻](拙稿『立身流に於る、師、弟子、行儀、と剣道の「一本」』参照)
(4)「身構は横も一なり竪もⅠ 十の文字こそ曲尺合としれ」
  [立身流俰極意之巻](拙稿 同 参照)
(5)「立身流古文書類ノ研究解明ハ必ズ実技修得後ニ於イテ実技ニ照ラシテナス事 実技ト理合ノ対応九ナキ研究解明ハ判断ヲ誤ル場合少ナカラズ 注意スべシ」
  [立身流入堂訓第九条]

以上

古武道に学ぶ心身の自由(三)

日本古武道振興会会長 立身流第21代宗家 加藤 高
初出 月刊柏樹1995年4月号(No.145) 平成7年4月10日株式会社柏樹社発行
令和2年(2020年)5月24日 掲載(禁転載)

もう、六十年ほども前のことである。俰の形(やわらのかた)を見た某婦人団体から「立身流俰(たつみりゅうやわら)は、婦人護身術として最も適切である。近く講習会を開催するから、是非、立身流俰の御指導をお願いしたい」との依頼を受けたが、元来、立身流は太刀の業が一通りできてから、俰(やわら)に入ることになっているので、私としては、古来からの修行順序をくずすわけにはいかないので、お断わりしたことがあった。

その頃私は、講道館柔道の達人、山本昇先生の切なる勧誘で、講道館柔道を稽古するようになった。山本先生の専門は柔道であるが、剣道も武徳会教士で、先生の御尊父は揚心流柔術範士で、幕末から明治にかけての、有名な大家であった。山本昇先生は立身流宗家、亡父、加藤久とは頗る昵懇の間柄であったので、私に対しては、特別目をかけて稽古をつけて下さった。

講道館柔道は投げわざが発達しているが、私の場合、立身流俰の素養が大いにプラスとなり、三箇月ばかり稽古したら、あまり投げられなくなった。そのうちに柔道大会があって出場した際、相手は大体学生、警察官であったが、当時私は二十歳台の血気時代で、溢れるばかりの体力気力にものをいわせ、組むや否や鎧袖一触、遮二無二投げとばして、とうとう優勝してしまった。

その時、山本先生が手招きされたので、片手間にやった柔道で優勝したのだから、多分先生は褒めて下さるのだろうと、内心期待しながらお伺いすると、先生曰く、「君の柔道は強さはあるがうまさがない。試合だからあれでも一本になったが、あんな無理な力業の柔道をやっていると、四十歳を超えると、めっきり弱くなってしまう。先ず相手の体の重心を外し、相手の崩れたところを風の如くに業をかけて投げたのが、本当の一本である。併し筋がいいから、今後心を入れかえて稽古に励みなさい」と、案に相違して、大変厳しいお叱りを受けてしまったのである。

その後先生から稽古をつけていただく際には、無理に業をかけると、絶対に受けつけてくれないが、先生が動こうとするところ、動きつつあるところ、動いてとまろうとする刹那にこれを察知して業をかけると、投げさせてくれることがわかった。

つまり、立身流の必勝の原理(月刊「柏樹」一九九五年二月号参照)でいう(一)、即ち心身の自由を得た「匂の先 (においのせん)」と全くその軌を一にしていることがわかったのである。

その後の柔道大会で、私よりはるかに軀幹長大で剛強な相手と組合せになったが、最初は組まずに小手先を争っているうちに、やがて相手が不用意に手をのばして、袖をつかもうとした時、電光石火、巧みに相手を引張り込んで肘関節の逆をきめ、数十秒で勝ったのである。これなども「匂の先」の活用に過ぎない。先生からも「相手の起りをとらえ、悍烈俊敏な逆業できめたのはよかった」と、はじめて褒められたのである。

立身流では心身の自由をなるべく迅速に体得させるための方策として、一定の練度に達すると居合では「数抜き (かずぬき)」、剣術では「立ちきり稽古」という、言語に絶した強行手段で、猛稽古を古来から実施してきた。

先ず「数抜き」であるが、これは相対峙した二人が、一定の間合(敵との距離)をとって、相互に「イヤー」、「エィー」の発声と共に、互いに前進、後退を繰り返しつつ、向(むこう)(敵が切りつけてきたのを、受け流して切りさげる業)、円(まるい)(敵が切りつけようとした時、腕を切り、面を切る業)を抜くのである。

主審一人、副審二人の立合(たちあい)で、形(かた)がくずれた場合には本数には入れない。主審は五十本ごとに本数を発表する。演武は夕刻より開催し、翌朝の夜明けまで連続三千本抜くのである。三千本通した者は更に数年稽古をつみ、次に「数抜き」一万本に取り組むのである。古武道立身流第二十代宗家・加藤久は、青年時代、「数抜き」三万本を通したがこれは創流以来、空前絶後といわれている。

「数抜き」開始後、千本ぐらいまでは普段の稽古と同じような、安易な気持で抜き、呼吸も静かであるが、千五百本位の頃になると、厳寒の夜中といえども、熱汗、瀧と流れ、そろそろ呼吸も乱れはじめ、やがて二千本を越えると、最早体力気力の限界に達し、それ以後は誰しも否応無しに、思わず我を忘れて至誠一途の心魂に徹するに至り、自ら心身共に自由自在なる、所謂、立身流奥義の、「深夜聞霜 (深夜霜を聞く)」、「満月之事」(前述、月刊「柏樹」一九九五年二月号参照。無念無想)の心境に到達できるのであるが、これは自然の機能の然らしむるところである。

古武道立身流の道歌に、

  敵もなく我もなきこそ此の勝身
    とる敵もなく捕る人もなし

剣術の「立ちきり稽古」は十数名で円陣をつくり、本立(もとだち)を中央にしてこれを囲み、礼は最初と最終だけでその他は省略し、抜刀して構えたままで本立と対峙し、立会人三人のうちの主審の号令により、入れ代り立ち代り、猛烈果敢に本立に懸っていって、息つくいとまもないぐらいに、撃突を加え、体当り(体で相手にぶつかって、はねとばす)、足搦み(相手と接近した場合、柔道の応用で投げとばす)、果ては組討等で、本立を半殺しの状態に痛めつけてしまうのである。

これまた剣術「立ちきり稽古」三千本を通すのは、尋常一様の仕業ではなく、無理矢理にも、真に死生の間をくぐらせられるのであるから、最後には必然的に、居合「数抜き」同様に心身自由自在なる無我の心境に到達せざるを得ないのである。

居合「数抜き」も、剣術「立ちきり稽古」も、勿論、単なる体育というような枠をはるかに越えた徹底した類例のない特殊猛鍛錬である。

古武道立身流の伝書に「心目体用一致」「口伝」とあるが、これも要するに心目(敵の意志を察知する心のはたらきと、肉眼で知る敵の動静)と己れの体と、使用操作する武器とが、渾然一体をなし、瞬間的に最大限にその機能を十分に果す活動をいうのである。別伝にある「気剣体の一致」とほぼ同一内容のことをいうのであるが、これなども、いうなれば心身の自由自在なる活動が基をなしているので、そのために古武道立身流では、初心のうちは先ず平常心を乱さないように心がけ、心と体と剣の動きが、無理なく正しく自然にできるようにするために先ず桁打ち(足捌きと共に相手の打ち込みを受けて打ち返す動作)、廻し打ち(同様の動作を右廻り、左廻りに繰り返す動作)という、比較的簡素な基本業を袋竹刀で稽古するのである。いわば立身流独得の、切り返しのようなものである。

立身流伝書の道歌に、

  足踏みは大方物の初めにて
    家の土台の曲尺と知るべし
  身構は横も一なり竪も一
    十の文字こそ曲尺合としれ

私は往年学生時代に、澤木興道老師について禅を学んだことがあるが、禅も剣も不動心をつちかい、心にこだわりなく、心身自由自在なる無我の心境に悟入するための修行であることにはかわりないが、強いて言うならば、剣は動より、禅は静より入定する場合が多いように思われる。

古武道立身流奥義の「深夜聞レ霜 (しんやしもをきく)」という純粋経験の窮極の心境は、主格も対立もなく、さながら引きしぼって、満を持した弓勢のようなものである。そこには無限の力と、充満した緊張がみなぎっている。

老子の説く「抱」も、禅家(ぜんけ)の唱える「無」も、これは幾度となく前に述べた通り、古武道立身流の「満月之事」と、全く同一の妙理を説いているのである。

古武道立身流を評して、「動く禅」といわれているが、誠に適切な評言だと思う。

道歌に云う。

  立ち向ふ時の心は明月の
    くまなく照らす姿なりけり

古武道は勿論単に剣を弄する術ではない。又、決して自己を守り、敵を制するための手段だけのものではない。

相対の我を絶対の無我たらしめ、心身を自由自在、金剛不壊の大自在にいたらしめ、より高大なる自己を創造するため、全身全霊を提げての、苦心惨澹たる修行にほかならないのである。(完)

古武道に学ぶ心身の自由(二)

日本古武道振興会会長 立身流第21代宗家 加藤 高
初出 月刊柏樹1995年3月号(No.144) 平成7年3月10日株式会社柏樹社発行
令和2年(2020年)5月23日 掲載(禁転載)

古武道の練磨にあたっては、常に思念工夫を怠らず、心身を最大限に、練って、練って、練り上げているうちに、やがて自由、自在な働きが出来るようになり、何時しか堂に入り、必勝の原理の妙味を体得されるものである。

戦前、戦時の中等学校では、剣道は厳然たる、独立した教課であった。私は往年の若かりし頃、当時の中等教諭として、剣道と国語、漢文を兼任していたが、はからずも剣道の全国的な公開研究授業の担当を指名されたので、慎重に剣道の年間指導計画やら、担当時間の教案とか、その他の必要書類を整備して、公開研究授業に臨んだところ、文部省関係の先生方はじめ、授業参観の専門家の先生方から、好運にも分に過ぎた最優秀の模範授業であるとの好評を頂戴した。

これは学校長はじめ、全教職員の全面的な指導協力と、優秀な生徒達の努力の結果にほかならない。

公開研究授業と無事滞りなく済んで、いよいよ最後の質疑応答になった。私は壇上に着席して色々な質間に応答していたが、そのうちに某校のある教諭より、「虚弱生徒に対する指導対策如何」との質問を受けた。当時はどこの学校でも、病弱な生徒に対しては、実地指導は免除し、ただ見学させるのが普通で、特別な指導対策などというものはたてておかなかった。勿論、私もその程度で、公開研究授業のために整備してあった各種の書類や資料中にも、その事については全然記載してなかったのである。その盲点を指摘しての質問であった。壇上にいた私は、相手の意地悪なこの質問に、思わずむっとして、「そういうあなたは、一体どういう指導対策をやっておられるか」と大声一番、反問したところ、満場の一同、途端にどっと爆笑の嵐しばしやまず、収拾のつかない状態であった。

やがて最終段階に入り、文部省派遣の先生方の講評があった。日く、「加藤教諭の剣道の実地指導の授業は、まことに微に入り、細を穿った、一点の非のうちようもない理想的な、申し分のない模範授業であるが、最後の段階の質疑応答の時間に、相手の質問には一向に答えずに、『そういうあなたは一体どういう指導対策をやっておられるか』と声を励まして反問したのは、甚だ宜しくない。とにかく、先ず一応、自分の見解を述べてからのことである。この点、猛反省を促さざるを得ない。併し、全体を総括してみると、まあ立派な公開研究授業であった」との批評を受けたので、私は苦笑せざるを得なかった。

つまり、相手の辛辣な質問に対して、平常心を失った言動をとったのが、千慮の一失であって、私の常日頃の、精神修養の未熟さを遺憾なく露呈した結果となったのである。

剣を執って敵と相対峙した場合には、心を微塵も動揺させることがなくとも、その他のあらゆる場合に於いて、その心境を持続し、活用させることが、如何に困難なことであるかを、身をもって体験した次第である。

前記の通りの質問に対して、精神鍛練に未熟な私が、古来から古武道立身流心法の七戒 (驚・懼・疑・惑・緩・怒・焦 (きょう・く・ぎ・わく・かん・ど・しょう)--立身流では以上の七つがまったく消滅した「空 (くう)」の境地に悟入することを学ぶ。前号参照) のうちの、「怒」の状態にまで、完全に心が動いてしまったのは、全く往時宮本武蔵との試合の際に於ける佐々木小次郎の轍を踏んだもので、生来の不敏のいたすところとはいいながら、内心甚だ忸怩たる思いであった。

別件ではあるが、私は往年の学生時代に、中野正剛先生より雄弁法講話の指導を受けたことがある。

先生は夙に雄弁家として、名声嘖々たるものがあり、その演説を拝聴するに、満堂の聴衆を完全に魅了し、感動させて、やがて陶酔させてしまう程の迫力があった。

  辨すでに中野の如く冴えぬれば
    長広舌もおもしろきかな

こう当時謡われたほどの人物であった。

ついでながら付記しておくが、この中野氏は戦時中、東條英機氏と当時の国策に対する見解を異にして、遂に憲兵に逮捕され、その後、一時釈放されたが、その間に自決された悲劇の人物である。

有為の人材でもあり、愛国者でもあったが、悲運な方であった。

その中野氏が言うには、「大衆の前で演説するには、聴衆の数の如何にかかわらず、決して恐怖心を起こすような事があってはならない。そうかといって、集った多くの聴衆の、学識人物の程度を軽視して、かりそめにも気をゆるめて、侮るような事があってはならない。大衆は大智識であると思わなければならない。又、聴衆の態度が大変悪く、非礼をきわめるような場合もしばしば見受けられるところであるが、決して驚かない事が肝要だ。聴衆がこちらの演説に一向に耳を傾けずに、相互に盛んに私語をかわして、ざわめくような事があっても、気をもんでいらいらしてはいけない。その他、無礼な弥次などを飛ばされても、一向に気にしないことだ。どんな事を怒鳴られても、絶対に腹を立てない事が必須不可欠の条件である。以上の事を固く肝に銘じて、怠らずに弁舌に数をかけていけば、誰しも何時しか必らず堂に入らん」とのお話しであった。

中野氏の説くところは、言葉の表現方法には多少の相違点もあるが、古武道立身流の七戒と、全く同一内容のことを主張しておられることが、十分了解されたのである。

その後、学生弁論大会に私が出場した際に、演説最中、失礼千万な弥次妨害が頻発した。中には「鈍感」などという、全く聞くに堪えない毒舌をふるう聴衆もあったが、私はいわゆる馬の耳に念仏で、耳をかさなかった。やがて次第に静粛な雰囲気になり、しまいにはシンとなって、演説終了時には、万雷の拍手であった。

これなどは、古武道立身流の心法の活用の事例というべきではなかろうか。これも学生時代のことであるが、剣道範士の大島治喜太先生の熱烈な勧誘により、私は剣道稽古のかたわら、銃剣術の御指導に預かったのである。

大島先生は銃剣術の達人でもあり、先生の経営しておられた健武館道場では、剣道と共に銃剣術も指導しておられた。

さて銃剣術は構は剣道とやや異なるけれども、気分(敵と相対峙した時の充実した気勢)、間合(敵と我との距離のとり方)、突く機会、目のつけ方、体さばきなどは全く剣道と同一であって、従って暫く稽古をつんだところ、あまり突かれなくなった。

当時、大島先生は陸軍戸山学校の武道教官も兼務しておられたので、私は先生のお供をして、陸軍戸山学校にも稽古に行ったのである。

陸軍戸山学校では、将校学生と、下士官学生が、剣術、銃剣術、その他の体育を研修していたが、わけても下士官学生の銃剣術は、朝稽古、間稽古(まげいこ)(昼休み間の稽古)、午後の稽古等、数時間にわたって実施され、壮烈をきわめ、その稽古量は、ゆうに私の数倍はやっていることは確かであった。

或る日、大島先生の指示で、その猛稽古をつんでいる下士官学生中の、選ばれた数名の猛者連中を相手に、私は試合を命ぜられた。

陸軍戸山学校の試合は、実戦の場合を想定して、総べて一本勝負である。その結果、私は好運にも、辛くも全勝することができた。そして銃剣術五段を允許されたのである。

その時私は、「成り上がり者の私のような者が、銃剣術五段を允許されるようでは、剣道は十段を允許されてもよい筈である」と、呵呵大笑したものである。

古武道に於いては、「上手は武器を選ばず」といわれているが、決して上手でもない私如き一介の武骨者が、はからずもその時、全勝することが出来たのは、いわば古武道立身流の必勝の原理の、活用の結果のいたすところと考えざるを得ないのである。

後年、支那事変がはじまって、やがて第二次世界大戦となり、その真最中、私もアジア全域と南方方面にわたり、西に南に、各地を転戦するにいたったが、当時、日本軍は、まだ破竹の勢いの、連戦連勝の時代で、米英軍は支那軍より遙かに弱いというような、行き過ぎた驕慢な風潮が、公然と横行していた頃でもあった。

たまたま南方作戦中、攻撃前進中に、待ち構えた米軍の重砲、野砲の一斉集中射撃にさらされたことがあった。幸いにも、最初の一斉射撃の砲弾は、いずれも数百メートルの前方に落下して、人的被害は皆無であった。間もなく修正されて、第二次斉射の始まることは必定である。そのあまりにも物凄い目前の砲爆を見て、多くの部隊は、その危害予防を考慮して、余儀なく一時、後退転進したのである。

私はこの時、咄嗟に判断して、この状況下に於いては、却って前進する方が安全だと察知して、急遽今しがた砲弾の落下した地点まで前進して、その弾痕に入り、一応、装具をはずして休憩していたところ、果たせるかな、米軍の第二次斉射が開始され、今しがた後退退避したばかりの友軍の真直中に落下しはじめ、砂塵爆煙、濛々として咫尺を弁ぜず、黙視しがたい状態であった。私達一同は、弾痕の中で休憩しながら、その実況を眺めつつ、「前に進んでよかったなあ。あの真向から集中射撃を受けているのは何中隊か」などと話合っていた。

咄嗟の瞬間的な状況判断と、その場の適正な処置。これは如何なる場合を問わず、古武道立身流の心法に於いて、最も重視されているところであって、この場合も、米軍の砲撃被害を無事に避けることが出来たのは、言うなれば古武道立身流の、必勝の原理(前号参照)に基づくものであったと今もって思われてならない。

但しその時の、米軍砲兵の練度の高かったことも改めて認識した。将来とも、どうしてなかなか悔りがたいものがあることを痛切に予感した次第である。

さて前号冒頭に記した通り、古武道立身流は、居合、剣術を表芸とする総合武術であるけれども、その中でも俰(やわら)(柔術)は相当重視されている。

それは古い源平時代から、甲冑の著しい発達にともない、戦場に於いては太刀討ちだけでは、容易に勝負がつかなくなって、必然的に鎧組討(よろいくみうち)が行なわれるようになったからである。

立身流俰の形(やわらのかた)は四十五本あって、その構成は他流の柔術と大体同じで、投業、当身業(身体の致命部を撃突して痛める業)、締業(首又は胴を締めて痛める業)を主体とし、それに各種の活法(かっぽう)(気絶した者を蘇生させる法)を加えたものであるが、立身流俰の特長は、逆業が特に発達している事である。そしてその逆業は肘関節はもとより、手首、足、その他全身の関節に及んでいる。

又、当身業は比較的数が少ない。これは前記の通り、甲冑の著しい発達にともない、戦場に於ける鎧組討では、当身業の効力がおのずから、ある程度の制約をうけるからである。この点、素肌闘技を主体とした空手、あるいは中国拳法、ボクシング等とは、全く正反対の立場におかれるように思われる。素肌では当身業の効力は絶大である事は言うまでもない。

逆業は体力には関係なく、平時に於いても、戦場鎧討組の場合でも、その効力は絶大で、熟練すれば一瞬にして敵を制することが可能である。

(以下次号)

古武道に学ぶ心身の自由(一)

日本古武道振興会会長 立身流第21代宗家 加藤 高
初出 月刊柏樹1995年2月号(No.143) 平成7年2月10日株式会社柏樹社発行
令和2年(2020年)5月22日 掲載(禁転載)

戦乱時代に発生した日本古武道の各流派は、生死をかけた戦場の真剣勝負において、如何なる強敵に遭遇しても、必ず勝って武門としての責務を果し、一門の名誉を保持しなければならなかったので、何はともあれ、絶対に不覚をとることのない、必勝の原理を体得するために、四六時中、常に刻苦して、古武道の練磨に最大限の努力を傾注した。

その手段方法は、各流各派によって多少異同があるようだが、私は下総旧佐倉藩に古くから伝承されてきた古武道立身流宗家第二十一代を継承しているので、立身流の伝書に記載されている奥義と口伝を基にして、これを中心にして記述することにする。

なお立身流は四百数十年前の、永正年間の武将、立身三京が創始したもので、時代が古いので語句が難解であるばかりでなく、その含蓄を深くするために、わざと字句を簡略化した部分が少なくないので、ここでは立身流を学んでいない者にも理解してもらえるように、これを分かりやすい現代語に書きなおして記述した。

立身流伝書に説かれている必勝の原理を詳細に説明するとはてしがないが、大きく分けると大要、次の三つである。
(一) 敵の動静を明らかに把握し、敵が動作を起こす前に、敵の意志を察知して、機先を制すること。これを立身法では「匂の先」という。
(二) 自分の心身の働きが自由自在になって、最大限の機能を発揮すること。
(三) 敵には全然こちらの意志を察知することができない状態にすること。

(一)の解説。
月が水中に影を映すとき、水面が静かであればはっきりと映るが、波立ってるとその形が歪み砕けて正しく映らない。これと同様に、心に少しのわだかまりも動揺もなく澄みきった精神状態であれば、敵の為すこと、思うことが、さながら明鏡に映るようにわかってくるものである。この心境を立身流では「水月の位 (すいげつのくらい)」ともいう。そして敵のわざの起こりをとらえて撃突して勝っ方法である。道歌に、

  うつるとも月も思はずうつすとも
       水も思はぬ猿澤の池

(二)の解説。
生死をはなれて、勝敗を全然念頭におかず、心を惑わす何ものもなければ、一刀忽ち萬化し、萬変に応じ得てとどこおることなく、尽きることもない。

(三)の解説。
心に思うことがあれば、何時とはなしに外に現われて、それを敵にさとられるものであるが、無心であれば、入るに跡なく、出づるに形なく、色もなく、香もない精神状態であるから、他人にも窺い知られることもない。

以上の三つの条件を満たすために、立身流修行者は、心法(心のはたらき)、技法(わざのはたらき)の最大限の機能を発揮できるように鋭意、多年稽古に励み、心身の修練を重ねる次第である。

立身流は剣術、居合を表芸にした武術であるが、如何なる事態に直面しても即応できるように、その他、俰(柔術)、鎗術、薙刀術、棒術、半棒術、四寸鉄刀(手裏剣)、捕繩術、集団戦闘法、物見にわたって一通り演練をつむ総合武術であって、各種武術の技法(わざのはたらき)はそれぞれ異なるが、奥義の三つの必勝の原理は、各種武術とも全く共通しており、同一である。集団戦闘法もその通りである。

二天一流の宮本武蔵の『兵法三十五條』にも、「此道大分兵法(このみちたいぶのへいほう) (集団戦闘法)、一身之兵法(いっしんのへいほう) (狭義の兵法で武術をさす)に至迄、同意なるべし」と明記している。

特に注目すべきことは、立身流流祖、立身三京は、この三つの必勝の原理を、単に生死を争う場合にのみにとどめずに、広く活社会にこの原理を活用して、世のため、人のために大いに貢献すべきことを強調していることである。

なお、心法、技法といっても、これは全く表裏一体の不可分の関係にあるので、いわゆる一にして二ならざるものであるが、最初に順序として、最も重視されている心法について述べることにする。

心身の自由自在な働きをするためには、事に臨んで、ある一つの事にこだわって、その事に注意力が奪われることがあってはならない。これを立身流では「止心 (ししん)」といって、古来から深く戒められている。

或る一つのことに心を止めると、その事にこだわって、心身の自由な働きができなくなり、臨機応変の処置がとれなくなるものであって、生死をかけた戦場、真剣勝負では大きな妨げとなり、判断を誤らせるものである。勝負に関係のない仏教でもこれを「執着 (しゅうちゃく)」といって嫌っているようである。

あたかも、山に木々の葉が茂っているのを、遠くから離れて全体を見れば、青葉や紅葉に彩られた山の美しさは分かるが、近よってその美しさを構成している一つ一つの木々の葉を細かく注目すると、全山を包んでいる彩色の美しさは分からないようなもので、相手に対しても、その一箇所に心を止めれば、敵の全体の動静は分からなくなるものである。

着眼でも一箇所に止まることは、甚だよくないことである。電車の中で外の電柱にのみに注目すると、電車の進行しているのが分からずに、電柱が動いているような錯覚をおこすようなもので、常に相手の全体が見透せるようにしなければならない。

間合(敵と我との相対峙する時の相互の距離)をとる場合も、間合が大事だからといって、間合だけにとらわれて心を止めると、かえって敵に撃突されることになる。又、敵の刀の動きだけに注目して心を止めると、十分な活動ができなくなり、相手に引きまわされてしまうような結果になる。真剣勝負においては一つ事に注目して心を奪われると、他の活動は全くお留守になって、結局は相手に撃突されてしまうのである。勝負の際には、自分の気分は常に相手の機先を制していなければならない。相手がこう来たら、こう防ぐ、ああすれば、こう行くなどと考えては、相手の刀に心を止めているからそういう気持が起きるのであって、いつも相手の後ばかり追って、最後には相手にやられてしまうのである。

古武道においては、一事物に心を奪われると、他は全然活動を休止しなければならないので、あたかも山全部の景色を眺めて、一葉一葉を見ないのと同じ事になるので、一事物に心を止めることを深く戒めている。

  ただ見ればなんの苦もなき水鳥の
     足にひまなきわが思ひかな

という古歌があるが、水鳥は一見すれば、ただ水上にぽっかり浮んで、何事もないように見えるが、水中の見えないところで活動している足は、たえず前後左右に巧みに動かして、寸刻も休んでいない。これと同様に、敵のやり方に応じて、一瞬のうちに絶え間なく、適切敏捷に処置することを、古武道では重視しているのである。

具体的な例をあげれば、敵の打ちこんでくる剣を此方が受けとめたら敵はすかさず退いたので、此方は直ちに追いこんで行き、相手が体当りでくれば此方はこれをかわし、敵が受けとめられたのに心を止めて、あっけにとられていたら、此方はそこをすかさず撃突して勝つのである。

但しこの場合、自分が受け止めたことに心を止めるようなことは絶対にあってはならない。そうなると反対に敵に主動権を握られてしまうことになる。

千手観音に千の手があるのは、一つのことに心をとめなければ、千の手はそれぞれ活動して、皆役に立つが、もしその内の一つだけに心を止めるときは、残りの九百九十九の手は役にたたないということを教えたもので、いわゆる「止心」の戒にあてはまるものである。

一つのことに心を止めずに、次から次へと変転自由自在に、少しも全体の調子にこだわりや無理がなくなると、千変万化に応ずる古武道の妙味が、十二分に発揮されるものである。立身流の免許皆伝に説かれている奥義には、「深夜聞霜」(深夜霜ヲ聞ク)ロ伝とあり、さらに「満月之事」、「半月之事」とあり、口伝として「満月を撃突すべからず」、「半月を撃突すべし」と教えられている。深夜に霜を聞くとは、換言すれば無我の心境、無念無想の境地に悟入することを指しているので、多年にわたり刻苦洗練された修行の結果、最後に到達した最高度の心身の機能の活用であって、事物に心を止めるなというのも、必勝の原理というのも、つまりは見方を換えて同じことを言いあらわしたにすぎないのである。立身流道歌に、

  深き夜に霜を聞くべき心こそ
     敵にあひての勝をとるなれ

さらに詳述すれば無我の心境、無念無想の境地とは、驚・懼・疑・惑・緩・怒・焦 (きょう・く・ぎ・わく・かん・ど・しょう)の七つがまったく消滅した「空」の精神状態をいうのである。

驚(きょう)とはびくっとして心がぐらつくこと。懼(く)とはおそれてすくむこと。疑(ぎ)とは意外なことに直面してうたがうこと。惑(わく)とは疑ってどう対応したらよいか分からず処置に迷うこと。緩(かん)とは緊張した気分がゆるむこと。怒(ど)とはむっとして腹をたてること。焦(しょう)とはあせっていらいらすることである。

「満月之事」とは以上の七つが、まったく起こらない心の活動状態を言うのである。

「半月之事」とは以上の七つのうちの、どれかが発生した心の状態を指している。勿論、いくつか同時に発生する場合もあり得るはずである。

もし敵が「満月」の精神状態にあるときは、これを「半月」の状態に知らず識らずのうちに巧みに誘導して撃突すべきことを教えている。

宮本武蔵などは、相手が強敵の場合には、しばしばこの方法をとって勝っている。かの有名な佐々木小次郎との試合の時も、小次郎に対して、武蔵はわざと約束した試合時間に数時間遅れて行って、小次郎をいらいらさせ、やがて小次郎と直面した際に、なぜ遅刻したかという小次郎の詰問に対しては返答せず、小次郎が怒髪天を突いて、いきなり切りかかったその出はなを、機先を制して例の大木刀で一撃のもとに打ち倒して勝利を得ている。つまり若き小次郎が、武蔵の 焦 と 怒 の誘導戦略に完全に乗せられて一命を失ったのである。余談であるが、医学者・歌人で有名な斎藤茂吉は、若くして武蔵に敗れて一命を失った天才剣士・佐々木小次郎に対していたく同情して、大正十年十一月二日、二人が試合した厳流島を訪れて、次の一首を詠んだ。

  わが心いたく悲しみこの島に
    命おとしし人をしぞおもふ

その後も斎藤茂吉は昭和五年八月、『文藝春秋』に「厳流島」という随筆を発表した。さらにまた、昭和二十四年、「厳流島後記」を発表している。

なお立身流では、心身の機能の最大限に自由自在な活用を体得させる手段として、古来から居合数抜き三千本、剣術立ちきり三千本の猛稽古を実施し、それを通した者には、さらに一万本の荒修行を課して、如何なる困難苦境にも堪え得る剛強な剣士を育成したのである。

立身流の深夜霜を聞くの心境、即ち無我、無念無想の境地を二天一流の宮本武蔵は、兵法三十五箇条の最後の項に、「萬理一空の事」という語句で表現している。そして註に、「萬理一空の所、書きあらはしがたく候えば、おのづから御工夫なさるべきものなり」と結んでいる。まことに傾聴すべき至言である。

立身流に於る独稽古 ~再び立身流門へ

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和2年(2020年)5月10日 掲載(禁転載)

新型コロナウィルスの世界席捲が続いています。
以下、主に初心者向けに記します。

第一、目標

最終目標は「我心體自由自在(わがしんたいじゆうじざい 立身流秘傳之書)」です(なお、立身流第19代宗家 加藤 久 論考「居合術の目的と其の修行」を参照)。ここに達すれば「心目體用一致」(拙稿「立身流に於る「…圓抜者則自之手本柔ニ他之打處強之理・・・」」参照)が実現できます。
しかし、だからといって先走り、特殊状況を設定し敵の攻撃変化を種々想定してこれに対応する方法を研究するようなことはしてはいけません(拙稿「立身流に於る形・向・圓・一心圓光剣・目録「外」(いわゆる「とのもの」の意味)参照)。個癖を増やして定着させるだけです。いたずら、遊び、としてたまに楽しんでみるだけならいいかもしれませんが、稽古してはいけません。稽古はあくまでも基本を求めてください。
後掲の道歌中にある「工夫」の意味や対象を取り違えてはいけません。その前に「数を抜いても」とあるとおり、数抜についての、ということは向圓での動きについての工夫を本来は求めているのがこの歌です。

第二、立身流での独稽古についてまとめてみます

一、主な項目
立身流の内容は全て独習可能です。普段も各自が行っているはずのものですから、その延長と考えてもらえれば十分です。
次に主な項目を挙げてみます。

(一)居合
既に示し、後記にもある「日々夜々に~」の歌のとおりです。

(二)数抜 (かずぬき)
居合立合表破の向と圓を交互に抜きます。
前に歩きつつ抜刀し斬ります。
後へ退きさがり歩きつつ納刀し、元の位置に戻ります。
発声は、抜刀しつつ「ヤー」、斬りおろしつつ「エーイ」です。
拙稿「立身流に於る形・向・圓・傳技・一心圓光剣・目録「外(いわゆる「とのもの」)の意味」を参照してください。

(三)礼法
拙稿「立身流に学ぶ~礼法から術技へ~」記載のとおりです。

(四)観取稽古
拙稿「立身流に於る「観取稽古」」記載のとおりです。
動画や写真を研究して観取ることもできます。
私の動画などを利用し、真似をしてはならない点等を含め、研究してください。

(五)足蹈 (あしぶみ)
拙稿「立身流に於る足蹈と刀の指様」及び「立身流剣術表(之形)に於る足どり」記載のとおりです。 

(六)各種形や桁打・旋打・廻打
剣術、鎗、棒など各種形や拙稿「立身流に於る桁打、旋打、廻打」記載の受方仕方を別けての一人稽古。また各種目の基本稽古。

二、注意
独稽古を長期間続けていると、必ず個癖が生じます。
個癖が拗れて修復不可能となる前に師匠の指導を受けて矯正してください。

第三、独稽古の方法の工夫

各人の修行程度に応じた工夫を、各人それぞれがしてください。

一、本身を使うのが無理ならば模擬刀を、これも無理ならば木刀を、大刀が無理ならば小刀を、これも無理ならば扇子を、扇子もなけば何も持たずに。腰の動きに特に留意すること。
長物や俰も。俰の受身や体捌。

二、そして例えば、一日一度は刀を抜く。抜かなくとも,柄を握る。木刀、撓の柄を握る。握らなくとも触る。触らなくとも握った手をつくってみる。イメージ・トレーニングをする。

三、日常生活での動きを武道の動きとする。例えば立った姿勢、座った姿勢、歩き、手の内。

第四、

私にも、長期間稽古の時間が取れず、所謂イメージ・トレーニングだけですごした時期があります。そのとき、伯父の加藤貞雄第20代宗家や長野弘師範から「久しぶりに見たら、稽古の機会がなかったのに、強い思いだけでとてもよくなった。」と同じようなほめかたをされ、うれしかった経験があります。
皆さんも一日一度は立身流を想ってみてください。それだけでも上達します。

第五、

令和2(2020)年3月24日に示した4首の立身流道歌を、クレール・シモン立身流フランス支部長がフランス語に訳し、支部員に伝えました。これを次に掲げます。
哲学者のクレール氏(上傳・直之巻迄の5巻允許)は、夫君の人類学者ピエール・シモン氏(上傳・変働之巻迄の6巻允許、平成26(2015)年5月3日逝去)と共に先代高宗家以来の流門であり、ピエール氏の設立した支部を引き継いで頑張っています。

立身流歌、フランス語訳、 2020年4月
クレール・シモン (Claire Simon)

1 –
日々夜々に
向圓を
抜ならば
心のままに
太刀やふられむ

Si jours et nuits
Vous dégainez
Mukô et Marui
Vous pourrez manier le sabre
Comme vous le voudrez

2 –
鬼にても
負けじと思ふ
心にて
わが身の術を
獨りみがかむ

Avec à l’esprit
L’idée de ne pas perdre
Même contre un monstre
Il faut perfectionner seul
Sa propre technique

3 –
怠らず
数を抜いても
工夫をも
せずば稽古の
いかで上がらん

Bien que sans relâche
Vous multipliez le nombre de dégainages
Sans vous poser de questions
Comment pourriez-vous progresser
Dans la pratique ?

4 –
習ふべき
師には細かに
尋ぬべし
問はぬ心は
いかで志らせん

Il faut poser des questions
Précises au maître
Auprès duquel vous apprenez
Comment pourrait-il connaître
Le cœur de celui
Qui ne le consulte pas ?

以上

新型コロナウイルスによる定例稽古中断の状況を受けて

各位
中国武漢発コロナウィルスの席捲により、独り稽古を強いられている方が多いと思います。
東日本大震災の際に示した(平成23年3月)立身流歌の二首に二首を加えます。

日々夜々に 向 圓を抜ならば 心のままに太刀やふられむ
鬼にても 負けじと思ふ心にて わが身の術を 獨りみがかむ

怠らず 数を抜いても 工夫をも せずば稽古の いかで上がらん
習ふべき 師には細かに尋ぬべし 問はぬ心は いかで志らせん
 
私への質問はいつでも応じます。

令和2(2020)年3月24日

立身流宗家 加藤 紘

1952年(昭和27年)前後の立身流を含む日本古武道振興会会員写真等

立身流第22代宗家 加藤 紘
[令和2年(2020年)2月23日掲載/令和4年11月28日改訂(禁転載)]

⑴ プログラム
1951年(昭和26年)9月8日サンフランシスコ講和条約が調印され、翌1952年(昭和27年)4月28日に発効した。
この年、10月30日に日本古武道振興会主催の「明治天皇御生誕百年大祭奉祝全国古武道各流大會」が明治神宮外苑相撲場で開催された。
この大会のプログラム、及び松本学日本古武道振興会代表者より加藤高立身流第21代宗家への参加礼状を次に掲載する。

⑵ 写真
そのころの日本古武道振興会の会合写真を次に掲載する。

日本古武道振興会の会合写真 [立身流所蔵]

この写真は前記⑴記載の大会の際のものである可能性もあるが、プログラムに載ってない先生も写っている。
その当時前後から東京日比谷公園内にある野外大音楽堂で日本古武道振興会主催の古武道大会が何回か開催され、私も何度か父の高に連れられて見学した。その関係のものだとすると、会場は焼失再建前の日比谷松本楼2階の可能性もある。
写っている先生方につき、私に判別できる範囲で流名と氏名(敬称略)を記した。
24番の三田村武子先生は推測である。
新たな情報や誤りの訂正の情報を頂ければ幸いである。

日本古武道振興会の会合写真(人物説明番号付記)[立身流所蔵]

①松本学 ②不明 ③小野派一刀流 笹森順造 ④日置流 浦上栄 ⑤香取神道流 杉野嘉男 ⑥不明 ⑦双水執流 杉山正太郎 ⑧不明 ⑨天神真揚流 宮本半蔵 ⑩双水執流 佐藤昇一郎 ⑪天神真揚流 相宮和三郎 ⑫不明 ⑬根岸流 齊藤聡 ⑭神道夢想流 清水隆次 ⑮念流 川内鐡三郎 ⑯不明 ⑰不明 ⑱香取神道流 鳥飼よし ⑲神道夢想流 西岡常夫 ⑳不明 ㉑鹿島神流 国井道之 ㉒不明 ㉓不明 ㉔天道流 三田村武子? ㉕不明 ㉖小野派一刀流 小野十生 ㉗立身流 加藤貞雄 ㉘立身流 加藤高 ㉙鞍馬流 柴田鐡雄

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
令和4(2022)年11月28日追記(元 ⑲不明)
2022年(令和4年)11月にスペイン在住オスカー・イバネス氏より⑲の方は西岡常夫先生ではないかとの指摘を受けました。神道夢想流杖術の江角和敏先生にお尋ねし、確認することができました。ありがとうございました。

日本伝統武道に於る形と型 ~立身流を例として

立身流第22代宗家 加藤 紘
[令和2年(2020年)1月5日 掲載/同4月14日改訂(禁転載)]

第一、はじめに

本論考は立身流に於る「かた」の語並びにこれを表す「形」及び「型」の両字の意義、ひいては日本の古流武術武道でのそれらを探るものです。
とはいっても、そもそも、立身流で使われる字は「形」のみで、古文書を含め「型」の字の使用例は皆無です。
立身流では型の字は一切用いません。
私の知る限り他流を含め武道関係の古文書の手書で「形」の字はよくみますが「型」と記されたものをみたことはなく、その使用例はありません。
ところが現今、古武道関係者の間でも「形」でなく「型」を使う例が多くなっています。
なお、古武道流派によっては形と同じ意味読み方で他の漢字(勿論、「型」でなく)を充てる場合や、形の意味で他の語を使用する場合もあります。

第二、形の意義および立身流での用字例

一、まず、立身流ひいては日本武道での形の意義につき述べます。
拙稿「立身流について」(初出 平成17年9月1日千葉県芸術文化団体協議会会報)で次の様に記したとおりです。
「…形は、動作の決め事で、闘いの経過を技毎に類型化したものである。師が撃ちかかり、門人がこれを対処する形式をとる場合が多い。一般的に、流儀の違いは形の違いに基づく面が大きい。
闘いでは、あらゆる事態に対応し、敵のどのような動きも制しなければならない。その種々雑多な動きから、すべての動きの素となる基本の動きが抽出され、純化される。これが形である。形は単純の中に千変万化を含んでいる。簡素の中に絢爛を包含している。そして、その洗練された動きが様式美を生み出す。…」「形には教育課程としての意義もある。…」

形は「…敵ニ因リ轉化ス…」(立身流第11代宗家・逸見柳芳「劍術抜合理談」)る源です。
なお拙稿「立身流に於る 形・向・圓・傳技・一心圓光剣・目録「外」(いわゆる「とのもの」)の意味」(平成26年8月3日)を参照して下さい。

二、立身流での用字例
立身流傳書15巻(いわゆる正傳書)に「形」の字そのものは出てきません。勿論「型」の字もありません。
しかし「立身流刀術極意集」などの古文書には随所に「形」の字が使われています。単語としても例えば「表形」(おもてのかた)、「五合之形」(ごごうのかた)、「形試合」(かたしあい)、「柔術表形居組」、「柔術表形立合」等の記載があります。
他方「型」の字の記載例は一切ありません。

第三、指定無形文化財の指定対象としての立身流の記載

一、千葉県及び佐倉市による指定無形文化財の保持者は個人ですが、無形である指定対象の名称についての表記は次のように変遷しています。

①1966年(昭和41年)9月26日 千葉県佐倉市指定 
 保持者  加藤貞雄  加藤 高
 名称   佐倉藩伝承武術立身流居合

②1978年(昭和53年)2月28日 千葉県指定
 保持者  加藤貞雄  加藤 高
 名称   立身流の形

③1985年(昭和60年)11月29日 
 保持者追加認定  加藤 紘
 名称   立身流の形 を 立身流の型 に改める

④2009年(平成21年)3月17日
 名称  「立身流の型」 を 「武術 立身流」 に改める 
 
二、千葉県教育委員会による文化財調査報告書
1、上記第三、一、③記載の名称の変更は、両保持者等立身流関係者と全く関係のない場所で行われ、その了解は勿論事前連絡もないまま、唐突に告示されたものでした。当時の保持者加藤高及び加藤紘は資料添付のうえ、「型」の文字を「形」に戻されるべく直ちに申入れ、その後も申入れを続けました。その結果④の変更に至るのですが、その経緯については平成19年10月30日行われた私への聴取などの調査をふまえた文化財調査報告書が千葉県教育委員会から公表されています。そこに示された(経緯)と(検討結果)を次の2、に転記します。
ただ、名称が「立身流の型」とされていた間も、立身流に関しては千葉県関係を含め、全ての場面で「形」の字を使用する事実上の取扱がなされていました。千葉県の指定名称表記はそれとして、立身流としては歴史的真実に沿った表記をし続け、県もこれを認めていたということです。

2、文化財調査報告書(調査日:平成20年1月、調査:事務局)
〈経緯〉
「天真正伝香取神道流の型」が昭和35年6月3日に、「立身流の形」が昭和53年2月28日に指定される。昭和60年10月16日の千葉県文化財保護審議会において、「立身流の形」および「天真正伝香取神道流の型」の保持者追加認定について諮問・審議がされ、その際に「型」「形」を「型」に統一した方がよいという意見が出された。審議の結果、学問的な立場からは「型」が妥当であるとの考えから「型」に統一されることとなり、昭和60年11月29日付けで「立身流の形」を「立身流の型」へ指定名称を変更した。その際にそれぞれの武道の歴史的な経緯や保持者の意向等が確認されなかったことから、その後、立身流の伝承者から「型」は間違いであり、「形」に戻してほしいとの要望が、再三出される結果となった。平成19年10月30日に審議会委員による調査を行ったところ、「形」は実戦の千差万別の動きをすべて象徴的に内包しているもので、立身流のみならず武道では、伝統的に「形」の字を用いてきたものであるとの説明があり、「形」という字にこだわりを持って使用しているので戻してほしいとの意向が、改めて示された。11月12日第二回審議会で両流派の「型」を「形」に変更する案を提出し、審議の結果、さらなる経緯の確認や他の指定文化財との整合性を図る必要性が指摘され、さらに事務局で調査を重ねることとなった。

〈検討結果〉
改めて「香取神道流の型」保持者の意向を確認したところ、香取神道流でも元は「形」であったが、近年では一般的な書物で「型」が使われる場合が増えたため、指定名称にも異議を唱えてこなかったとのことであった。武道家の著述においては、「形」を「カタ」と読み、すべての動きの源、実戦の千差万別の動きをすべて象徴的に内包しているものとして、固定的な鋳型としての「型」と区別することにこだわる記述を、数多く確認することができる。ただし一方で、文化人類学で「文化の型」というとき、「型」は観念的、精神的なものまでも含めた様式・類型という意味を持っている。「形」が外面的な形象をあらわし、「型」が象徴的・規律的なものも含むと考える学問的な立場もある。国の無形文化財指定では「特定の型や技術」を対象とするのだと説明されており(昭和29年通達)、この「型」は精神的な営為を内包するものという。立場によって用法の異なる言葉を指定名称の中に含む以上、衆人の納得いく名称とはなり得ない。
また、「型」を「形」に置き換えたとしても、「形」はある流派の武術全般をさす言葉にはならないと考えられる。伝統武術では「形」を学ぶことが修業のほとんどすべてであり、「形」には精神的・象徴的にその流派のすべてが示され、そしてその流派を流派たらしめるものが「形」なのだとのことであるが、それでもあくまでも「形」は「形」であり、武術全般イコールの言葉ではない。県が指定対象とするものは、ひとつひとつの「形」「型」として示されるもの総体である以上に、その流派の歴史・精神・技すべてを包含する武術総体であり、「型」「形」を指定名称から削除するほうが、より誤解のない表現になる。
とはいえ「天神正伝香取神道流」「立身流」とすると、各流派の団体組織のあり方が指定対象だととらえられる心配が生じ、また何の流派なのかがわかりにくくなる。そこで、「古武道」「武道」「武術」等の分野を示す言葉をつけることが必要となる。ただし「古武道」「武道」は、大正期以降に政治的な意図をもって導入され普及した言葉であることから、立場によってとらえ方に相違が生じ、新たな問題を生じかねない難しさを持つ。そこで、明治以前に一般的名称であった「武術」を採用したいと考える。流派の前に、分野を示す言葉として添付することとし、「武術 天神正伝香取神道流」「武術 立身流」とするとともに、「式正織部流茶道」は、「茶道式正織部流」として、名称に統一をはかることとする。

第四、「形」「型」について論述した他の文献

一、「形」及び「型」の双方に触れた手元にある文献をみてみます。

「剣道「形」の眞髄」東京高等師範学校助教授 佐藤卯吉(昭和9年(1934年)11月25日発行「武道宝鑑」 編輯兼発行者 野間清治 大日本雄辨会講談社 91頁以下所収)
「眞の意味の『形』は單に枯死せる型に終る可きでない。」
「又折角、今日『形』を遣ふ人はあっても、所謂『型』になって定められた約束に從って太刀を打つ眞以をするといふに止まって、内に活動する生氣に乏しく、形式的技術は如何にも巧妙であるけれ共、之れに伴う氣分の發辣壮大なるものなく、何となく小さい感じのするものがすくなくない。」

「日本伝統武術真諦」(小佐野 淳 平成元年(1989年)11月25日 株式会社 愛隆堂)253頁以下
「伝統武術の形は、現在の空手道のいう型とは異質である。伝統武術の形は、流祖及び各先達が生と死の境地をさまよい、真剣に行じてきた永年の「業の集積、心の集積」としての形である。それに対して、「型」は「いがた」と解し、規格にはまった、個性のない、変化に乏しい同一のものを型と称する。従って古流においては型という文字は用いない。…」

「鹿島神伝直心影流極意伝開」(石垣安造 1992年5月25日 株式会社新樹社)267頁以下
「「形」の字を用い、カタと云う。形は動を伴うものであるから「型」の字を用いたり、カタチと云ってはいけない。これは口伝である。」
「然るに形というものの真意を解せないでいる人が相当に多く、それ等の人々は形を単に型(カタチ)と解釈したり、形の一手々々が何の為に使われているか、その理由さえ辨えずに執行している。」
「…御両者共に「型」の字を用いているが、正しい法定は「形」の字を用い、「型」の字は絶対に用いてはならないと云う口伝がある。」

「日本剣道形の理論と実際」(井上正孝 平成11年(1999年)11月1日(株)体育とスポーツ出版社)24頁
「形は雛形(ひながた)であり、実物より小さい見本で、これには伸縮自在の生命力がある。
型は鋳型(いがた)でありこれは固定的で融通性がなく、その生命がない。したがって日本剣道形は型ではなくて、形と書くのが正しいとされている。

「武道の礼法」(小笠原 清忠 平成22年(2010年)2月10日 財団法人日本武道館)62頁
「「形は生きており、心が通っていることが大切です。「型」は心のない状態であり「形」ではありません。鋳型のように型にあてはまるということは、あくまでも手段にしか過ぎません。」

「武道とは何か――その歴史と思想を探る」【第9回】伝統文化の伝承と「かた」について 天理大学体育学部教授 湯浅 晃(月刊「武道」2016年9月号53頁以下所収 日本武道館)
「そもそも、鋳型の「型」という漢字が日本に入ってきて、それを「かた」と訓読され、それが一般化されたのであるが、文化の領域で「型」という語が使われたのは明治以降であるという。」
「武芸の伝書等においては、「形」「各」「組」「太刀」「組太刀」などの用例がみられるが、現代武道においても、「剣道形」「柔道形」など「形」という漢字が使用されており、「~型」と称した「かた」を筆者は知らない。」

二、上記の各論述はその表現に相違はありますが、ほぼ同一の趣旨を示しています。
これに対し、日本伝統武道に於て、歴史的に「型」の字が使われていたとする論証を私は知りません。

三、ちなみに、他の文化の領域で「形」という字が使われる例を探してみますと、世阿弥著「風姿花伝」があります。
岩波文庫版での同書(株式会社岩波書店1958年10月25日発行 校訂者 野上豊一郎・西尾実)では、「形木(かたぎ)」の語が8ケ所(36頁に1回、52頁に1回、71頁に1回、72頁に1回、74頁に3回、98頁に1回)に示されています。
52頁には「稽古とは、音曲・舞・働き・物まね、かやうの品々を極むる形木なり。」とあり、まさに武術武道での「形」の意義と重なり合います。
この「形木」は、同書81頁から83頁及び87頁にわたり4カ所に示されている「本木」と対になる意味合とも解釈できます。同書には他に「翁形」(26頁)「形」(86頁)の語がみられます。
しかし、同書の本文に「型」の字は全く使われていません(72頁の校訂者による脚注には「型」の字がみられます)。

第五、空手等の沖縄古武術(琉球古武術)についてみてみます。

一、「形」と「型」の捉え方 
この分野では「かた」の字に「型」が充てられる場合が圧倒的です。
「形」の字も使われていますが、この両文字の相違への意識は薄く、当然のごとく「型=形」とされています。例えば「武道とは何か」(南郷継正 1977年12月31日 株式会社三一書房)133頁での表題は「第一章 武道と型=形 ――型=形の本質は何か――」とされています。
他方、「本土では、組手だけでなく、型の「競技化」も進み、型という字も「形」に変更される、…」(「型(形)を考察する」小山正辰 月刊「武道」2019年1月号106頁以下所収)、「型をもつ武道には、主に、剣道、柔道、合気道薙刀などがある。いずれも空手の型とは概念も扱われ方も違う。そのせいか、現代武道では″型″ではなく″形″の字が用いられている」(同論文内での新里勝彦「沖縄の空手と『型』について」と題する論考からの引用)というような言い方もされています。

二、考察
1、沖縄古武術の特徴
沖縄古武術は歴史的に独自の発展を遂げており、本州の武道と系統が異なります。
その特徴の中から次の二点をとりあげてみます。

①「手」
 「…もともと沖縄には「手」という呼び方しかなかった…」(「空手道一路」松濤 船越義珍 昭和31年(1956年)10月1日 産業経済新聞社55頁)

そして
「空手の場合、伝統的な理解は《手》=″武術″である」
「《手》は武術であると同時に型でもある」(以上、前掲小山正辰「型(形)を考察する」文内での新里勝彦論考からの引用)

すなわち、空手において現在「型」と表現される語の本来の語は「手」であって、歴史的に「型」(「形」)の字は使わなかったわけです。

②空手には本来流名がなかったことは拙稿「日本伝統武道の流名・呼称・用字 ~立身流を例として」に述べたとおりです。
形はその流儀の存在と流儀間の相違の大きなメルクマールとしての機能もありますから、流儀概念のない場面すなわち沖縄の空手には形の概念もなかったと推認できます。

2、沖縄古武術に関する結論
結局、空手にはもともと、「かた」という語や「型」や「形」の字の使用はなく、おそらく本州での「形」に該当する概念もなかったのではないかと思われます。

第六、総括

以上、日本の本州の古流武術武道には「形」がありますが「型」はありません。
それにもかかわらず、現在、古武道関係者においてさえ「型」の字が多用されるのは次の理由によるものと考えられます。

①明治に入っての活版による印刷での誤植による流布が始まった。
②大正期に本州に紹介され昭和に入って大きく飛躍した空手の関係者が「型」の字を多用したため混同に拍車をかけた。
③第二次大戦およびその後の武道空白が、原史料と伝承者の減少を来し、後継者の記憶や感覚を薄れさせた。

その結果が現在の状況を来しているのではないでしょうか。
「慣行知識の習得と伝承」の重要性があらためて認識されるべきです。

(参考)
立身流入堂訓 第二条 
常に向上の念を失わず先達者に就いて絶えず個癖の矯正に心がけ正しき立身流の形及び理合並びに慣行知識の習得と伝承に心がけよ

以上

日本伝統武道の流名・呼称・用字 ~立身流を例として

立身流第22代宗家 加藤 紘
[令和元年(2019年)12月1日 掲載/令和3年(2021年)1月19日改訂(禁転載)]

第一、立身流の流名は「立身流(たつみりゅう)」です。

立身流傳書十五巻の各巻物のそれぞれの名称は、拙稿「立身流傳書と允許」に示したとおりです。
そこでの例えば「立身流序之巻」、「立身流立合(たちあい)目録之巻」、「立身流居合(いあい)目録之巻」、「立身流俰(やわら)目録之巻」、「立身流直(ちょく)之巻」、「立身流俰極意之巻」、「立身流極意之巻」などの名称を通覧してください。
すぐお分かりでしょうが、立身流の流名は、巻名のすべてに共通して示されている「立身流(たつみりゅう)」です。
「立身流立合(術)」という流名はありません。「立身流居合(術)」という流名や「立身流俰(術)」という流名でもありません。
「立合」とか、「居合(術)」とか、「俰」という語は、立身流という流派の中での特定の一分野、特に形(「型」の字は用いません。拙稿「日本伝統武道に於る形と型~立身流を例として」を参照して下さい。)の上での術技の一分野を指し示すものです。
「立身流秘伝之書」、「立身流之秘」その他、立身流関係古文書でも「立身流」と記載されます。

第二、立身流(たつみりゅう)に付加される各種名称

流名の「立身流」に「藝術」「兵法」「居合」「剣術」「俰」その他の語が付加される場合があります。以下、それらの語およびその意味するところを探ってみます。

一、立身流の一分野を示す場合。

①「立身流居合(術)」
 立身流の居合には、立合(立った姿勢から始まる居合)と居組(正座から始まる居合)があります。組居合などの外は原則として独演形でありかつ敵の反撃を想定しません。「立身流居合目録之巻」での「居合」はこのような意味です。

②「立身流剣術」
 立身流での「剣術」の語は、後述する「刀術」から、上記①の居合部門を除いたものを指し示します。太刀(大刀)と小太刀があります。立身流では、太刀対太刀の形を剣術表(之)形 (おもてのかた) といい、太刀対小太刀の形を剣術陰(之)形 (かげのかた) といいます。五合之形(ごごうのかた)は双方を含みます。
なお、短刀、鉄扇、四寸鉄刀(しゅりけん)などはこれらを手に持った時の間合いの関係から俰に含まれます。
「立身流立合目録之巻」での「立合」は上記の「剣術」の意味です。
ところが、そもそも立身流の剣術の形には居合対居合や剣術対居合(これらでの「居合」は抜刀を意味します)の形も組み込まれています。独演系ではない居合が含まれているわけです。立身流の伝書に「立身流剣術目録之巻」というものがなく、「立身流立合目録之巻」及び「立身流居合目録之巻」であるのはこのような意味合いでしょう。
他方、歴史的には「剣術」の語で立身流全体の術技や、立身流だけでなく他流をも含めた武術全般を示すこともあります。
立身流での「立合(たちあい)」の語は、最広義では、立った姿勢での刀術(後述)と俰の立合を意味します。つまるところは立った姿勢での武技全般を示すともいえます。
その内の「刀術」は刀を使う武術、すなわち剣術と居合を意味しますから、刀術での「立合」は、一般に使われる意味での剣術(小太刀を含む)と、立った姿勢で敵が受方または仕方として存在する形である抜刀(小太刀を含む)と、立った姿勢から始まる独演系の居合とを示すことになります。

③「立身流小太刀(こだち)
 立身流剣術および居合のうちの小太刀です。小太刀対太刀の形が立身流剣術陰(之)形にまとめられています。他に鎗術(そうじゅつ)の小太刀合(こだちあわせ)その他があります。五合之形詰合や傳技の中などには小太刀の居合があります。

④「立身流俰」
 技の大要は立身流俰目録之巻にまとめられています。「居組」と「立合」に大きく分類される体系は居合と同じです。これに甲冑着用の技(素肌にも応用)である「組合」と口伝二ヶ条、更に心得を記した漢文とで立身流俰目録之巻が成立っています。
短刀、鉄扇、四寸鉄刀などが含まれることは前述しました。

⑤「立身流柔(やわら)」、「立身流柔術(じゅうじゅつ)
 第12代宗家逸見宗八(満信)などについての佐倉藩保受録等での記載に示される用語です。 
立身流術技の一分野の「俰」を意味します。

⑥「立身流鎗(術)(やり・そうじゅつ)
 鑓、槍、などと記される場合もあります。
⑦「立身流長刀(なぎなた)
⑧「立身流棒」
⑨「立身流半棒
(はんぼう)
 半棒は杖(じょう)とも記されます。
⑩「立身流四寸鉄刀(しゅりけん)
その他、例えば甲冑についての「立身流着具之次第(ちゃくぐのしだい)」など、立身流の名を冠した流内での種々の分野を示すその他名称があります。

二、立身流全体を、又は立身流のうち限定した複数の分野を意味する語。

これらは付加語としてだけでなく、立身流そのものを示す独立した語としても使われる場合があります。
①「兵法(へいほう、ひょうほう)
 立身流秘伝之書など古文書の随所にあらわれる語です。
この語のみで立身流を意味する場合と、他流を含めた武術全般を意味する場合があります。後記「藝(術)」とほぼ同じ使われ方です。
「立身流兵法」という語で立身流を意味する用法もあります。
「兵法」の読み方としては両方ありますが、「へいほう」が古くから本来の呼称です。
②「抜刀捕手(ばっとうほしゅ)
 第10代宗家糟谷団九郎についての保受録での記載に記されます。
③「居合柔術縄甲冑勝之業(じょうかっちゅうかちわざ)」  
 第13代宗家半澤喜兵衛や第16代宗家逸見宗八(満明)、第17代宗家逸見忠蔵の項の保受録などの記載に出てきます。
④「藝」「藝術」  
 立身流秘伝之書のほか、第14代宗家逸見新九郎(宗八満直)や第17代宗家逸見忠蔵の項の保受録などの記載にあります。前記「兵法」とほぼ同じ使われ方です。
⑤「刀術」 
 刀(太刀と小太刀)を使う武術、すなわち剣術と居合を意味します  
第11代宗家逸見柳芳筆の「立身流刀術極意集」が残されており、第17代宗家逸見忠蔵や半澤駒太郎(第18第宗家半澤成恒の幼名)の項の保受録や分限帳などの記載にも出てきます。
天保10年には、佐倉藩校成徳書院外附属演武場の取建により藩の刀術所が設置され、逸見忠蔵らが師範(刀術師範)となっています(分限帳、佐倉市史 巻二969ページ)。
⑥「剣術」
 前述しました。

第三、立身流名の変化した俗称など

一、誤った俗称

①立身流(りっしんりゅう)
 「増補大改訂 武芸流派大事典」(編者 綿谷雪 山田忠史、昭和53年12月10日発行。以下、大事典という)に「タツミと読む。」とあるとおりです。
国語(日本語)では、漢字が同じなら読みが変化し、逆に、読みが同じなら漢字が変化してしまうことがよくあります。「りっしんりゅう」は、この前の例です。後の例としては、立身新流 福澤諭吉の師が中村庄米とも中村庄兵衛とも記されたりします。

②立目流(たつめりゅう)
 佐倉藩保受録の第10代宗家粕谷段九郎の項に「立目流」の語が記されています。
立身流の「身」の発音が「み」から東北弁の「め」にかわり、「め」が「目」と記されたもので、誤記です。
拙稿「立身流傳書・古文書等での東北弁表記~「手舞足蹈處皆一物」等に関連して」を参照して下さい。

③立心流 (りっしんりゅう)
 「剣術教範詳解」(陸軍戸山学校剣術科著 昭和十年十二月二十日発行 昭和十四年二月十五日四版発行)に記された誤記です。立身流を「りっしんりゅう」と読み間違えた上での当字(あてじ)でしょう。
大事典では「立身流(たつみりゅう)の俗用」とされています。

④立見流(たつみりゅう)
 佐倉藩保受録の第13代宗家半澤喜兵衛の項に「立見流居合柔術」の記載がみえますが誤記です。
但し、現実に存在した「立見流」もあります。忍(おし)藩の立見流についての後記を参照して下さい。

二、必ずしも誤りとは言いきれない呼称

①立身三京流(たつみさんきょうりゅう)
 大事典では「立身流のこと。」とされています。使用例としては、立身流第19代宗家加藤久の弟子の塚本清著「あヽ皇軍最期の日―陸軍大将田中静壱伝」(日本出版協同1953年12月20日発行)の奥書の著者略歴にみられます。
②立見流 (たつみりゅう)
 忍藩では「立身流」の表記が「立見流」に変化してしまいました。忍藩での立身流は「立見流」です。拙稿「立身流の分流」を参照してください。

第四、他組織での立身流の呼称

一、日本古武道協会(以下、協会という)での呼称

1978年(昭和53年)2月19日に日本武道館内に発足した協会では、流名呼称に「〇〇流△△術」というような表記方法がとられ、この表記方法が日本古武道振興会でも採用され、現在は一般社会的に日本武道の流名の正式な呼称はこのようなものであると認識されるようになっています。しかし例外はあるにしても、この認識は誤りです。「立身流は「立身流兵法」が正式呼称であって「兵法」だから総合武道なのだ」と言う方がいますがこれも誤りです。立身流は立身流です。
手元にある日本武道館(及び協会)主催の日本古武道演武大会のプログラムでも第4回1981年(昭和56年)の頃までは「立身流(剣術)」となっていて流名とその大会での演武内容を併記している様が明確です。第7回1984年(昭和59年)には「立身流 居合術」となっています。
ところがその第7回大会頃から、目次や伝承地を日本地図に示す際に「立身流居合術」等と記載されるようになったことから混同が始まったようです。
特に協会事務局長を永年勤められた花輪六太郎先生が実質取りまとめられて1989年(平成元年)8月1日に発行された「 日本古武道総覧」(編者 日本古武道協会 発行所 (株)島津書房)が古武道流派を「柔術・体術」「剣術」「居合術・抜刀術」等々に振り分けた体裁をとったのが一つの契機と思われます。この本で立身流は居合術に分類されました。本文では「立身流(居合・剣術・俰・鎗術・棒術・半棒・長刀・捕縄・四寸鉄刀)」となっています。
そしてその頃以降、一般にわかりやすいように分類区分けした表示を流名に付加する様求められることとなりました。
立身流は総合武道のまま維持されていますからその一部のみを特記した流名を付するわけにいかず、苦慮した結果、一般への説明を念頭においた「武術」との表記を一時したのですが、さらに歴史的事実に即して「兵法」として現在に至っています。

二、日本古武道振興会(以下、振興会という)での呼称

1、「日本古武道振興会概要(自昭和十年二月 至昭和十四年十二月)」(平成二年七月一日発行 日本古武道振興会創立五十五年記念誌156頁以下に立身流第21代宗家加藤高の提供による資料2として転載)は振興会の発会から1939年(昭和14年)迄の事跡が詳細に記されています。そこでの記載は全て「○○流」のみであって例外はありません。立身流も「立身流」との記載です。

2、立身流の現在の表記は、振興会でも一時期使われた「立身流兵法」ではなく「立身流」とされています。その件についての申請書に経緯を述べましたので、その全文を転記します。

申 請 書

平成29年4月5日

日本古武道振興会御中

立身流第22代宗家 加藤 紘

第1 申請の趣旨
   日本古武道振興会に於る立身流についての表記を
   「立身流兵法」
   から
   「立身流」
   へ訂正なさるべく申請いたします。
第2 申請の理由
 当流の名称は本来「立身流」のみであったところ、昭和54年2月17日設立の日本古武道協会に於て、当時の花輪六太郎事務局長が一般の方々にわかりやすくするため、各流儀名の下に種目を表示した上で流儀名を示す方法をとりました。例えば〇〇流剣術とか××流柔術とかという具合です。
 立身流は総合武道のため上記の例のような表記はし難く、古来使われた表記方法の一つの「兵法」を加える形とし、立身流兵法としました。
 平成2年7月の日本古武道振興会創立55周年記念日本古武道大会の際に作成された記念誌に於いて、編集を担当された齋藤聰先生が、流儀の表記方法を古武道協会と同一にする方向をとり、以降立身流は「立身流兵法」と日本古武道振興会に於いても表記されております。
 以上の次第で、この度当流儀の表記方法を歴史的に真正なものに回復致したく申請するものであります。

以上

3、なお、振興会設立の経緯および時につきふれます。全て松本学先生の主導の下に行われています。
「松本学日記」(編者―伊藤 隆・広瀬順晧 1995年2月20日山川出版社発行)及び前出「日本古武道振興会概要」によると、1935年(昭和10年)1月21日に会設立の話が始まり、2月3日の第一回発起人会で会設立が決し、2月22日の相談、3月3日の第二回の発起人会を経て、3月16日の委員会で4月1日の発会と日比谷公会堂での諸流流祖祭および奉納形大会の催行が決定、昭和10年4月1日に予定通り日本古武道振興会が発会しました。

三、千葉県及び佐倉市による指定無形文化財での名称流儀名は「立身流」です。

前出拙稿「日本伝統武道に於る形と型~立身流を例として」を参照して下さい。

第五、例外

一、日本武道の中でも、空手などの沖縄武術(琉球武術)は独自の発展を遂げており、本来流名はありません。
「空手道一路」(松濤 船越義珍著 昭和31年10月1日産業経済新聞社発行)61頁には次のようにあります。
「…空手には、改まった流儀というようなものはあるべき筈がない。…この際は全てを「空手道」と呼称した方が、将来の発展のために適切…。よく私達の同門のことを、「松濤館流」などという文字を使って呼んでいるのを聞くが、…私としてはどうも頷けないのである。」

二、日本武道の傳書古文書に「〇〇流兵法」というような形式の表題がつけられたものが存在します。その呼称の意義についてはそれぞれの流派内の研究によるものでしょう。

第六、1930年(昭和5年)当時の流名表記

ここに1930年(昭和5年)11月3日及び4日にかけて行われた「明治神宮鎮座10年祭奉納武道形大会順序」の写しがあるので掲載します。
ここでの記載は、演武順序、武道名、流派名、演武者氏名、府縣名ですが、流派名は例外なくすべて〇〇流の形式です。
立身流は勿論「立身流」です。
義珍先生に関しては、第一會場第一日之部で演武順序が「17」、武道名が「唐手術」、流派名が「昭霊流少林流」、演武者氏名が「富名越義珍」、府縣名が「東京府」となっています。
なお、第一會場第二日之部の演武順序「17」で武道名が同じ「唐手術」となっている演武者氏名「新里仁安」の府縣名は「沖繩縣」ですが、流派名は空欄となっています。また、演武順序「36」小西康裕先生の武道名は「唐手拳法」とされており、流派名はやはり空欄となっています。

第七、提言

戦後の古武道の復旧回復成長期に、一般向けの説明広報を意識し、わかりやすく流儀名と演武内容を一体表記した流名呼称を画一的に使用したことはそれなりに意義あるものでした。
しかし、古流流儀名はその内容技とともにその古流流儀の存立自体を意味する重要なものです。その流名自体が歴史的文化的意義を持ちます。現代になって変えるべきものではなく、本来的に変えてはならないものです。
今は既に流名とその実技内容との対応関係はある程度浸透したものと感じられます。インタ―ネットが普及しその確認作業も簡単にできます。
今後は歴史的に真正な名称に回帰すべきです。たかだかこの40年来の間に、○○流△△術というような呼称が正しいと古武道関係者の間にさえ認識されるようになってきました。このような誤解が定着することは避けなければならないと考えます。少なくも明治時代初期の呼称に戻すべきです。
そもそも○○流は〇〇流であって〇〇△△術流ではないのですから用語上も当然でしょう。
必要ならばその都度、その演武会での演武の種目内容を流名とは別に示せばいいのです。
ただここで一つ注意すべきは、ある流儀の歴史的名称は必ずしも単一ではなく、時代により、或いは人により、様々に変化している場合があることです。
現代でも変化させざるを得ない場合があるでしょう。

以上

立身流古文書に於る 不合理的表現の合理性

立身流第22代宗家 加藤 紘
令和元年(2019年)7月1日
[令和元年7月11日掲載/令和2年12月27日改訂(禁転載)]

第一、はじめに

 立身流は1500年代の初頭、永正年間に創始された古い流派です。その傳書や古文書、歴代の研究などは、それぞれの時代の感覚や常識を背景に、その時々の先端知識を反映させています。 そして、その時々の研究成果の表現方法は、それぞれの時代のいわゆる時代的制約の下にあります。
 そのため、現代人が一読しただけでは、現代知識や現代感覚上ありえないだろうと即断しかねない記述もあります。
 しかし、その即断は現代人の浅はかな思いつきです。
 古人はあらゆることを合理的に考え、実践し、体系づけています。とくに勝敗という明快な結果をきたす武術武道においては、その利合(理合)を徹底的に追究せざるをえません。その追究方法はその時代時代の下での合理的知識感覚手法によります。
 例えば理数関係を見ても、立身流三四五曲尺之巻の解釈理解にピタゴラスの定理が応用されてその図が示されていたり、距離測定に数学の相似形が利用されたり、松明や火薬の原料、薬の化学的調合法が事細かに記されていたりしています。
 武道武術に、たまたまの勝ということがあっても摩訶不思議で理解不能な勝というものはありません。「曰く言い難し」というような技はありません。摩訶不思議にみえる勝があっても、それは心法を含めた意味での技(業)によるものであり、正確な技の錬度の違いによるものです。その技(業)は、つきつめれば単純なものですが、それは鍛錬しなければわからず、見えず、できません。これが武術武道の技(業)です。摩訶不思議で人が理解できない技(業)というものはありません。
 立身流に於て「理」は「利」であり、「理合」と「利合」は漢字でのニュアンスの違いはありますが意味は同一です。 現実的合理的に利合(理合)をつきつめた結果の合理的な内容を説明するとき、古人はその表現方法を時代的制約の下に置かざるをえず、一見不合理にみえるだけです。 我々は、武道関係の古文書等で、一見あり得ないような表現、一見矛盾するような表現に遭遇した場合には、その表現で何が意味されようとしているのかを慎重に探らなければなりません。単なる迷信と簡単に片付けてしまってはいけません。 他方、無理に理屈をつけ、未熟で浅はかな現代的思いつきをこねくり回して仕立て上げた「理論」をとうとうと述べる方がいらっしゃいますが、それも論外です。
  以下では立身流関係文書で一見不合理とみえる表現の具体例をいくつかみてみます。
 なお、私の論考自体、時代的制約のもとにあるものです。

世磐広し折によりても替るへし 我知る計りよしと思ふな [立身流理談之巻]

第二、立身流傳書や古文書での具体例

1、「夢の裡に体得」
 立身流の古文書や関係傳書によると、流祖立身三京は必勝の事理を求めて濃州妻山大明神に祈念して37日目の暁、夢の裡に分明し向圓の秘術を得た、とされます。後に第7代宗家大石千助も同様に参籠修行しています。 流祖の前に妻山大明神そのものが現れたわけではありませんが、いわゆる神傳流儀のひとつです。
 これを「こんなことはありえない」と切捨ててしまう人がますが、それは誤りです。仮に、妻山大明神そのものが現れた記述があったとしても誤りではありません。 これは現実そのものを意味します。自らを精神的心理的身体的に長期間に亘りぎりぎりまで追いつめて術理を求めた結果、幻覚をも含めた現実の瞑想状態下で、精神的心理的身体的に開眼したのです。 心法も技法も、疲れ果てた状態下で更に求め続けなければ本物は得られません(拙稿「立身流に於る「…圓抜者則自之手本柔二他之打處強之理…」」参照)が、その結果の、神の啓示の形をとった一種の宗教体験とも言えるかもしれません。 立身流第18代宗家半澤成恒先生の立身流への絶対的態度や信頼の思いは信仰そのものでした。

2、立身流立合目録之巻の「陰 五个 有口伝」(拙稿「立身流傳書と允許」参照)の中から挙げてみます。拙稿「立身流に於る精神統一法」で既に触れたものもあります。

(1)その第一項は「小用」あるいは「小スイ」といわれるものです。 これは体験的にも多くの人に理解しやすいでしょう。 その内容は拙稿「立身流に於る精神統一法」「立身流立合目録之巻陰五个口傳より(その1)」に記しました。「山坂登リ下リノトキ」を一例とするので「山坂」とも称されます。

(2)その第二項に「サムケ」というものがあります。
 「陰五个口伝之分」(逸見柳芳書「立身流刀術極意集」)によると、これは 「敵人我ヲ討タント道筋伏勢有之時ハ裾ヨリサムケ立狐狸之為ニサムケ立ル 類ハエリモトヨリ立也若主用ニテ不得止事時ハ其心得ニテ通ル事私用ニテハ 通ル不可也可心得(てきびと われをうたんと みちすじ ふせぜい これ あるときは すそより さむけだつ。こりのために さむけたつる たぐい は えりもとより たつなり。もし しゅようにて やむことをえざるときは そのこころえにて とおること。しようにては とおるべからざるなり。こころうべし。)となっています。
 これを「狐狸」の語が使われているからと言って、即「迷言」などと言っ てはいけません。着物の裾から寒気立ってくるのは、我が五感で身を低くし ている伏勢の気配を感ずるのだから実害がある。しかし、襟元からぞくぞく するのは狐狸の所為、すなわち気のせいで実害はないから放っておけばよい、 ということなのです。
 頭上からの攻撃の可能性がある場合については、拙稿「立身流に於る下緒 の取扱」に記した「立身流立合目録之巻 外 門戸出入之事」の項を参照し て下さい。

(3)その第四項は「アワ」といわれます。
 「…小便アワ立様アワ無之時凶也アワ多クトモ凶我影移逆ナレハ凶也(…しょうべん あわだちよう あわ これなきときは きょうなり。あわ おおくともきょうなるは わがかげ うつる さかさなれば きょうなり)」(立身流刀術極意集)
 私のような田舎育ちの者には当たり前のことですが、屋外の堅い普通の土への小便は泡立ちます。すなわち、これは当たり前のことを言っています。「泡がたった、だから大丈夫だよ」と心を落着かせているのです。
 さらに念を入れて「太陽光で地面にうつる自分の影が逆さに見えるようでは、逆上して正気を失っているから、うまくいく筈がありませんよ。落着きなさい。」というのです。自分の影が逆さに見えるなどということは通常ありません。ですからこれも、「だから、安全無事ですよ」と気持を安心安定させているのです。

3、立身流居合目録之巻の「陰 五个 有口伝」の中から挙げます。
(1)その第二項は「呼吸」といわれるものです。拙稿「立身流に於る精神統一法」に説明しました。 そこに揚げた文章の前の部分は、「刀術極意集」によれば次のとおりです。
 「戦場平日共気付用心無之時戦ツカレ目マイ立クラミスル時刀ヲ杖ニツキ腰ヲ掛(せんじょう へいじつ とも、 きつけ(薬)のようじん これなきとき、たたかいつかれ めまいたちくらみするとき、かたなをつえにつき こしをかけ、)」となっています。その後に、「「目ヲトチ(閉じ)ホウ(頬)ヲナデナガラ呼吸ヲ一ツツヽカゾヘル也。自然ト心気治也(シンキヲサマルナリ)」と続きます。

(2)その第四は「錫杖(しゃくじょう)」といわれます。
 逸見忠蔵筆「立身流之秘」によると、「深山奥山…錫杖ヲツカイ入ルへシ…(みやま おくやま …しゃくじょう を つかい いるべし…)」となっています。
 錫杖から出る音で人間の存在を知らせ、猛獣や毒蛇を寄せつけないわけです。ひいては「ノフスマト云者有是ハコフモリノ大キナル有ノ如シ…(のぶすま と いうものあり。これは こうもり の おおきなる あるのごとし)」の「のぶすま」(立身流秘傳之書)や、さらには「変化(へんげ)」(立身流之秘)を寄せ付けずに獣害などを避けることができます。
 それでも害獣に襲われた場合は、その害獣の「面目鼻ノ間ニツキ息ヲ留ル(面や目と鼻のあいだを錫杖で突いて息の根をとめる)」わけです。
 錫杖から出る音が悪霊を追払う力があるとされるのは、このような意味あいでしょう。

(3)その第五は「息」といわれます。
 「門出スル時息キヲカク事其ノ息キ鼻之内ニ入レハアシ」(立身流之秘)
 寒い朝など吐息が白くなります。立身流第9代宗家竹河九兵衛から第18代宗家半澤成恒の明治まで、永きにわたり立身流と縁の深かった山形(拙稿「千葉の立身流」参照)の冬には殊更でしょう。
 家を出る時、白い吐息が鼻の内に逆流するときは、良いことがない、というのです。
 空気には流れがありますから通常このようなことはありえず、だから「平穏で大丈夫ですよ」と気持を安定させ、安心させているのです。

4、このようにみてきますと、立身流立合目録之巻と居合目録之巻の2巻で口伝とされるうちの上記した部分は、どれも気の動顚を防ぎ、心を安定させ、平常心を保つための記載です。武道武術にとって心・気持の制御がいかに大切か、目録の段階から示され、先ずは簡単なその方法が示されているのです。
 そしてこれらが、「立身流に於る「心の術」」「立身流に於る精神統一法」(いずれも拙稿)に連なっていくことになります。

第三、東北弁表記の影響

 立身流は山形と縁が深く、そのため東北弁表記、例えば「イ」と「エ」の混同による誤解や誤記が文書等にみられることがあります。
 これについては、別稿「立身流古文書等での東北弁表記」に記します。

以上

2019年 | カテゴリー : 宗家論考 | 投稿者 : 立身流総本部